突然、魔方陣
二時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
教師が教室を出ていくと、生徒たちは一斉に席を立ち始めた。三時間目は移動教室だ。教科書を鞄にしまう者もいれば、すでに廊下へ出ていった者もいる。
薫も机の中から次の授業で使う教科書を取り出し、ノートと一緒に抱えた。
「颯真、次ってどこの教室だっけ?」
「ん? 時間割に書いてあっただろ」
「いや、見たんだけどさ。何階だったかなって」
「お前なぁ……」
「二人とも、まだ準備してるの?」
声をかけてきたのは綾芽だった。すでに教科書を抱え、いつでも移動できる格好をしている。
「薫、さっきも確認してなかった?」
「いやぁ、ちょっと記憶が曖昧で」
「もう。ちゃんと覚えときなよ」
「ごめんて」
「ごめんじゃない」
綾芽が笑った。
近くでは、紗良も鞄から教科書を取り出していた。机の上に残っていた筆箱をしまうと、隣の席の女子生徒へ声をかける。
「そろそろ行きましょうか。次の授業、移動がありますから」
「あ、ちょっと待って! まだ準備できてない!」
「ふふっ、慌てなくても大丈夫ですよ」
紗良は笑いながら、その子が準備を終えるのを待っていた。
少し離れた席では、慧がまだ本を読んでいた。
「おい慧、そろそろ行くぞ」
「分かってるって。あとちょっと」
「さっきからそれ言ってんだろ」
「うるせえな。今いいところなんだよ」
大地が呆れた顔をすると、慧はようやく本にしおりを挟んだ。
薫もそろそろ移動しようと、教科書を抱え直した。
そのときだった。
「……ん?」
足元に、細い光の線が見えた。
最初は窓から差し込んだ日差しが反射したのかと思った。だが、違う。光は机の脚の間を縫うように伸び、床の上をゆっくりと走っている。
「おい、何だこれ?」
大地の声が聞こえた。
「……は? 何だよ、これ」
いつもなら何かしら軽口を返す慧も、今ばかりは床の模様を見つめていた。
「慧、お前何か分かんのか?」
「……分かるわけねえだろ。こんなの初めてだ」
薫が顔を上げると、教室のあちこちで生徒たちが足元を見つめていた。
「え、何これ……?」
綾芽も不思議そうに床を見下ろしている。
光の線は次々と枝分かれし、円を描き、見たこともない模様を形作っていく。
「ちょっと、何これ!?」
「美琴ちゃん……!」
美琴の声に、灯の不安そうな声が重なる。
「皆さん、少し離れた方が……!」
紗良が声を上げた。
「おい、何だよこれ!」
教室の出入口にいた男子生徒が、慌てて廊下へ飛び出そうとした。
だが、その足が不自然に止まった。
「……は?」
男子生徒は目の前に手を伸ばし、何かを確かめるように押してみる。しかし、手は空中で止まり、それ以上先へ進まない。
「ちょっ、何だこれ! 出られねえ!」
「えっ、どういうこと?」
「分かんねえよ! 何かあんだよ、ここ!」
男子生徒は今度こそ抜け出そうと肩から身体を押しつけたが、見えない何かに押し戻され、よろめいた。
……何だ、今の。
薫は思わず出入口へ目を向けた。
扉は開いている。廊下も、その先を歩いていく生徒たちも見えている。
なのに、出られない?
「薫!」
颯真の声がした。
振り向こうとした瞬間、床の模様が一際強く輝いた。
眩しい。
薫は思わず目を細めた。
誰かが何かを叫んでいた。
けれど、その声を聞き取るより早く、白い光が視界を埋め尽くした。
視界を埋め尽くしていた白い光が、少しずつ薄れていく。
薫は何度か瞬きをした。眩しさが残っているせいか、目の前の景色がぼんやりとしか見えない。
……あれ?
おかしい。さっきまで教室にいたはずなのに、見慣れた机も、椅子も見当たらなかった。
薫は目を細めたまま、ゆっくりと顔を上げた。
最初に目に入ったのは、高い天井だった。教室とは比べものにならないほど広い空間に、太い石柱が何本も並んでいる。周囲を囲むように立っているのは、白いローブをまとった人々だ。
……どこだ、ここ。
慌てて足元に目を落とす。そこには、先ほど教室で見たものとよく似た模様が広がり、淡い光を放っていた。
周囲からは、生徒たちの戸惑った声が聞こえてくる。
薫はもう一度顔を上げた。広間を囲むように、白いローブをまとった見知らぬ人々が立っている。
……いや、待って。何が起きたんだ?
腕の中には、三時間目の授業に持っていくはずだった教科書とノートがある。ついさっきまで、颯真たちと次の授業の話をしていた。
それなのに、どうしてこんな場所にいるんだろう。
「……薫!」
聞き慣れた声に振り向くと、颯真がすぐ近くに立っていた。
「颯真……ここ、どこ?」
「分かんねえ。お前、どっか怪我してないか?」
「うん、大丈夫。颯真は?」
「俺も平気だ」
少し離れたところでは、綾芽が周囲の生徒たちに声をかけていた。大地は落ち着かない様子で辺りを見回し、慧は床に描かれた模様をじっと見つめている。
「ちょっと、何なのこれ……!」
「美琴ちゃん、あの……」
「大丈夫、灯。あたしもいるから」
美琴はそう言って灯のそばに立っていたが、その表情には明らかに戸惑いが浮かんでいた。
ほかの生徒たちも同じだった。互いに名前を呼び合い、誰かが泣きそうな声で学校に帰りたいと言っている。
薫は手元へ目を落とした。
教科書とノート。
三時間目の授業へ持っていこうとしていたものが、そのまま腕の中にある。
……いや、本当に何が起きたんだ。
そのとき、広間の奥から重い音が響いた。
大きな扉が開き、鎧をまとった男たちが入ってくる。
「……騎士?」
誰かが呟いた。
確かに、そうとしか見えなかった。金属製の胸当てに、腰へ提げられた剣。映画やゲームで見るような格好だが、目の前にいるのは本物の人間だ。
薫は思わず姿勢を正した。
……本物、だよな。あれ。
男たちは一定の距離を保って立ち止まった。剣に手をかける様子はない。
先頭の男が何かを話した。
「……、…………?」
……今なんて言った?
薫は思わず眉をひそめた。
声は確かに聞こえた。何かを問いかけられたようにも思える。だが、言葉としてはまったく理解できない。
日本語ではない。英語でもなさそうだ。
……何語なんだ、これ。
「何て言ってんだ?」
「分かんねえよ」
大地と慧の声が聞こえた。
騎士もこちらの反応を見て、何かに気づいたらしい。後方にいる白いローブの人々へ目を向けた。
すると、その中から一人の男が進み出た。
落ち着いた様子の男だった。周囲の騒ぎにも慌てることなく、生徒たちを一度見渡すと、静かに片手を上げる。
指先に、小さな光が集まった。
「えっ……?」
光が細い輪のように広がり、ふわりと宙へ散った。
薫は反射的に身構えたが、痛みも熱さもない。
……何、今の。
男が先頭の騎士へ頷く。
騎士は改めてこちらへ向き直り、口を開いた。
「皆様、私の言葉がお分かりになりますか?」
「……え?」
薫は耳を疑った。
言葉の響きは、先ほどと変わらない。日本語ではないはずなのに、今度はその意味が理解できた。
頭の中で翻訳しているわけでもない。ただ、聞けば何を言っているのか分かる。
……何だ、これ。
「え、待って。今、何て……」
「言葉、分かるようになってない?」
「どういうこと?」
生徒たちの間に、再びざわめきが広がった。
騎士はその様子を確かめると、静かに頷いた。
「突然のことで、皆様が混乱されているのは承知しております。まずは、どうか落ち着いてお聞きください」
よく通る、落ち着いた声だった。
大声を張り上げるわけでも、必要以上に柔らかく話しかけるわけでもない。
「皆様に危害を加えるつもりはございません。こちらの兵も、皆様を傷つけるためにいるのではありません」
そう言って、騎士は後ろに控える兵たちへ目を向けた。
彼らも静かに立ったままで、こちらへ近づこうとはしない。
それでも、生徒たちの不安が消えるわけではなかった。
「……ここ、どこなんですか?」
前に出たのは、颯真だった。
薫は隣の親友へ目を向ける。
表情こそ硬いものの、颯真は騎士から視線を逸らしていなかった。
「俺たち、さっきまで学校にいたんです。なのに、急に光って……気づいたらここにいました。何が起きたのか、説明してもらえませんか?」
騎士は颯真の言葉を最後まで聞いてから、ゆっくりと口を開いた。
「承知しました。まず、ここはラズリオン王国の王城です」
「……ラズリオン?」
綾芽が小さく呟いた。
薫も聞いたことのない国名に首を傾げる。
「はい。そして皆様は、我々の行った召喚術によって、この場所へお越しになりました」
召喚術。
薫はその言葉を頭の中で繰り返した。
……召喚?
聞き覚えはある。
ゲームや小説でなら。
でも、まさか。
「それって……俺たちを、ここに呼んだってことですか?」
「そのとおりです」
「俺たちの意思とは関係なく?」
颯真の声が、少しだけ硬くなった。
騎士はすぐには答えず、一度だけ頷いた。
「……はい。その点についても、我々からご説明しなければなりません」
「じゃあ、帰れるんですか?」
別の生徒が声を上げた。
「そうだよ! 学校は!? 家はどうなるの!?」
その声をきっかけに、あちこちから質問が飛び始めた。
騎士は遮らずに耳を傾けていたが、やがて片手を上げた。
「皆様のご不安はもっともです。ですが、今ここで私からお答えできることには限りがございます」
「そんな……」
「詳しい事情については、国王陛下より直接ご説明いたします。その前に、体調の優れない方はいらっしゃいませんか?」
紗良が近くで座り込んでいた女子生徒へ声をかけた。
「大丈夫ですか? 立てそうですか?」
「……うん。ちょっと、びっくりしただけ」
颯真もその様子を確認し、改めて騎士へ向き直った。
「……分かりました。ひとまず、話を聞かせてください」
騎士は頷いた。
「ありがとうございます」
颯真は振り返り、薫たちへ目を向けた。
「みんな、まずは一緒に話を聞こう。ここで騒いでも、何も分からないままだしさ」
「……まあ、そうだな」
大地が腕を組んで頷く。
「それに、向こうも説明するつもりはあるみたいだしな」
慧も騎士たちへ目を向けたまま言った。
それでも、不安が消えたわけではない。生徒たちの間では小声でのやり取りが続き、騎士たちを警戒するように見つめる者もいた。
薫はもう一度、広間を見回した。
見知らぬ場所に、見知らぬ人々。ここがどこなのかも、どうすれば帰れるのかも分からない。
相手を信用していいかどうかも、まだ判断できなかった。
……でも、今は話を聞くしかないか。
騎士が静かに一礼した。
「それでは、国王陛下がお待ちです。ご案内いたします」
騎士たちが入ってきた扉の方へ、案内役の男が歩き出す。
颯真が先にその後を追った。綾芽も続き、周囲の生徒たちも互いの顔を見合わせながら、少しずつ歩き始める。
薫は腕に抱えた教科書を持ち直すと、二人の後を追った。
ほんの少し前まで、三時間目の授業を受けるはずだった。
それなのに、今から会うのは国王だという。
……いや、本当にどうなってるんだろう。
薫は答えの出ないまま、見知らぬ廊下へ足を踏み出した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
ストックに少し余裕があるので、本日はこのあとさらに2話投稿する予定です。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします!




