3本目 苦い悪夢とゼロ星シェフ
「嫌なら辞めていいんだぞ!やる気がないなら失せろ!」
潤滑油の焦げた香りと、やかましい機械の動作音で満たされていた工場。その工場を吹き飛ばす勢いの怒号が、僕の耳に無理矢理流れ込んで来た。おまけに唾も少し飛んできた。
確かに仕事にやる気は必要だが、そんなテンプレートな説教を食らったところで、今の僕の心は数ミリも動かない。不思議と怒りも何も感じない。入社当初なら落ち込んだり、眠気も吹き飛んだと思うが、現在は眠気に似た"ダルさ"が、説教の効力よりも遥かに上回っていた。良質なタンパク質で構成された脳味噌や四肢に質の悪い鉛を充填された感覚。「すいません」と謝罪の言葉を発したくても、唇や喉がエポキシパテで埋められた様に動かない。
「なんとか言えよ!」
刹那、頭頂部に衝撃。鉛で満たされた頭では、理解するのに時間を要した。叩かれた痛みが、シンバルの様に残響していた。
「す…すいま…せ…」
衝撃で拘束が解けた喉と唇を開いて、即座に発音するが、長らく使っていなかったからか、故障したテープレコーダーの様に言葉が途切れてしまった。
僕が最初に入社した会社は、大企業の工場がひしめき合う工業団地には少し不釣り合いな、掘っ立て小屋の様な小さな会社で、俗に言う「中小企業」と呼ばれる職場であった。そして思っていたよりも厳しい所でもあった。
残業代はゼロ。死んだ魚の目をした社員達に、葬式の方が賑やかに思える短い昼休憩。入社初日から流れてくる大量の注文を1人でこなす。帰宅は深夜がデフォルトで、初日の朝に仕事のやり方を教えてくれた先輩は、数ヶ月経った今でもトイレ休憩から戻って来ない。
世間では「ブラック企業」とも言われるらしいが、高校を卒業して、18歳で新卒として入社した僕には、ブラック企業という判定を下す事が出来なかった。会社ってのはこういう所と思い込んでいた。
しかし身体の方は、どこまでも正直者で、毎日のように"異常である"というサインを色んな形で表してくるのである。吐き気、頭痛、腹痛、めまい、倦怠感。他にも色々あるかもしれないが、それらを使って訴えかけてくる。そんな時には"アイツ"で誤魔化すのが、今の僕に唯一出来ることであった。
能天気な正午のチャイムが鳴り、周りの作業員達が一斉に機械を止めて持ち場を離れていく。それに合わせて目の前にいた上司も、昼休憩のチャイムには勝てずに、睨みつけながら立ち去って行った。
『眠気覚ましに常用していたカフェインによる中毒死とみられ…』
静かになった工場内に、小さなラジオのスピーカーから吐き出される、ノイズ混じりの質の悪いモノラル音声が響いた。しばらく放心状態だった僕は、無機質なフライス盤が並ぶ工場内をフラフラと歩きながら裏手の扉を開けて、錆びた鉄屑が大盛りなドラム缶の群れを抜けていく。廃油とスチールの香りを堪能しながら敷地内を通り過ぎて、会社の裏側にポツンとある自動販売機に千円を食べさせて、エナジードリンクのボタンを4回押した。
今の僕には、カフェインと糖分とその他諸々が、大量に配合された金色の液体が唯一の救いであった。カフェインやその他諸々の元気成分の効果なんぞ、ただの誤魔化し程度だということは理解している。飲み過ぎに注意なのも承知の上だ。体質的にカフェインに弱いのも知っている。だがコイツに頼って無理矢理仕事を片付ける他に選択肢は、他になかったと思う。
自販機から吐き出された160円を上着のポケットに入れ、近くの色褪せた青色ベンチに腰を下ろした。印字が薄くなった飲料メーカーのロゴが描かれた背もたれに体重を預けて、禍々しいパッケージの缶を開けて金色の液体を流し込んで行く。空になったら一本、また一本と開栓しては、喉の奥へ無理矢理流し込む。心なしか全身が脈を打ち、頭の中を覆っていた霧が晴れていく。そして恐ろしいほどに身体が異常に軽く感じた。
さすがに飲み過ぎたか。ふと、頭の中に質の悪いラジオの音声が聞こえた気がした。僕は思わず、ベンチに置いた缶に伸ばしかけた、細かく震えてる手を引っ込めた。
『カフェインによる中毒死とみられ――』
カフェインの常用による中毒死。何かと寝不足気味な現代社会では、もはや特殊な死亡事例ではない。お茶やコーヒー、コーラや栄養ドリンク。カフェインは至る所に存在し、最近ではカフェインを凝縮した錠剤や飴もある。
カフェイン自体、摂取量が多くなると身体に悪いのは、重ね重ね承知している。しかし、こんな社会では何かに依存しなければ、生きていけないという事を社会人になって理解できた気もする。
「でも、これに頼るしか…」
僕の場合の依存は、“エナジードリンク”だった様だ。小さく呟いて、僕は小さく震える手を、ベンチに置いた最後の一本に手を伸ばした。カフェインの致死量なんて大した事はないんだ。1時間にエナジードリンクを3L飲んだり、10g分のカフェインを摂取しなければ問題ないのだ。だいたい1時間に3Lも飲めるか馬鹿。僕は大丈夫だ。
そんなことを言い聞かせて、プルタブを引いて、缶を傾けて――。
「なんとか言えよ!」
みぞおちに衝撃。耳に怒号。痛みに耐えかねて目を見開くと、目の前にいたのは上司――ではなく、俺の妹の赤丑 一海であった。活気のある綺麗な瞳、完璧なバランスで構成された凛々しい顔。老け顔気味と評される俺には不釣り合いな、美貌に満ちた顔に怒りの感情を流し込んで、眉間を歪ませてこちらを覗き込んでいた。
「いつまで寝てんだクソ兄貴!」
部屋の白い蛍光灯に照らされた、黒檀の様に黒い長髪が、怒号と共に彼女の後頭部で揺れた。
言葉使いが荒い妹と、眩しい蛍光灯から目線を逸らして、慌てて手元のスマートフォンのボタンを押す。5インチの有機EL液晶は、午後9時34分を表示していた。正午にバイト先から帰宅して、ベッドでスマートフォンを弄っていたら、いつの間にか寝てしまっていた様だ。
「まっっったく、23歳にもなって情けない…。兄貴が起きないと片付けも出来ないのだから…。ほらっ、さっさと起きろ。」
まるで刑務所の看守の様に冷たい態度で俺に声をかけ、重量感のあるため息をつきながら、今年で高校生になった彼女は部屋から去っていった。俺は、鈍く痛むみぞおちをさすりながらベッドから這い出る事にした。悪夢と相まって、最悪な目覚めである。おまけに内容が5年前の出来事なのだから余計に悪い。
「ごめんごめん、起きるよ…」
俺は、床に落ちていた黒いセルフレームのメガネをかけながら、部屋を出た一海に返事をして一階に向かった。ふわりと香辛料の香りが、起床直後の嗅覚を刺激し、今日の夕食に少しばかりの期待をよせてしまう。もしこれが香り通りのカレーならば、ハズレは無いはずだが…。不思議と嫌な予感がした。
ちなみに先程の悪夢の続きはと言うと、ささくれ立った心情に身を任せて、上司が散々と取引先に自慢していた、白く輝くレクサスISをベコベコにした挙げ句、タイヤとフェンダーの隙間で自家発電をし、ちょうど他の企業の工場視察から戻ってきた社長に目撃され、結果として自主退職をするという、自分でも良く分からない結末が待っているのである。なんで排気管なんかに欲情したのか、5年経った現在でも分からない。ある意味人生のターニングポイントとも言えるが、こんな悪夢の様なターニングポイントなんか誰も求めていない。あーあ、あの頃に戻りたいなー。あの時飲まなければなぁー。
そう思いながら、親父が日曜大工で修理した、立て付けの悪いドアノブを押し上げながらひねり、リビングのドアを開けた。
「なるほどねぇ…」
思った通りだった。1人だけの静かな食卓で、一海が作ってくれたカレーを口に運ぶのだが、なんというべきか。咀嚼を繰り返して食道へ送り込みながら簡潔に感想を考えた。
「不味い。」
この三文字に限る。俺は耐えきれずに小さな声で現在の心境を呟いてしまった。本当の事なのだが、本当は言いたくなかった。言いたくなかったのだが、湧水の如く溢れる感想をせき止める事が出来ずに、思わず言葉にしていまった。
吐き出された言葉は、台所で片付けを始めていた一海に届いたのだろう、本音を喰らってキョトンとした後に、眉間にシワを寄せて臨戦体制に入った。
「…何か言ったかクソ野郎。」
歳相応とは思えないドスの効いた声と共に、凛々しい顔が怒りで歪む。不本意ながら、自身の息子さんが恐怖で縮こまるのが良く分かる。でも本当にごめんなさい。幼い頃に母が亡くなり、仕事で帰宅が遅い警察官の父に変わって、毎日家事洗濯や料理を作ってくれるのに。今日もせっかく特製の"もやしカレー"を作ってくれたのに。でも、今日も本当に不味かったんだ。なんというか、水っぽくて味がすっごく薄くて――
「いや、ちょっと、ほんのちょっと味が薄くないかなーって。」
危うく無修正のまま言うところを、なんとか誤魔化して発言出来た。でも不味い。料理を作ってくれたのはとても嬉しい。でも不味い。本当なんだ。許してくれ妹よ。というか毎回不味い料理だね、妹よ。てか料理絶対得意じゃないよね、妹よ。
「でも食べれるでしょ?私は食べれたし。」
違う、そうじゃない。俺は脳内で、グラサンをかけたミュージシャンと共にツッコミを入れた。食べれるとかそういうレベルでは無いのだ。ここは戦場か?収容所か?否、断じて否である。
と言うか、食事はもっと楽しむものではないのか?と、思いを込めて妹に視線を送る。
しかし一海は、俺の意見を切り捨てるように言うと、先程の看守の様な冷ややかな視線で反撃に出た。味は関係無いとでも言うのだろうか。それとも不味いという概念が無いのか。親父は料理が上手いのに。どうして遺伝子情報として引き継がれなかったのか。もしかして母の遺伝――これ以上言うのもなんか辛くなってきたので、黙ってステンレス製のスプーンで、ひたすら特製カレーを突く事にした。
それでもやはり――。
「水っぽい…よなぁ…」
俺はまた本音をこぼしながら、戦闘糧食が不味い事で有名な米軍の兵士達が編み出したと言われる、秘伝の『タバスコぶっかけ攻略法』を実践する事を決めた。




