できること
異世界に召喚されてから、初めての朝が来た。
目を覚ました薫は、しばらく見慣れない天井を眺めていた。柔らかな寝具に、木製の家具。窓の向こうからは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
……ああ、そうだった。
ここ、日本じゃないんだよな。
昨日の出来事を思い出し、薫は小さく息を吐いた。それから寝台を降り、軽く身体を伸ばす。
「……ん?」
いつもより、身体が軽い気がした。
試しに屈伸をしてみる。足腰の動きは滑らかで、寝起き特有の重さもほとんどない。昨日はあれだけ疲れていたはずなのに、妙に調子がいい。
……よく寝たからかな。
薫は首を傾げたが、その日は特に気に留めず、身支度を始めた。
◇
数日後、薫は同じような違和感を覚えていた。
どうやら、身体の調子が変わったのは自分だけではないらしい。
「おおっ!? なんだこれ!」
広い訓練場に、大地の声が響いた。
勢いよく駆け出した彼は、思っていた以上に大きく前へ進んだらしく、慌てて足を踏ん張っていた。
「ちょ、ちょっと待て! 止まんねえ!」
「大地! 前!」
「分かってるって!」
どうにか転ばずに止まった大地を見て、薫は思わず笑った。
けれど、自分も他人事ではない。
走るときの足運びや、地面を蹴った感覚が以前とは少し違う。特に踏み込んだときの身体の伸びがよく、普段のつもりで動くと、ほんの少しだけ距離が変わってしまうのだ。
「……これ、なんなんだろうな」
隣で颯真が首を傾げた。
「さあ……重力とか、違うのかな?」
「あり得るんじゃね?」
慧が二人の会話に加わる。
「そもそも別の世界なんだし、物理的な環境が日本と全部同じとも限らねえだろ」
「じゃあ、俺たちが強くなったわけじゃないのか?」
大地が少し残念そうに尋ねた。
「それはまだ分かんねえって。身体そのものに変化が起きてる可能性もあるだろ」
その話を後から聞いたセドリックも、原因については慎重だった。
重力などの環境の違いなのか、それとも来界者の身体に何らかの変化が生じているのか。現段階では、どちらとも断定できないという。
ただ、薫には一つだけ実感があった。
まるで、今まで身体に掛かっていた枷が少し外れたような感覚だ。
もちろん、動きが軽くなったからといって、何でも思いどおりにできるわけではない。むしろ、慣れない距離感のせいで踏み込みを誤り、足をもつれさせることもあった。
新しい身体の感覚を、少しずつ覚えていく必要がありそうだった。
それからの日々は、覚えることばかりだった。
午前中は、主にセドリックからこの世界の言葉や文字を教わった。
召喚直後に施された翻訳魔法のおかげで会話はできたが、それだけで読み書きまで自由になるわけではない。薫たちは見慣れない文字を一つずつ覚え、簡単な文章を書くところから始めることになった。
「……これ、さっきの文字と似てません?」
「似ているが、別の文字だな。こちらは音が異なる」
「……なるほど」
薫は手元の紙に目を落とした。
見れば見るほど、どちらも同じ形に思えてくる。
「薫、そこ違うぞ」
隣から慧が指摘する。
「えっ、どこ?」
「そこ。線が一本多い」
「……ほんとだ」
「さっきも同じ間違いしてただろ」
「うん。そろそろ仲良くなってきた気がする、この間違いと」
「仲良くなってどうすんだよ」
そんなやり取りをしながら、少しずつ文字を覚えていった。
午後には、この世界での暮らしについて学ぶ時間もあった。
貨幣の種類と使い方。食料や日用品の買い方。街で守るべき決まりや、王都の地理。それからラズリオン王国の周辺にある国々についても教わった。
当然ながら、日本とは何もかもが同じというわけではない。
薫は説明を聞きながら、気になったことをノートへ書き留めていった。いつか街へ出て買い物をするとき、何も分からず困るのは避けたかった。
一方で、皆は少しずつ自分の能力を確かめ始めていた。
颯真は風の力を扱う練習を始め、綾芽は《剣域》の感覚をつかもうと試行錯誤していた。大地は《闘気》を使うときの身体の動かし方を学び、慧はセドリックへ質問を重ねながら魔術の仕組みを調べている。
ほかの仲間たちも、それぞれに合った学び方を探していた。
もちろん、誰もが順調というわけではない。うまく力が出せなかったり、思ったように動けなかったりすることも珍しくなかった。
それでも、少しずつできることが増えていく。
薫も剣の稽古を続けていた。
以前より軽く感じる身体に慣れるため、足運びから見直し、素振りを繰り返す。ときには颯真や綾芽とも剣を交えた。
けれど、自分の固有能力については、相変わらず何も分からなかった。
《継承》
分かっているのは、その名前だけ。
……まあ、焦ったところで仕方ないんだけどさ。
そう考えてみても、胸の奥に残る落ち着かなさは、なかなか消えてくれなかった。
◇
朝、目を覚ますたびに、薫は一瞬だけ自分の部屋にいるような気がした。けれど、見上げた天井はいつも違う。二週間が過ぎようとしても、その感覚にはなかなか慣れなかった。
ある日、薫は、オルフェン王との個別面談に呼ばれることになった。
案内されたのは、以前の謁見の間とは違う、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
窓際には小さな卓と椅子が置かれ、壁には書棚が並んでいる。部屋の奥では、オルフェンが書類に目を通していた。
「失礼します」
「うむ。よく来てくれたな、カオル」
薫は慌てて姿勢を正した。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「そう無理にかしこまらずともよい」
「……あ、はい」
「今日は公式の謁見ではない。そなたがこの二週間をどう過ごし、何を考えているのか、直接話を聞きたいと思ってな」
オルフェンは向かいの椅子を示した。
「まずは座ってくれ」
「失礼します」
薫は椅子に腰を下ろした。
国王と一対一で話すなど、日本にいた頃なら考えもしなかったことだ。どうしても背筋が伸びてしまう。
そんな薫の様子を見て、オルフェンは小さく笑った。
「少しはこの世界の暮らしに慣れたか?」
「はい。皆さんによくしていただいているので、生活には少しずつ慣れてきました」
「それはよかった。セドリックからも、そなたは真面目に学んでいると聞いている」
「……いえ、そんな」
「ただ、少し焦っているようにも見える、ともな」
薫は思わず顔を上げた。
「……分かりますか?」
「私は実際に見ていたわけではないが、セドリックはよく人を見ている。そなた自身はどう思う?」
薫は少し考えた。
どう答えたものだろう。
別に、何もかもうまくいっていないわけではない。剣の稽古は続けられているし、読み書きも少しずつ覚えてきた。
ただ、一つだけ。
「……みんな、自分の能力を使う練習をしてるじゃないですか」
「うむ」
「まだうまくできないことも多いみたいですけど、それでも何を練習すればいいのかは分かってるんです」
薫は膝の上で手を組んだ。
「俺は、能力の名前しか分からなくて。使おうにも、何をすればいいのか分からないんです」
「……なるほど」
「もちろん、剣の稽古はできます。身体も前より動くようになりましたし、できることが何もないわけじゃないんですけど……」
そこで言葉が止まった。
オルフェンは急かさず、続きを待っている。
「……なんて言えばいいんでしょうね」
薫は少し困ったように笑った。
「自分だけ、まだ中途半端なところにいる気がして」
口にしてみると、思っていた以上にしっくりくる言葉だった。
颯真には颯真の得意なことがある。綾芽にも、大地にも、慧にも、それぞれ違う力がある。
人と比べたところで仕方がない。
そんなことは、薫にも分かっていた。
それでも、皆が少しずつ先へ進んでいるのを見ると、自分だけ取り残されているような気持ちになることがあった。
「……別に、みんなが羨ましいってわけじゃないんです」
薫は一度、言葉を切った。
「いや、少しは羨ましいのかもしれませんけど」
思わず苦笑する。
「ただ、俺も何かできるようになりたいなって」
「うむ」
オルフェンは静かに頷いた。
「そなたの気持ちは分かった。だが、一つだけ覚えておいてほしい」
「……はい」
「何ができるか分からないことと、何者にもなれないことは同じではない」
薫は顔を上げた。
「固有能力は、そなたが持つ力の一つにすぎぬ。これまで身につけてきたものまで、なくなったわけではあるまい」
「……」
薫はしばらく黙っていた。
剣道も、榊流も、日本で何年も掛けて身につけたものだ。異世界に来たからといって、それが全部なくなったわけじゃない。
「……そう、ですね」
「焦ること自体を悪いとは言わぬ。だが、焦りに任せて、そなた自身を見失わぬようにな」
「はい」
薫は小さく頷いた。
不思議と、少しだけ肩の力が抜けていた。
……できること、か。
改めて考えてみる。
剣は使える。足運びにも自信はある。けれど、剣なら颯真も綾芽も扱えるし、正面からの戦いでは二人にかなわない部分もある。
……別に、同じことができなくてもいいのか。
薫はふと顔を上げた。
颯真のように正面から戦う人がいる。大地のように身体を張って仲間を守る人もいる。
だったら、戦う前に敵の位置を調べたり、危険な場所の様子を確かめたりする人も必要なんじゃないだろうか。
もちろん、簡単な仕事ではない。けれど、足運びや地形の使い方なら、日本でも教わってきた。
……そういうことを、もっと学べたら。
「……あの、陛下」
「うむ?」
「少し、お聞きしたいことがあるんですけど」
「何だろうか」
薫は一度、考えを整理してから口を開いた。
「この世界には、敵の様子を調べたり、見つからないように移動したりすることを専門にしている人って、いるんでしょうか?」
「……斥候のことだろうか?」
「はい。たぶん、それです」
オルフェンは興味深そうに薫を見た。
「無論、いるとも。軍にも斥候はいるし、危険地帯の調査や情報収集を生業とする者たちもいる」
「その技術って、学べたりしますか?」
「学びたいのか?」
「はい」
薫は頷いた。
「俺、剣の扱いは少し心得がありますし、足運びや地形の使い方も習ってきました。だったら、それを生かして、敵に見つからずに動く方法とか、情報を集める方法を覚えられないかなって」
話しているうちに、考えが少しずつまとまってくる。
「戦う人がいるなら、その人たちが安全に動けるように、先に危険を見つけて伝える人も必要ですよね」
「……うむ。そのとおりだ」
「それなら、俺にもできることがあるかもしれません」
薫は小さく笑った。
「もちろん、簡単にできるとは思ってませんけど」
オルフェンはしばらく薫を見つめていたが、やがて満足そうに頷いた。
「なるほど。そなたは、自分の力を生かせる場所を探しているのだな」
「……はい。そんな感じです」
「よい考えだと思う。斥候は、ただ身を隠すだけの仕事ではない。周囲を観察し、危険を見極め、必要な情報を持ち帰らねばならぬ。ときには戦うより、戦わずに戻る判断の方が重要になる」
その言葉に、薫は少しだけ目を見開いた。
……戦わずに、戻る。
懐かしい教えを思い出した。
どんな状況でも、戦い方を失わず、生きて帰ること。
日本にいた頃、何度も教わったことだった。
「……それなら、なおさら学んでみたいです」
薫ははっきりと答えた。
オルフェンは頷き、少し考えるように顎へ手を添えた。
「ふむ……そういうことなら、紹介できる者たちがいる」
「紹介、ですか?」
「うむ。王都には、偵察や追跡、情報収集などを専門に扱う組織がある。王国とも長く協力しており、腕の立つ者も多い」
「へえ……」
「もっとも、少々変わった呼び名でな」
オルフェンは軽く笑った。
「《盗賊ギルド》という」
「……盗賊?」
薫は思わず聞き返した。
盗賊。
その単語から思い浮かぶのは、どうしても人の財布を盗んだり、家へ忍び込んだりする姿だった。
「……あの、それって大丈夫なところなんですか?」
「心配せずともよい。少なくとも、そなたに犯罪を教えようという話ではない」
「……あ、そうなんですね」
少し安心した。
……名前だけ聞くと、まだ若干不安は残るけど。
「王都の外で人や物を探す仕事もあれば、危険な場所へ先行して調査に赴く仕事もある。そなたが望む技術を学ぶには、適した場所かもしれぬ」
「なるほど……」
「ただし、紹介したからといって、すぐに認めてもらえるとは限らぬ。まずは話を聞き、実際に学ぶかどうか、自分で決めるとよい」
薫は少し考えた。
何ができるのか分からない《継承》。
それがいつ使えるようになるのか、今も見当はつかない。
けれど、それを待っている間に、できることはある。
「……はい。ぜひ、お願いします」
薫は顔を上げ、オルフェンに向かって頭を下げた。
「そうか。では、手配しておこう」
「ありがとうございます」
そう答えてから、薫はふと気づいた。
いつの間にか、面談が始まったときほど緊張していない。
王様と話していることに変わりはないのに、不思議なものだ。
「……あの、陛下」
「何かね?」
「俺、最初はすごく緊張してたんですけど、話してみると、少し安心しました」
「はは。それは何よりだ」
オルフェンは愉快そうに笑った。
「私も、そなたたちがあまり遠慮せず話してくれる方がありがたい」
「……じゃあ、次からはもう少し気楽に話します」
「うむ。そうしてくれ」
薫もつられて笑った。
窓から差し込む午後の日差しが、二人の座る卓を明るく照らしていた。
自分の能力については、まだ何も分からない。
けれど、今までとは違う。何をすればいいのか、少なくとも一つは思いついた。




