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火を継ぐ者の帰る道  作者: いわんちょちょ
序章 日本編
3/20

ありふれた日常(下)

 放課後の武道場には、竹刀を打ち合わせる音が響いていた。

 乾いた打突音に、床を踏み込む足音。部員たちの気合いの声が重なり、道場のあちこちで激しい攻防が繰り広げられている。


 薫は面の奥でゆっくりと息を吐き、竹刀を構え直した。

 この日の稽古では、部員同士で一本勝負をすることになっていた。

 薫の正面に立つのは、九条颯真。

 何度も竹刀を交えてきた親友であり、できればあまり戦いたくない相手でもある。

 別に、颯真と戦うのは嫌いじゃない。単純に、強いのだ。


「薫、今日は負けねえからな」

「この前もそんなこと言ってなかった?」

「うるせえ。今日は勝つ!」

「はいはい。お手柔らかに」

「絶対思ってねえだろ、それ」


 颯真が笑う。薫も小さく笑い返し、竹刀の先を相手へ向けた。その瞬間、2人の人の表情が真剣なものに変わった。


「始め!」


 審判役の先輩の声が響いた。

 二人は中段に構え、少しずつ間合いを詰める。

 颯真の竹刀の先が、わずかに動いた。

 薫はそれに合わせて剣先を調整する。互いの竹刀が触れ、軽い音を立てた。


 颯真が半歩踏み込んだ。薫は竹刀を合わせて押し返そうとしたが、剣先を弾かれる。


「面!」


 薫はとっさに竹刀を立てた。強い衝撃が両手に伝わり、握りがわずかに揺らぐ。どうにか打突を逸らして一歩退いたところへ、颯真がさらに踏み込んできた。


「小手!」


 狙われた手元を引き、辛うじてかわす。すぐに反撃しようと竹刀を振り上げたが、颯真はもう中段に構え直していた。


 ……速い。


 こちらが攻め返すより、相手が次の一撃を用意する方が早い。


「面!」


 受けた竹刀が強く押し込まれる。間一髪で打突を逸らし、足を運んで距離を取った。


 ……危なっ。


 しかし、颯真はそれで終わらなかった。

 薫が構えを戻すより早く、次の一歩を踏み込んでくる。


「小手!」


 薫は竹刀を引き、打突を外した。すかさず反撃を試みるが、颯真はすでに竹刀を戻している。

 竹刀が激しくぶつかった。

 今度はこちらから面を狙う。だが、颯真は身体を引いて打突をかわすと、そのまま鋭く踏み込んできた。


「面!」


 ダンッ!


 床が大きく鳴る。

 薫はとっさに身を引き、竹刀を合わせた。打突は届かなかったものの、勢いを受け止めきれず、さらに一歩後退する。


 まずい。

 このままじゃ、颯真のペースだ。


 一度攻め始めた颯真は、簡単には止まらない。

 距離を取れば追ってくる。反撃しようとすれば、その出鼻を狙われる。しかも、ただ勢いに任せて打っているわけではなく、こちらの動きを見て攻める場所を変えてくる。


 ……ほんと、やりにくいなぁ。


 薫は歯を食いしばり、颯真の次の踏み込みに備えた。


「小手!」


 竹刀を合わせ、打突を逸らす。

 そのまま距離を詰め、今度は薫から仕掛けた。


「面!」


 颯真が竹刀を上げる。

 互いの竹刀がぶつかり、鍔が触れ合うほどの近い間合いになった。


 ぎし、と竹が軋む。

 面金越しに、颯真の顔が見えた。

 笑ってはいない。

 真剣な目だった。


 薫も竹刀を握る手に力を込める。

 互いに押し合い、頃合いを見て距離を取った。

 少しだけ、呼吸が荒くなっている。


「おお、すげえ……」

「九条先輩、さっきからずっと攻めてるぞ」

「でも榊先輩も一本も取らせてないじゃん」


 壁際で見ていた後輩たちの声が聞こえた。

 薫は呼吸を整えながら、もう一度竹刀を構える。

 颯真の方が正面からの攻めは強い。

 それは今に始まったことではない。

 けれど、だからといって、ただ防いでいるだけでは勝てない。


 ……どう出るべきか。


 颯真が剣先をこちらへ向けたまま、じりじりと距離を詰めてくる。

 薫は一歩下がった。

 颯真が追う。

 もう一歩。

 今度は、わずかに竹刀の先を動かしてみる。

 颯真の視線が剣先を追った。

 その瞬間、薫は前へ踏み出した。


「小手!」


 しかし、颯真はすぐに反応した。

 竹刀を弾かれ、打突が逸れる。

 続けて颯真が面を狙う。

 薫は身体を引き、間一髪でかわした。


 ……やっぱ、そう簡単にはいかないか。


 颯真は、こちらが退けば追ってくる。それは昔から変わらない。間合いを切ったつもりでもすぐに

詰め直され、構えを整える前に次の打突が飛んでくる。


 普段なら、厄介でしかない。

 けれど、今なら――。


 ……使えるかもしれない。


 薫は構えを直し、もう一度間合いを測った。

 颯真が近づいてくる。薫は一歩退き、さらにもう一歩、今度は少し大きく距離を取った。

 颯真が追ってくる。


 ……やっぱり。


 薫はさらに後ろへ下がるそぶりを見せた。


「面!」


 颯真が踏み込む。正面を捉えようとした竹刀が振り上がり、その手元が浮いた。

 その瞬間、薫は後ろへ運びかけていた足の向きを変えた。身体を斜め前へ滑らせ、颯真の正面から外れる。


 ――そこだ。


 薫は空いた右小手へ竹刀を走らせた。


「小手!」


 踏み込んだ足が床を鳴らす。

 パァンッ!

 物打が小手を捉えた。薫は勢いを止めずに颯真の横を抜け、振り返って竹刀を向ける。

 一拍遅れて、颯真が構え直した。


「小手あり!」


 武道場に審判役の先輩の声が響いた。

 薫は構えを保ったまま、颯真と開始位置へ戻る。


「勝負あり!」


 二人は蹲踞して竹刀を納め、立ち上がって礼を交わした。

 薫は面の奥で大きく息を吐いた。


 ……よし。なんとか読み勝ったか。


「おおっ、榊が取った!」

「今のどうやったんだ?」

「九条先輩、完全に面狙ってたよな?」


 周囲から声が上がる。

 颯真はしばらくその場に立っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……やられた」

「いやぁ、危なかったよ」

「途中まで普通に下がると思ってたんだけどな。急に外された」

「そう思ってくれるかなって」

「お前、ほんとそういうの上手いよな」

「正面からじゃなかなか勝てないからね」

「くそー、悔しい!」


 颯真はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。

 二人は互いに礼を交わし、道場の端へ移動する。

 面を外した途端、額を伝っていた汗が頬を流れ落ちた。薫は手ぬぐいで顔を拭い、大きく息をつく。


 ああ、疲れた。


 颯真も隣で面を外している。額に張りついた茶色い髪をかき上げると、こちらへ顔を向けた。


「次はあの足、見逃さねえからな」

「じゃあ、次は別の手を考えないとね」

「お前、もう次のこと考えてんのかよ」


 薫が笑った、そのときだった。


「はい、二人ともお疲れさま!」


 聞き慣れた声に振り返る。

 綾芽がスポーツドリンクを二本持って立っていた。彼女も稽古を終えたらしく、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。


「はい、薫」

「あ、ありがとう」

「颯真も。お疲れ!」

「おう、サンキュー」


 颯真が飲み物を受け取ると、綾芽は楽しそうに笑った。


「いやー、いい勝負だったね! 颯真、最後は完全にやられちゃったじゃん」

「分かってるって。あれは薫が上手かった」

「でしょ? でも、その前の連続攻撃もすごかったよ。薫、結構危なかったんじゃない?」

「うん。何回か本気で取られると思った」

「そうだろ? 次はちゃんと決めるからな」

「次も、そう簡単には負けないよ」


 薫が笑って返すと、颯真も不敵な笑みを浮かべた。


「言うじゃねえか、この野郎!」


 綾芽が声を上げて笑った。


 薫もつられて笑いながら、スポーツドリンクの蓋を開ける。

 一口飲むと、冷たさが喉を通り、火照った身体に染み渡っていった。


「……うま」

「ふふっ、いい飲みっぷりだね」

「いや、本当に暑かったからさ」

「それはそうだけど」


 綾芽も笑いながら頷いた。

 道場では、まだほかの部員たちが竹刀を打ち合わせている。

 乾いた音が響くなか、薫はもう一口スポーツドリンクを飲んだ。


 ◇


 部活が終わる頃には、すっかり日が傾いていた。

 薫は竹刀袋を肩に掛け、颯真と綾芽に並んで校門を出た。夕方の風が汗の引いた首筋に触れて、少し肌寒い。


「なあ、薫。さっきの足、今度ちょっと教えてくれよ」

「いいけど、颯真ならすぐ覚えちゃいそうだなぁ」

「そりゃ覚えるだろ。次も同じ手でやられたくねえし」

「よし、次はどんな手を使おうかな」

「お前なぁ……」


 隣で聞いていた綾芽が、呆れたように笑った。


「二人とも、まだ勝負してるの?」

「いや、俺は普通に話してただけだよ」

「どの口が言ってんだ、薫!」

「あははっ!」


 綾芽の笑い声につられて、薫も笑った。

 それから三人は、部活のことや翌日の授業のことを話しながら歩いた。途中の分かれ道で手を振り合い、薫は一人、家へと向かった。


 ◇


「ただいま」


 家に着くと、まず台所へ向かった。

 米を研いで炊飯器のスイッチを入れ、昨日スーパーで買っておいた魚を冷蔵庫から取り出す。ご飯が炊けるまでに野菜たっぷりの味噌汁を作り、冷蔵庫に残してあったひじきの煮物も温め直した。

 しばらくすると、魚の焼ける香ばしい匂いが台所に広がった。


 焼き魚に、ご飯と味噌汁。それから、ひじきの煮物。


 ……うん。いいんじゃない?


「いただきます」


 手を合わせ、箸を取る。

 魚の身をほぐして口に運ぶと、皮の香ばしさとほどよい塩気が広がった。炊きたてのご飯ともよく合う。


 ……ちょっと焼きすぎたかと思ったけど、大丈夫そうだな。


 味噌汁を一口飲み、今度はひじきに箸を伸ばす。

 食卓には、箸と食器の触れる小さな音が響いていた。


 食事を終えると、薫は使った食器を洗い、布巾で水気を拭き取った。流し台を片付けてから、部屋の隅にある仏壇へ向かう。


 薫はその前に座り、静かに手を合わせた。


 目を閉じる。

 昼休みに大地たちと騒いだこと。颯真と竹刀を交えたこと。帰り道で綾芽と笑ったこと。


 ……今日も、いろいろあったなぁ。


 そんなことをぼんやりと思い返しながら、薫はゆっくりと目を開けた。

 何かを話すわけでもない。ただ、すぐに立ち上がる気にもならず、そのまま座っていた。


 壁の時計が、こちこちと時を刻んでいる。

 窓の外から、車の通り過ぎる音が聞こえた。しばらくするとそれも遠ざかり、また静かになる。

 どのくらい、そうしていただろうか。


「……よし」


 小さく呟いて立ち上がる。

 まだ、今日やることが残っている。


 家の離れには、小さな道場がある。

 薫は稽古着に着替え、木刀を手に道場へ入った。壁際に荷物を置き、軽く身体をほぐしてから中央に立つ。


 木刀を構える。

 呼吸を整え、一歩踏み込んだ。

 ひゅっ、と木刀が空気を切る。

 振り下ろし、構え直す。また一歩踏み込み、振る。

 何度か繰り返すうちに、少しずつ身体が温まってきた。


 ……さて。


 薫は木刀を下ろし、今日の颯真との勝負を思い返した。

 最後の一本。

 後ろへ退くと見せかけ、斜めに身体を運んだあの足さばきだ。


 榊流の《霞渡(かすみわたり)》。教本に載っている技の一つで、これまでも繰り返し稽古してきた。

 今日はそれを、剣道の動きに合わせて使ってみた。

 結果としては、うまくいった。

 けれど、完璧だったかと聞かれると、少し怪しい。

 颯真がこちらの動きに気づくのが、もう少し早かったら。


 ……たぶん、あの一本は取れていない。


 薫はもう一度、構えた。

 相手が正面から踏み込んでくるところを想像する。

 一歩退く。

 もう一歩。

 そして、後ろへ運びかけた足の向きを変え、身体を斜め前へ滑らせる。

 木刀を振る。


 ……少し大きいな。


 もう一度。

 今度は足の運びを小さくする。身体が流れないように重心を整え、踏み込みに合わせて木刀を振った。

 先ほどよりはいい。

 それでも、まだ少し引っかかる。


 薫は何度か同じ動きを繰り返した。足を止めて確かめ、また構え直す。ときには最初からやり直し、納得できるまで身体を動かした。


 やがて、額から汗が一筋流れ落ちた。

 薫は木刀を下ろし、大きく息を吐く。


「……ふぅ」


 静かな道場に、自分の呼吸だけが聞こえた。

 握っていた木刀へ目を落とす。

 少し使い込まれた柄に、慣れた重さ。

 目を閉じれば、足の運びも、振り下ろすときの感覚も、まだ身体に残っている。


 ……まだ、忘れてない。


 薫はそっと木刀を握り直した。

 もう一度だけ、構える。

 踏み込み、振り下ろす。

 木刀は、先ほどよりも素直に振り抜けた。


「……うん」


 今日は、このくらいにしておこう。

 薫は木刀を片付け、道場の灯りを消した。


 家へ戻ると、汗を流すために風呂を沸かした。身体を洗い、湯船へゆっくりと浸かる。


「……あー」


 思わず声が漏れた。

 稽古で疲れた身体に、温かい湯が心地よい。

 薫は湯船の縁に頭を預け、天井を見上げた。

 ただ、こうして湯に浸かっているだけでいい。

 余計なことを考えずに済む、この時間が好きだった。


 ……もう少し入っていようかな。


 そう思ってから、どのくらい経っただろう。

 少しのぼせそうになったところで、ようやく湯船から上がった。


 髪を乾かして部屋着に着替えると、今度は明日の準備に取りかかった。

 教科書とノートを鞄へ入れ、時間割を確かめる。部活で使った道具も片付けて、忘れ物がないかひと通り確認した。


 よし、確認終わり。


 時計を見ると、そろそろ寝る時間だった。

 薫は部屋の灯りを消す前に、もう一度仏壇へ向かった。

 三つの位牌を見つめる。


「……おやすみ」


 返事はない。

 薫は小さく頷くと、立ち上がった。

 部屋の明かりを消し、静かに扉を閉める。

今後の更新は不定期となりますが、少しずつ書き進めていく予定です。

一話一話を大切にしながら投稿していきたいと思いますので、気長にお付き合いいただけると嬉しいです!

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