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佐藤さわりの霊障事件簿 憑き魔 多夢子

本作『佐藤さわりの霊障事件簿 憑き魔・多夢子』は、当初まったく違う発想から始まった。

最初に頭にあったのは“魔女”だった。

西洋の魔女が人の魂を食らい、姿を変えながら街をさまよう――そんなイメージが出発点だった。

しかし、書き進めるうちに、どうしても日本の風土や空気感が物語の中に滲み出てきた。

池袋、大塚、戻橋……そこに流れる湿った空気、夜の川面の冷たさ、アパートの薄暗い廊下。

それらは西洋の魔女よりも、日本の邪霊のほうがしっくりくる世界だった。

そこで、魔女という設定を徐々に捨て、

「人に憑き、魂を食らい、老化や狂気をもたらす邪霊」

という日本的な存在へと形を変えていった。

ただ、困ったのは名前だった。

“魔女”の名はすぐに浮かぶのに、日本の邪霊の名はなかなか決まらない。

響き、意味、恐ろしさ、どこか哀しさ――そのすべてを満たす名前を探し続けた。

そして生まれたのが 「多夢子たむこ」 である。

夢を喰らい、魂を濁らせ、姿を見せずに忍び寄る。

そんな存在にふさわしい名前として、ようやく辿り着いた。

本作は、都市の片隅でひっそりと起きる霊障事件を、

政治記者であり霊障探偵でもある佐藤さわりの視点から描いた物語である。

どうか、静かに忍び寄る恐怖と、日常の裏側に潜む影を楽しんでいただきたい。

第一章:川畑俊彦の異変

川畑俊彦は、身長一七〇センチの大柄な男だった。

池袋の外れにある中小企業のサポート部で働き、毎日クレーム処理に追われている。今日も例外ではなかった。

戻橋の上に立ち、川面をぼんやりと眺めながら、彼は深いため息をついた。

「今日もモンスター・クレーマーが多かったな……嫌になるよ。早く行かないと半額弁当がなくなってしまうかもしれないね」

川面には、疲れ切った自分の顔が映っている。

彼の唯一の楽しみは、スーパーで半額や七五%引きの弁当を手に入れることだった。標準価格のものを安く買えた瞬間にだけ、ささやかな勝利感があった。

立ち去ろうとしたそのとき、川面が一瞬だけ白く光った。

「ひひひ、いただくよ」

耳元で囁くような声がした。

「えっ?」

振り向いたが、橋の上には誰もいない。

川畑は気のせいだと思い、気にも留めず帰路についた。

その夜、川畑は足が冷えて眠れなかった。

もともと血行が悪く冷え性だったが、春の夜にしては異常な冷たさだった。布団も厚く、寝巻きも着ているのに、足先だけが氷のように冷たい。

夜中、ふと目を覚ますと、足元に白い靄が立ちのぼっていた。

「……なんだ?」

背筋に悪寒が走り、川畑は布団を頭までかぶった。

次に目を開けたときは朝で、靄の痕跡はどこにもなかった。

「なんだったんだ、昨日の夢は?」

そう呟きながら、三日が過ぎた。

出勤すると、同僚たちがざわついた。

「川畑さん……どうしたの?」

「えっ?何が?」

「鏡を見てよ」

洗面所の鏡を覗き込んだ川畑は、息を呑んだ。

頭のてっぺんだけ、円形に髪が抜け落ちている。まるで清朝の辮髪のように。

その日を境に、髪はどんどん抜けていった。

気づけば笹野高史のような顔つきになり、目の下には深いクマが刻まれていた。

「え?なんでこうなっちゃうの。まだ三十代だよ、俺は……」

しかし変わったのは外見だけではなかった。

精神も、徐々に侵されていった。

弁当を食べた後、楊枝をくわえたまま奇声を発する。

独り言が増え、「畜生ッ!」など攻撃的な言葉を吐くようになった。

新人社員は「怖い」と言って近寄らなくなった。

サポート部の仕事なのに、客に向かって平然と暴言を吐く。

「そんなのもわからないのか? 豚野郎」

ある日、耳の穴から血が流れ出した。

押さえても止まらない。

「どうしたんだ……俺……」

怒りが絶えず噴き出し、誰も近づけなくなった。

会社もついに手に負えなくなり、川畑は孤立した。

そしてある日、突然奇声をあげて会社を飛び出した。

「ぶっ殺してやる……生かしておかないからな!」

それが、彼を見た最後の姿だった。

翌日、川畑は会社近くの川で溺死しているのが発見された。

検死の際、彼の心臓の上に黒い文字で書かれていた。

――多夢子。

「多夢子って誰なんだ?」

誰もが不思議に思ったが、それ以上詮索する者はいなかった。

ただ、川畑の死を境に、この街の空気がどこか重く淀み始めたことだけは、誰もが感じていた。


第二章:大野満子の堕落

大野満子は、肩にかかるほどの黒髪を揺らしながら、戻橋の上を歩いていた。

肉付きはよいが、決して太ってはいない。むしろ、柔らかな丸みが女性らしさを際立たせていた。

彼女は幼いころから名前でからかわれてきた。

「ま◯こ」

その言葉は、子どもにとっては残酷な刃物だった。

高校を卒業する頃には、ようやくその呪縛から解放されたが、胸の奥に残った傷は消えなかった。

社会人になってからは、外見の良さもあって、同僚から結婚を申し込まれることも多かった。

だが、母親と二人暮らしの満子には、どうしても譲れない条件があった。

――自分たちを引き取ってくれること。

その条件を口にした瞬間、男たちは皆、静かに離れていった。

結婚は遠ざかり、満子は接客業に身を置きながら、母と慎ましく暮らしていた。

その日も、仕事帰りに戻橋を渡っていた。

川面がふっと光ったような気がして振り返ったが、何もない。

春の風が吹き抜け、満子は肩をすくめて家路を急いだ。

しかし、その夜から、満子の体は静かに老化を始めた。

最初は髪だった。

朝、鏡を見ると、髪がぼさぼさに広がり、抜け毛が異様に多い。

会社の同僚は笑いながら言った。

「弁当ばっかり食べてるから、老化が早いんじゃない?」

満子は笑って返したが、内心はざわついていた。

その夜、寝ていると、突然、喉の奥から奇声が漏れた。

「……あ、あああ……」

自分の声とは思えなかった。

翌朝、母親に聞いても「そんな声、聞いてないよ」と言う。

だが、満子は確かに叫んだのだ。

電車のつり革を握っているときも、突然、声が漏れた。

「あたしはこきやの女なのよ……」

意味不明だった。

周囲の乗客が距離を取るのがわかった。

会社でも異変は続いた。

同僚の耳元に顔を寄せ、囁く。

「ねえ……いっしょにいいことしない?」

その声は、満子自身のものではなかった。

どこか湿り気を帯び、ねっとりとした響きがあった。

さらに、彼女の体からは悪臭が漂い始めた。

洗っても洗っても取れない、腐ったような匂い。

満子は、誰かが後ろで囁く声を聞いた。

「人間を辱めれば辱めるほど……魂がうまくなる」

振り返るが、誰もいない。

ただ、母親だけが、娘の背中に白い靄がまとわりついているのを見ていた。

「満子……あんた、何か憑いてるよ……」

母の声は震えていた。

医者に行っても原因はわからず、霊媒師に見せても「私には無理」と冷たく突き放された。

満子の食欲は異常に増えた。

一日四回、食べても食べても満たされない。

一週間で五キロ増え、服は次々と着られなくなった。

会社にも行けなくなった。

体が重すぎて、立ち上がることすら困難だった。

横になりながら、満子はひたすら食べ続けた。

食べている間だけ、背中の靄が静かになる気がした。

ある夜、満子はピザを頬張りながら、突然胸を押さえた。

「……あ……ああ……」

心臓が、握りつぶされるように痛む。

息ができない。

視界が暗くなる。

最後に見えたのは、天井の隅で揺らめく白い靄だった。

それは、満子の苦しみを楽しむように、ゆっくりと形を変えていた。

翌朝、母親が見つけたとき、満子は冷たくなっていた。

口元には、食べかけのピザが残っていた。

その背中からは、白い靄がすっと消えていった。

まるで、次の獲物を探しに行くかのように。


第三章:憑き魔の影、佐藤さわりの眼

美容師・吉田律子は、夜の戻橋を足早に渡っていた。

仕事を終えた帰り道、彼女はいつも川を見ない。

夜の川面には、何か“映ってはいけないもの”が映る気がしていたからだ。

しかし、その夜だけは違った。

ふと視線を落とした川面に、白くぼやけた女の顔が浮かんでいた。

「あたしの餌食にちょうどよい」

その声は、川の底から響くように低く、湿っていた。

吉田は悲鳴を上げることもできず、ただ足を速めた。

翌朝、吉田の髪は異様に抜け始めた。

美容師である彼女にとって、髪は仕事の象徴であり、誇りだった。

だが、鏡を見るたびに、頭頂部の髪が薄くなり、中央がごっそりと抜け落ちていく。

「なんで……なんでこんな……」

便秘もひどくなり、腹部は常に重く、痛みが走った。

美容室の店長は、冷たく言い放った。

「見てくれが悪いと、お客さんが嫌がるんだよ。

最近、臭いもひどいし……もう限界だよ」

吉田は言葉を失った。

美容師でありながら、鏡を見るのが怖くなっていた。

鏡の中の自分の背後に、白い靄が揺らめくのが見える気がしたからだ。


その頃、佐藤さわりは、いつものように黒髪をチューリップ型に整え、黒縁の眼鏡をかけて美容室を訪れていた。

眼鏡の中央には小型カメラが仕込まれており、その日に起きたことをすべて記録している。

「吉田さん、今日はお願いね」

しかし、店長は申し訳なさそうに言った。

「吉田は……最近、出社していないんです。

便秘がひどいとか、臭いとか……まあ、いろいろあってね。

正直、早く辞めてもらいたいくらいだよ」

その言葉に、佐藤の胸に冷たいものが走った。

彼女は名刺を差し出した。

「政治記者兼、霊障探偵よ。吉田さんの住所、教えてくれない?」

店長は驚いたが、佐藤の真剣な眼差しに押され、住所を教えた。

池袋の北側、繁華街から外れた静かな住宅街。

錆びついた階段を上り、佐藤は吉田の部屋のチャイムを押した。

「……はい」

扉が開くと、吉田は灯りもつけず、暗闇の中に立っていた。

その背中に、白い靄がゆらりと揺れているのが見えた。

佐藤は一瞬、息を呑んだ。

しかし、靄はすぐに消えた。

「吉田さん、大丈夫? 最近、どうしてるの?」

吉田は生気のない目で、淡々と答えた。

「……どうでもいいの。何もかも」

その声は、吉田自身のものではないように聞こえた。

佐藤は帰り際、そっと言った。

「気を落とさないようにね。……また来るわ」

アパートを出て帰る途中、佐藤は廃材置き場の横を通った。

その瞬間、上から木材が落ちてきた。

「っ!」

咄嗟に身をひねり、直撃は避けたが、左手首をかすり血が滲んだ。

「邪魔をしてはいけないよ」

背後から、湿った声がした。

振り返ると、誰もいない。

佐藤はすぐに病院へ向かい、治療を受けた。

帰宅後、パソコンを開き、検索を始めた。

――憑き物、地名、おぶさり、池袋、戻橋。

大塚から池袋にかけては、古くから“憑き魔”の伝承が多い地域だった。

その中に、魂を食らう女の霊――多夢子の名があった。

佐藤は、吉田の背中に見えた白い靄を思い出した。

しかし、眼鏡のカメラには何も映っていない。

「……やっぱり、あたしの目だけに見えるのね」

佐藤は深く息を吐いた。

この街で起きた二つの変死。

そして、吉田の異変。

すべてが一本の線で繋がり始めていた。


第四章:決着 ― 鏡の魔を映す部屋で

佐藤さわりは、アパートの薄暗い部屋でテレビをつけたまま、包帯を巻いた左手首をそっと撫でていた。

画面には、人気番組「テレビ・鉄男の部屋」が映っている。

ゲストは大女優・大方正恵。

柔らかなライトに照らされた彼女は、昔と変わらぬ美しさを保っていた。

「正恵さん……相変わらず綺麗ね。あたしは政治記者か……」

佐藤は苦笑した。

大学時代、同じクラスだった。

正恵は当時から光を放つような存在で、佐藤はいつもその背中を見ていた。

番組の中で、鉄男が正恵の私生活を尋ねる。

「部屋が全部ガラス張りって本当ですか?」

正恵は笑って答えた。

「ええ。猫背だから、姿勢を意識するためにね。鏡の魔があるって言われるけど、気にしてないわ」

佐藤はその言葉に、ふと胸がざわついた。

鏡の魔――自分の姿を映すことで破滅する存在。

それは、古い伝承の中で、邪霊を祓う手段として語られていた。

「……使えるかもしれない」

佐藤の目が鋭く光った。

翌日、佐藤は吉田律子のアパートを訪れた。

吉田は、まるで魂が抜けたような顔で扉を開けた。

「今日はね、あなたにとって朗報よ。霊験あらたかな霊媒師の先生がいるの。ここから近いの。一緒に行きましょう」

吉田は無表情のまま、かすれた声で答えた。

「……どうでもいいわ。どこでも」

二人はタクシーに乗り込み、静まり返った住宅街の奥へと向かった。

やがて、大きな屋敷が姿を現した。

古い木造の門が軋み、霊媒師が静かに出迎えた。

「お待ちしておりました」

屋敷の中は和式で、障子が柔らかい光を透かしている。

畳の匂いが落ち着きを与えるはずなのに、吉田の顔はますます青ざめていった。

「……帰るわ。気分が悪いの」

吉田が立ち上がった瞬間、霊媒師が隣の部屋へ続く襖を開けた。

そのときだった。

「ごめんね、吉田さん」

佐藤は低く呟き、吉田の背中を強く押した。

「きゃっ!」

吉田は隣の部屋へ倒れ込む。

佐藤もすぐに入り、襖を閉めた。

部屋は狭かった。

そして――四方八方、すべて鏡で覆われていた。

吉田は立ち上がり、周囲を見回した。

鏡の中に映る自分の背中。

そこに、白い靄がまとわりついている。

「……いや……いや……」

靄は、鏡の中で形を変えた。

女の顔。

裂けた口。

濁った目。

骨のように細い指。

それは、あらゆる角度から吉田を取り囲み、逃げ場を奪った。

佐藤の声が響く。

「憑き魔・多夢子! お前の正体をよく見るといい!」

多夢子は鏡の中でのたうち、苦しみ始めた。

自分の姿を見せつけられることが、邪霊にとって最大の苦痛だった。

「ぎゃあああああああ!」

耳を裂くような悲鳴が、鏡の部屋に反響した。

白い靄は激しく揺れ、やがて――霧が晴れるように消えた。

吉田はその場に崩れ落ち、肩を震わせた。

「……終わったの?」

佐藤は頷いた。

「ええ。邪霊っていうのはね、魔女ゴーゴンもそうだけど、自分の姿を見ると破滅するのよ」

吉田は涙を流しながら、鏡に映る自分を見つめた。

そこには、憑き物の消えた、ただの疲れた女性がいた。

この鏡の部屋は、佐藤の友人・大方正恵の自宅だった。

佐藤は事情を話し、この日のために部屋を借りていたのだ。

鏡の魔――その力が、ついに多夢子を消し去った。


エピローグ

数週間後。

吉田律子は元気を取り戻し、再び美容室に通い始めていた。

髪も少しずつ戻り、笑顔も戻った。

佐藤さわりは、ドトール・コーヒーの窓際でハニーカフェオレを飲んでいた。

外は春の陽射しが柔らかく、街はいつも通りの喧騒に包まれている。

「今回は政治取材はなかったけど……まあ、よかったわ」

佐藤は眼鏡の中央に触れ、そっと微笑んだ。

(完)

本作を書きながら、改めて「恐怖とは何か」を考えさせられた。

派手な怪物や血の描写ではなく、

日常の中にふと入り込む“違和感”こそが、最も深い恐怖を生むのだと感じた。

川畑俊彦、大野満子、吉田律子――

彼らは特別な人間ではない。

どこにでもいる、普通の人たちだ。

だからこそ、彼らが崩れていく姿は、読者の心に静かに染み込む。

そして、憑き魔・多夢子という存在は、

人の弱さや孤独に寄り添いながら、じわじわと侵食していく。

その姿は、現代社会の影そのものかもしれない。

名前に悩み、設定に悩み、何度も書き直しながら、

最終的に「日本の邪霊」という形に落ち着いたことは、

自分でも納得のいく選択だった。

佐藤さわりは、まだまだ語るべき物語を抱えている。

彼女の眼鏡に映る“見えないもの”は、これからも増えていくだろう。

本作を手に取ってくださった読者の皆さまに、心から感謝したい。

また次の事件簿でお会いできれば幸いである。

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