4本目 オレンジ色
点滅する蛍光灯に1匹の虫が、執拗に女性に付きまとう男の様に、不快な羽音を立てて飛び回る。長年の使用で薄汚れた、白い壁に仕切られた一室に、途切れ途切れの破裂音が響いていた。
「…うわぁすげぇ。」
近年の遊具事故による遊具撤去の流れに習い、遊具の代わりに設置された、昼間は健康器具目当ての『御年配』の方達で賑わう『児童』公園。その一角に建てられた公衆トイレの中で俺は、一時の苦しみと闘っていた。
4ヶ月ぶりに昨日から夜の稼ぎを再開し、ジョギングだと一海に嘘をついて家を抜け出してきたのは良かったが、今になって『タバスコぶっかけもやしカレー』が効いてきた。どうやらお通じ改善に効果があるらしく、凄まじい物量を見て俺は、思わず感嘆の声を上げてしまう程であった。
「さすが食物繊維とぉ…タバスコだなぁ…」
呟いた言葉に相槌を打つように、またしても独特な破裂音が数発鳴った。食事中の皆様、ごめんなさい。ブリッ。
後始末を終え、洗面台で手を洗いながら、俺は自分自身の姿を改めて見てみた。
「少し怪しいか。」
ぽつりと自信無さそうに呟く。
鏡に映る黒いワークキャップにグレーのパーカー、下は黒地に白いラインの入ったジャージ。今までは黒いパーカーだったのだが、黒ずくめだった為か、妙に職務質問をされるのでパーカーの色をグレーに変えたのだ。
前に一海に黒ずくめの格好を見て「オタク」と指を刺されて笑われたが、これでマシになっただろう。どこからどう見ても『健康の為にジョギング始めました』みたいな、そんな雰囲気が滲み出ていてるではないか!
俺は自分を無理やり勇気づけ、公衆トイレから出た。少し冷えた、真夏の空気を吸い込みながら空を見上げると、闇夜を覆う千切れ雲の隙間から、金色の光が漏れていた。そういえば昨日は満月だったなと、セクシーな放送事故で少し前に話題になった、色気溢れるお天気お姉さんが言っていた事を思い出し、ウキウキとした気分で、トラブルの多そうな繁華街へ向けて走り出した。今夜も収穫があれば良いのだが――。
「すいません。ちょっとよろしいですか?」
不意に暗闇から飛んできた声に、慌てて駆け出しかけた右足を止めた。振り返ると人影がこちらに近づいて来た。白い自転車に紺の帽子と防刃ベストが、街灯に照らされて浮かび上がる。
「急にごめんなさいねーあれ?また赤丑さん?」
またコイツか。もうこの人に職質を受けるのは4回目だったか。いや、もっと多いかもしれない。バツの悪い表情を浮かべる俺とは対照的に、すっかり顔見知りとなった男は、声をかけた相手が"いつもの"話し相手と分かると、少し嬉しそうに防刃ベストの胸ポケットに手を入れながら話しかけてきた。
「いやーこんばんわー!こんな夜遅くにお疲れ様です!分かっているかもしれないけど、とりあえず形式的に。」
明らかに日本国の警察官の出で立ちの男は、ベストから濃い茶色の警察手帳を取り出して、翼の前で広げた。短いツーブロックヘアに、夏の青い空と白いパッケージのビールが似合うような爽やかな表情の顔写真、そして渋い書体で『和平 賢人』と『巡査』という文字、そして日本警察の記章の鈍い輝きが、俺の目に入ってきた。
「いやー毎度毎度申し訳無いですー。と言っても今日は事情聴取じゃないので安心してくださいね。最近のちょっとしたお話をさせて頂くだけですからねぇー。」
相変わらずの軽さと丁寧さを織り交ぜ、親しみやすい口調で話かけてきた賢人は、「またかー」と歯切れの悪い、情けない返事を出す事で精一杯の俺を前に、彼は微笑みながら手帳を仕舞い、その『ちょっとした』話を始めた。
「早速ですけどね。あのー、付近で暴行事件が起きてるのはご存知ですかねぇ?こういう服装の男が、繁華街や住宅地周辺でウロウロしてたみたいなんですけどー」
そう話すと賢人は、自転車の荷台についた箱からクリップボードを取り出し、印刷されたコピー用紙を翼に見せた。「まさか俺じゃなかろうか」と内心思いつつ、心臓の鼓動が異常に響く胸をさすりながら受け取った。
カラー印刷されたA4の紙には、オレンジのジャンパーに黒のズボン、黒いニット帽とマスクを着用しているという、簡単なイラストが描かれていた。イラストの横には小さく『中肉中背、20〜30代ぐらい』と短い文が添えられている。
「恥ずかしながら、全然手掛かりが無くって困ってんですよねぇー。」
制帽を取って、少し汗ばんだ後頭部を手でかきながら賢人は困り顔で、犯人の物騒な手口を話した。他にも強姦未遂や殺人未遂の容疑もあると、その厄介者の手口を賢人から聞きながら、とりあえず自分は対象では無いと安心した俺は、その犯人の特徴である、『オレンジ色のジャンパー』が気になっていた。
オレンジ色というと、どんな風景であっても、嫌と言うほどに視界に入ってくる色である。モノトーンの街中でも、オレンジ色のコンパクトカーは目立つし、青々と生い茂る草原の中でも、けしの花の様なオレンジ色があれば目に付く。視認性の高さからか、イベントや店舗のスタッフの制服や、アウトドア用品、レスキュー隊員の服にも採用されてしまう程の色だ。もし自分が、物騒な事を殺るのなら、間違いなく黒を選ぶのだが。
「やっぱりオレンジ色が引っかかりますか?」
俺の心の内を見透かしたのか、いたずらっぽく笑った賢人は、ドキッとした俺をよそに話を続けた。
「確かに派手な犯行にオレンジの服装はかなり目立つので、最初はすぐに捕まる…って見立てだったんですけどねぇ。でも防犯カメラの位置も把握してるみたいで。これがまたね、うまーく逃げるんですよ。」
言いたくてたまらない事をようやく吐き出せたのだろう。賢人は苦笑いと共に一気に言葉を吐き出すと、重いため息をついた。
勤続7年。32歳独身。外見からも誠実という言葉が相応しい彼は、近所の住人から『仏のお巡りさん』と呼ばれているらしい。
市民に限らず犯人に対しても、決して激昂する事はなく、ただ穏やかな言葉をかけ、困っている人には手を差し伸べる、警官として模範的な性格の彼には、今回の件はさぞかし悔しいのだろうか。
「お巡りさんも大変ですね…」
上手い言葉を思いつく事なく、小学生並みの感想と共にクリップボードを返した俺に、賢人は少ししょんぼりした顔で「無力で申し訳無い。ではお気を付けて。」と返した。そして思い出したように人差し指を立て「あとそれから」と呟くと、いつもの笑顔に表情を戻しながら諭すように言った。
「“カラス”にも気をつけてくださいね。」




