5本目 下品な夜と赤い缶
「はぁ…!ひぃ…!」
私は息を切らし、時折躓きながらも、薄暗い地下道を走っていた。友人と飲んだくれた帰り道。
愚痴と一時の幸せを吐き出して酔い潰れた連れをタクシーに詰め込み、夜風を感じながらゆっくり帰宅する予定であったが、まさか男に追いかけられる事になるとは想像もつかなかった。
「ふぅっ…!はぁ…。」
こんな時に限って、やけに地下道が長く感じる。私は必死になって足を前に進めるが、日頃の運動不足と、ビール3杯とハイボールをジョッキで2杯、ついでに日本酒を1合半飲んだツケが、今頃になって回ってきた。思う様に足が言う事を聞いてくれない。おまけに紺色のロングスカートが足に纏わりつく様で、より一層走りにくい。
ふら付きながら、私は後ろを振り返る。そこには相変わらず男が、地下道の入口から足音を響かせながら私に歩み寄って来る。一昨日の大学の掲示物で見た「オレンジ色の通り魔」だった。
「ひゃっ!?」
その男に気を取られ、わずか数ミリ程のコンクリートの段差に、つま先が引っ掛かってバランスを崩した。
受け身も何も取らずに倒れ込んだからか、思い切り左側の即頭部を路面に打ち付けた。悶絶する程の痛みで酔いは覚めたが、「生まれたての子鹿」と例えるべきか、それとも「自分の手足では無いかの様だ」と言うべきか、四肢に力を込めても、言う事を聞いてくれない。
妙に冷たい汗が頬を滑り落ちた。頼むから動いて。手足を動かして、私は逃げたいのだ。
だが、その思いが四肢の末端へと伝達する事は無かった。いきなり右肩を払われ、無理やり仰向けの状態にされると、視界にオレンジ色の上着が覆いかぶさった。視線を上げると、黒いニット帽と白いマスクに包まれた頭部。その隙間から露出する濁った目は、今の状態に興奮している事を表すかの様に血走り、荒い呼吸に合わせて、白いマスクを構成する不織布が収縮を繰り返している。
「たっ、はっ、はーっ。」
『助けて!誰か!』と叫べば誰かが来てくれるかもしれない。大声を出して助けを呼ぼうとしたが、息苦しさに邪魔されて言葉が詰まった。
過呼吸なのか、次第に私の呼吸が速くなってる気がした。そして男は、まるで子供を慰める様に、オレンジ色の右腕を伸ばして、私の栗色の頭髪をそっと撫でた。
「キレイだぁ…!間違い無い。」
ゆっくりと数回に渡って、指の通りを確認するかの様に、私のショートヘアを優しく触りながら、男が呟く。
『気持ち悪い。』
そういう類の感情が、心の奥底から、吐き気の如く湧き上がる。この男は、他の被害者にもこんな事をしたのだろうか。被害者の多くが女性と報道されていたが、なんて汚らわしいのか。
反吐が出る。
しかし、そんな私の心境とは裏腹に、私自身の身体は恐怖心を覚えていた。拘束された様に身動きが取れない。なぜか胸の奥が締め上げられた様に苦しく感じる。
その間に頭髪の触り心地をたっぷりと堪能した男は、そのまま右手を腹部から胸へ、そして首筋と流れる様に手を触れて――男は首をそっと締めてきた。
「がっ…!はっ、ぅあっ…!」
何とも形容し難い苦痛が喉から伝わる。反射的に空気を吸い込もうと口が開く。
しかし気道を締められている為か、思う様に呼吸が出来ず、私は夜の地下道に漏れた。しゃがれた声が、無機質なコンクリートに反響した。
生命の危機を感じたのか、ようやく四肢が金縛りから解けた。私は思わず喉を握る腕を引き剥がそうとするが、固まって張り付いた様にびくともしない。苦し紛れに手の甲をつねったが、興奮している男に対して効果は薄かった。
『何故、私は殺されかけているのだろう?』
絶体絶命の危機だというのに、頭の中に疑問が浮かぶ。
日頃から両親の言いつけを守り、宿題も勉強も忘れずに頑張ったのに。言いつけ通りに誰にでも優しくしてきたのに。きちんと『良い子』になったのに。
『どうして?』
そんな事を考えているうちに、視界のオレンジ色が鼠色に変わり始めた。いや、『変わる』というよりも『脱色』の方が近いかもしれない。
色が抜かれた視界の中で、それでも私は抵抗したが風向きが変わることはなかった。
そうか、これは運命だったのかもしれない。私は死ぬ運命だったのかも。21歳で亡くなる予定だったんだ。次第に聴覚が遠ざかって行く感覚と共に、絶体絶命の状況に置かれた脳が悲観的な思考をアウトプットする。
「だぁ゛あっ…、ゔっ、あ゛ぁ…。」
目前の風景にノイズが入り始め、視界がちらついてきた。もはや身体は白旗を上げる事を決めたのか、手の平にすら力が入らなくなり、本当に自分の物ではなくなってしまった様だった。脳内では走馬灯の上映が始まり、私の身体は生きる事を諦め、店仕舞いをするつもりの様だ。
でも、こんな気味の悪い男に殺されるなんて嫌だ。絶対に嫌だ。どうせ死ぬならベットの上で安らかに眠りたい。苦痛を感じながら死ぬなんて嫌だと、消えかかる意識の中で私は思った。
『助けて!誰か助けてください!』
声にならない声を叫んだ。
心の中で何度も叫んだ。
この際だから悪人でも構わない。誰でもいいから助けてほしい。
悪魔でも構わない。
だから、この声が聞こえるのなら、誰か助けて――。そう願った。
「いや〜、やはりコーラはオリジナルに限るねぇ!」
そんな消えかかった私の願いが神か仏に伝わったのか、場違いな明るい声と、今まで聞いた中で一番下品なゲップが、薄暗い地下道に響いた。
その音に気を取られ、音のなる方へ頭を向けた男の手が反射的に緩んだ。気道が確保されたのか、喉に新鮮な空気が流れ込み、私は涙目になって咳込む。
「知ってるか?コーラってのは、偶然の産物なんだ。」
軽やかな足音と共に、また明るい声が耳に届いた。ようやく呼吸も落ち着き、視界に鮮やかな色が戻って来た私は、声の鳴る方へ目を向けた。
薄暗い照明に照らされた救世主は、ガッカリする程に平凡な出で立ちであった。
灰色のパーカーのフードを深く被り、白いラインの入った黒いジャージの様なものを履いている。ヒーローと呼ぶより、コンビニ帰りの格好である。おまけに右手にはコンビニの袋、左手には開栓された赤いラベルが特徴的な缶が見える。絶対にコンビニ帰りだ。
体格も大柄でもなく、筋肉ムキムキのマッチョメンでもなく、ハリウッド映画俳優の様なタフガイでもなく、カカシに服を着せた様な細身なので不安感さえある。
嗚呼、絶体絶命の事態を下品なゲップとコンビニ帰りの変な奴に救われたのかと考えると、何だか複雑な心境になってきた。
そんな事を考えている内に、目の前に覆いかぶさっていたオレンジ色の男は、いつの間にか立ち上がって声の主と対峙していた。右手をジャケットのポケットに入れて身構えている。もしかしなくとも、ナイフ等の得物でも入っているのだろうか。だとしたら、あの瞬間に刺殺されなかったのが不幸中の幸いである。
そして一時の静寂。私を含めた3人は、一歩もそこから動かない。最も私の場合は、先程の恐怖体験で腰が抜けて動けないだけなのだが。
「ここにいる、3人のようにな。」
真っ先に静寂を破ったのは、パーカーの男の声であった。ついでに右手のコンビニ袋を地面に置くと、パーカーのポケットからタバコを取り出し、優越感に浸るように一服を始める。
が、ライターから顔の大きさ程の火柱が上がり、男は小さな悲鳴を上げた。やっぱり馬鹿なのか。
しかしオレンジ色の男は、その一瞬の隙を見逃そうとはしなかった。好機と言わんばかりに、少し細めの足を踏み出すと、ポケットから右手を引き抜き、突進する。右手には折り畳み式のナイフが、白い蛍光灯の光を受けて煌めくと、その切っ先が相手の方へと向けられた。二人の男の距離はそれほど近くもない。せいぜい10mぐらいだろうか。
だが、パーカーの男は一服中のまま微動だにせず、缶の飲み口を傾けて、内容物を口内へと招き入れている。何を考えているのかわからない。この男、やっぱり馬鹿だ。
格好つけて余裕を見せるなんて、何か秘策があるのだろうか。いや、無いだろう。
私は、次の展開を予測して、顔を反らした。
刹那、身体同士が衝突する鈍い音が、私の耳に届いた。




