それでも、納得できない
騎士に案内されて歩く廊下は、薫たちが通っていた学校とは何もかもが違っていた。
高い天井に、等間隔で並んだ石柱。壁には大きな絵画や見慣れない紋章の入った旗が飾られ、足元には厚い絨毯が敷かれている。窓から差し込む日差しが石の床に落ちていたが、外の景色まではよく見えなかった。
薫は腕に抱えた教科書を持ち直した。
……どうしよう、これ。
三時間目の授業で使うはずだったものだ。さっきまで何の疑問もなく持ち歩いていたのに、今となってはひどく場違いな気がする。
「ねえ、薫」
隣を歩いていた綾芽が、小さな声で話しかけてきた。
「うん?」
「さっきの話、本当だと思う?」
「召喚されたってやつ?」
「……うん」
薫は少し考えた。
「どうだろう。でも、少なくとも学校じゃないのは確かだよね」
「それはそうだけど……」
綾芽は困ったように笑い、それから前を歩く騎士へ目を向けた。
「なんか、まだ実感が湧かなくて」
「……俺も」
そう答えながら、薫はもう一度周囲を見回した。
こんな建物は見たことがない。鎧を着た騎士も、白いローブの人々も、床に広がっていた奇妙な光も。
何かの撮影だと言われた方が、まだ納得できそうだった。
「なあ、薫」
今度は後ろから大地が声をかけてきた。
「これ、やっぱ夢とかじゃねえのか?」
「夢にしては随分はっきりしてるけど……」
「だよなぁ」
「そもそも俺たち全員で同じ夢見てたら、それはそれで怖えだろ」
慧が横から口を挟む。
「確かにな!」
「いや、納得すんなよ。俺も何が起きてるか分かんねえんだから」
いつもと変わらない二人のやり取りに、薫は少しだけ笑った。
けれど、笑い声は長く続かなかった。
周囲では、何人もの生徒が不安そうに顔を見合わせている。女子生徒の一人が目元を拭い、隣の友人がその背中をさすっていた。
薫は口を閉じた。
……そうだよな。
笑っていられるような状況じゃない。
廊下の先で、案内役の騎士が立ち止まった。
そこには、先ほどの広間にあったものよりも大きな扉があった。左右には別の騎士が控えており、案内役が近づくと姿勢を正した。
「皆様、こちらで少々お待ちください」
騎士がそう告げると、扉の向こうへ何かを伝えた。
しばらくして、重々しい音を立てながら両開きの扉が開いていく。
その先に広がっていたのは、先ほどとはまた違う大広間だった。
高い天井からは装飾の施された照明が吊り下がり、壁際には何人もの騎士や、きちんとした服装の人々が立っている。中央には長い絨毯が敷かれ、その先の数段高くなった場所に、一人の男性が座っていた。
年齢は五十歳くらいだろうか。
華美すぎない正装に身を包んだ男性は、薫たちが入ってくると、静かに立ち上がった。
……あの人が、王様?
「どうぞ、こちらへ」
案内役の騎士が促した。
薫たちは顔を見合わせながら、広間の中央へと進んでいく。
「……すげえな」
大地が小声で呟いた。
「おい、声」
慧がすぐに注意する。
「分かってるって」
そのやり取りを聞きながら、薫は正面の男性へ視線を戻した。
何か特別な作法が必要なのだろうか。
礼をするべきなのか、それとも膝をつくのか。
そんなことを考えているうちに、先頭を歩いていた颯真が足を止めた。
薫たちも、それに合わせて立ち止まる。
すると、男性が口を開いた。
「ようこそ、ラズリオン王国へ。私がこの国の王、オルフェン・ラズリオンだ」
よく通る、落ち着いた声だった。
「まずは、突然このような場所へ連れてきたことを詫びねばならぬ」
オルフェンは薫たちを見渡し、静かに頭を下げた。
予想していなかった行動に、薫は少し驚いた。
……王様が、謝るんだ。
「そなたたちにとって、今の状況がどれほど理不尽なものかは理解しているつもりだ。だが、我々にはどうしても力を借りねばならぬ事情があった」
オルフェンが顔を上げる。
「まずは、その事情を説明させてもらいたい」
生徒たちの間に、小さなざわめきが広がった。
そんな中、颯真が一歩前へ出た。
「あの、すみません」
「うむ。何だろうか」
「俺は九条颯真といいます。学校では学級委員長をしています」
颯真は一度、周囲の生徒たちへ目を向けた。
「みんな、まだ何が起きたのか分かっていません。俺もそうです。だから、まずはちゃんと説明してもらえませんか?」
「もちろんだ、ソウマ」
オルフェンは頷いた。
「そなたたちが暮らしていた世界と、この世界は異なる。我々は古い召喚術を用い、別の世界からそなたたちを呼び寄せた」
「……別の、世界」
颯真がその言葉を繰り返した。
「つまり、ここは日本じゃないってことですか?」
「日本、というのがそなたたちの故郷の名であれば、そのとおりだ」
薫は思わず綾芽と顔を見合わせた。
薄々そうなのかもしれないと思っていた。けれど、はっきりと言われると、やはりすぐには受け入れられない。
……異世界、か。
ゲームや小説では何度も見たことがある。
でも、実際に自分がそんな場所へ来るなんて、一度も考えたことはなかった。
「では、なぜ俺たちを?」
颯真が続けて尋ねた。
オルフェンはその問いを待っていたように頷く。
「この世界には、魔物と呼ばれる危険な生物が存在する。また、近年は《裂け目》と呼ばれる異常現象が各地で増えている」
「魔物……?」
「《裂け目》?」
聞き慣れない言葉に、何人かの生徒が首を傾げた。
「《裂け目》は、異なる空間や世界との境界が不安定になる現象だ。発生した場所では周囲の環境が乱れ、魔物の異常発生や、土地そのものへの被害が起こることもある」
薫は頭の中で説明を整理しようとした。
魔物。
裂け目。
異なる世界。
……いや、ちょっと待って。
知らない言葉が多すぎる。
「それって、つまり……この国は危ない状況なんですか?」
綾芽が尋ねた。
「すべての土地が危険というわけではない。街では人々が暮らし、商いを営み、農地では作物も育てられている。だが、被害は確実に増えている」
オルフェンは静かに答えた。
「我が国の騎士団も対応に当たっているが、守らねばならぬ場所は多い。そこで、異なる世界から来た者が持つ力を借りられないかと考えたのだ」
「力、ですか」
「うむ。この世界には魔術があり、人によって異なる能力や適性が存在する。来界者には、我々とは異なる力を持つ者が現れることがある」
その言葉に、慧がわずかに顔を上げた。
魔術。
薫も、先ほど白いローブの男が使った光を思い出していた。
あれも魔術だったのだろうか。
「ちょっと待ってください」
颯真の声が響いた。
「つまり、俺たちに魔物と戦ってほしくて呼んだってことですか?」
オルフェンは、すぐに答えた。
「戦う力を持つ者がいれば、確かに協力を願いたい。だが、そなたたちに戦闘を強いるつもりはない」
「……え?」
「戦うことを望まぬ者に、武器を持たせて前線へ送ることはせぬ。そなたたちがこの国でどのように生きるかは、できる限り本人の意思を尊重したいと考えている」
生徒たちの間から、戸惑い混じりの声が上がった。
「じゃあ、戦わなくてもいいんですか?」
今度は別の男子生徒だった。
「そうだ。学ぶことも、働くことも、戦いとは別の形で人々を助けることもできる。もちろん、まずはこの世界での生活に慣れてもらう必要があるがな」
オルフェンはそこで一度、言葉を切った。
「そなたたちの住む場所や食事、衣服については、王国が責任を持って用意する。生活のために戦うことを条件とするつもりもない」
薫は少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも、今すぐ魔物と戦えと言われるわけではないらしい。
それは、ありがたい。
けれど。
「……あの」
今度は女子生徒が声を上げた。
「私たち、帰れるんですか?」
その一言で、広間が静かになった。
「日本に……家に帰れるんですよね?」
声が震えていた。
薫も、思わずオルフェンへ視線を向けた。
そうだ。
それが一番大事なことだった。
学校へ戻れるのか。
家へ帰れるのか。
また、いつもどおりの生活ができるのか。
オルフェンは、女子生徒の問いを聞くと、少しだけ表情を引き締めた。
「そのことについても、正直に話さねばならぬ」
嫌な予感がした。
「我々は異なる世界から人を呼び寄せる術を用いた。しかし、呼び寄せた者を元の世界へ確実に送り返す方法は、いまだ確立できていない」
「……え?」
誰かの声が漏れた。
「じゃあ、帰れないってこと?」
「そんなの聞いてない!」
「待ってよ! どういうこと!?」
生徒たちが一斉に騒ぎ始めた。
薫も、すぐには言葉が出なかった。
……帰る方法が、ない?
腕の中の教科書を、無意識に強く抱えた。
今朝、自分で作った朝食を食べた。
学校で友達と話して、授業を受けた。
そして、三時間目の教室へ移動しようとしていた。
それだけだった。
それなのに。
「おい、ちょっと待てよ」
大地が低い声で言った。
「帰れるか分かんねえのに、呼んだってことか?」
いつもの大きな声ではなかった。
オルフェンは、その問いから逃げなかった。
「……そうだ」
「マジかよ……」
「我々の都合で、そなたたちを故郷から引き離した。その事実は、どのような事情があろうと変わらぬ」
オルフェンは生徒たちを見渡した。
「帰還の可能性についても調べ続けるつもりだ。だが、必ず帰せるという約束は、今の私にはできぬ」
誰も、すぐには答えなかった。
すすり泣く声が聞こえた。
少し離れた場所では、美琴が灯の手を握っている。 綾芽も唇を結んだまま、床へ視線を落としていた。
薫は何か言おうとして、やめた。
大丈夫だよ、なんて。
そんなこと、今は言えなかった。
「……分かりました」
やがて、颯真が口を開いた。
その表情は、先ほどよりもずっと硬かった。
「でも、納得できたわけじゃありません」
「うむ。当然だろう」
「俺たちは、自分たちでここへ来ようと思ったわけじゃないです。それなのに、帰れるかどうかも分からないって……」
颯真は一度、言葉を切った。
「正直、どうしたらいいのか分かりません」
「……そうであろうな」
オルフェンは静かに頷いた。
「今すぐ理解しろとも、納得しろとも言わぬ。そなたたちには怒る理由がある。そのことも承知している」
王はそこで、少しだけ声を落とした。
「ただ、これだけは約束しよう。そなたたちがこの世界で暮らす間、その生活と安全については、ラズリオン王国が責任を負う」
颯真はしばらくオルフェンを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
それから一歩下がり、薫たちの方へ戻ってきた。
「颯真」
薫が声をかけると、颯真は小さく息を吐いた。
「悪い。あんまりうまく聞けなかった」
「いや、そんなことないよ」
「……そうか?」
「うん。聞きたいこと、ちゃんと聞いてくれたと思う」
颯真は少しだけ困ったように笑った。
「……ありがとな」
薫も小さく頷いた。
自分が颯真の立場だったら、あんなふうに皆の前で話せただろうか。
……分かんないな。
少なくとも、颯真がいてくれてよかったとは思った。
広間には、まだすすり泣く声が残っていた。誰も積極的に口を開こうとはせず、薫も腕の中の教科書へ目を落とした。ついさっきまで、これを持って次の授業へ向かうはずだった。それが、もう戻れないかもしれない。
……正直、全然実感が湧かない。
しばらくして、オルフェンが再び口を開いた。
「長く話してしまったな。そなたたちも疲れているだろう」
オルフェンは生徒たちの様子を確かめてから、傍らに控えていた人物へ目を向けた。
「今後の生活については、順を追って説明させよう。まずは皆の体調を確認したい。その際に、能力や適性についても調べさせてもらうつもりだ」
「能力……」
薫は小さく呟いた。
魔術。
固有能力。
自分にも、そんなものがあるのだろうか。
「調査には我が国の魔術教授が立ち会う。危険のない範囲で確認を進めるつもりだ」
オルフェンはそう告げると、少しだけ表情を和らげた。
「だが、その結果によって、今日そなたたちの生き方を決めるわけではない。まずは、この世界について知ることから始めてほしい」
薫は改めて、周囲の仲間たちを見回した。
綾芽も、颯真もいる。
大地も慧も、美琴も灯も、紗良も。
みんな、ついさっきまで同じ教室で過ごしていた。
その事実だけは、何も変わっていない。
薫はゆっくりと息を吐いた。
何ができるのかも、どうやって帰るのかも分からない。
それでも、今は目の前のことを一つずつ確かめていくしかなかった。




