ありふれた日常(中)
一時間目が終わり、薫と颯真は飲み物を買いに教室を出ていた。
休み時間の廊下は、それなりに賑やかだ。友人同士で話している生徒もいれば、次の授業の準備をしている生徒もいる。
薫は買ったばかりのペットボトルを片手に、颯真と並んで教室へ向かっていた。
「いやー、朝は本当に危なかったな」
「誰のせいだと思ってるのさ」
「俺だけどさ」
あまりにあっさり認めるものだから、薫は思わず吹き出した。颯真もつられたように笑う。
……まあ、反省はしているらしい。
それに、あれだけ走れば嫌でも目は覚めただろう。でも、明日も明後日もあんなぎりぎりの時間に登校するのは、さすがに勘弁してほしい。
「明日はちゃんと起きなよ」
「分かってるって。今日は目覚ましをもう一個かけとく」
「……今まで何個だったの?」
「二個」
「三個目で起きられるといいね」
「お前、絶対馬鹿にしてるだろ」
「そんなことないよ。応援してる。心の底から」
「こいつ……」
颯真が苦笑した、そのときだった。
「あ、九条くん!」
前から歩いてきた女子生徒が、こちらに向かって手を振った。
「おう、おはよう」
「ねえ、昨日はありがと! 教えてもらったところ、小テストに出たんだよ!」
「本当か? よかったじゃん」
「うん! また分かんないところあったら聞いてもいい?」
「もちろん。俺で分かることならな」
「やった! ありがとね!」
女子生徒は嬉しそうに手を振り、友人と一緒に歩いていった。
颯真も軽く手を振り返す。
相変わらずだなぁ。
薫は隣を歩く親友をちらりと見た。こうして誰かに声をかけられるのも、颯真にとっては珍しいことではない。
……こいつが今朝、食パンをくわえて走っていたところを見たら、さっきの子たちはどんな顔をしたんだろう。
「……あ、九条くん」
今度は、別の女子生徒から声をかけられた。
颯真が振り向くと、その女子生徒は一瞬だけ言葉に詰まり、少し照れたように笑った。
「お、おはよ」
「おう、おはよ!」
颯真が笑顔で返すと、女子生徒は小さく手を振った。隣にいた友人に何かを囁かれ、頬を赤くしながら歩いていく。
……ああ、そういうことね。
当の颯真は、何事もなかったように歩き始めた。
「颯真ってさ」
「ん?」
「よくそんなに声かけられるよね」
「そうか?」
「そうだよ。今だって二回も」
「別に普通だろ。知り合いに挨拶されただけだし」
「……そうだね」
いや、今のは多分、それだけじゃないと思うんだけど。
……わざわざ言うことでもないか。
そんなことを考えているうちに、二人は教室へ戻ってきた。
教室の中は、廊下に負けず劣らず賑やかだった。机を寄せて話している者もいれば、次の授業まで机に突っ伏している者もいる。休み時間の過ごし方は人それぞれだ。
「ねえねえ、これ見てよ! 可愛くない?」
窓際の方から、弾んだ声が聞こえてきた。
橘美琴だ。
何人かの女子生徒と机を囲み、スマートフォンの画面を見せている。何を見てそんなに盛り上がっているのだろう。自分の席へ戻る途中、薫が近くを通りかかると、画面には丸っこいお化けのぬいぐるみが映っていた。
「えっ、何これ。お化け?」
「そう! この間見つけたんだけどさ、めっちゃ可愛くない?」
「えー、なんか変な顔してない?」
「そこがいいんじゃん!」
美琴は楽しそうに笑いながら、画面を指で拡大してみせた。
その隣では、茶色いボブヘアの小柄な女子生徒が、控えめに画面を覗き込んでいた。
望月灯だ。
「灯はどう思う?」
美琴は自然にスマートフォンを灯の方へ傾けた。
「……えっと」
灯は少し考えてから、画面の一部分を指差した。
「この、ちょっと困ってるみたいな顔……かわいい、と思う」
「あっ、そう! そこ! そこがいいんだよ!」
「……ふふ」
美琴が嬉しそうに声を上げると、灯もつられて笑った。
お化けのぬいぐるみ、か。
美琴さん、楽しそうだな。灯さんも笑ってるし、よっぽど気に入ったんだろう。
自分の席に戻ろうとしたとき、近くで小さな声がした。
「あっ、痛っ」
「どうしたんですか?」
「いや、プリントで指切っちゃって……」
「少し血が出ていますね。先に水で洗ってきてください。絆創膏ならありますから」
「えっ、ほんと? ありがとう、白石さん!」
「いえ、どういたしまして」
白石紗良は鞄から小さなケースを取り出し、中身を確かめていた。
……準備いいなぁ。
自分だったら、たぶん水で洗って終わりだろう。絆創膏、鞄に何枚か入れておこうかな。
「薫、何してんだ? 次、始まるぞ」
「あ、うん。今行く」
颯真に呼ばれ、薫は自分の机へ向かった。
ペットボトルを置き、椅子を引く。
窓際からは、まだ美琴たちの楽しそうな声が聞こえていた。
◇
四時間目の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
ようやく昼休みだ。
薫は机の上の教科書とノートを片付け、軽く背筋を伸ばした。ずっと座っていたせいか、少し身体が固まっている。
昼飯、どうしようか。
そんなことを考えていると、目の前に大きな影が落ちた。
「薫!」
「……ん?」
顔を上げると、朝倉大地が机の前に立っていた。がっしりとした体格に、よく通る声。近くにいるだけで、なんとなく存在感のある男だ。
そして、何やら妙に真剣な顔をしている。
「今日こそ決着をつけるぞ」
「……何の?」
「焼きそばパンだよ!」
……焼きそばパン?
薫は一瞬考えた。
いや、待ってほしい。焼きそばパンと決着をつけるって、どういうことだ。
「真面目に聞くなよ、薫。こいつ、腹減りすぎておかしくなってるから」
横から口を挟んできたのは、黒川慧だった。片手に持っていた本を閉じ、呆れたような顔で大地を見る。
「おかしくなってねえよ!」
「じゃあ、焼きそばパンと何の決着つけるつもりだったんだ?」
「……昨日買えなかった俺との決着?」
「ますます意味分かんねえよ」
薫は思わず吹き出した。
……腹が減ると、人ってここまで真剣になれるんだなぁ。
「大地、焼きそばパンにそんな大層なもの懸けてたの?」
「おう! 昨日も一昨日も売り切れてたからな。今日こそは絶対に買う!」
「それ、単純に行くのが遅いだけじゃない?」
「だから今日は早く行くんだろうが!」
なるほど。言っていること自体は間違っていない。
……いや、そもそも普通に買いに行けばいいだけの話なんだけど。
「で、薫。お前も来るだろ?」
「俺?」
「おう。どうせ昼飯まだ買ってねえんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「よし、決まりだ!」
「決まるの早いなぁ」
大地は満足そうに頷いた。
慧はそんな大地を横目に肩をすくめた。
「で? 三人で行って、三人とも買えたら勝ちなのか?」
「いや、誰が一番最初に買えるか勝負だ!」
「だったら三人で行く必要なくね?」
「うるせえ! 細かいこと気にすんな!」
「雑すぎるだろ」
そう言いながらも、慧の口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。
「よし、俺も行く」
薫がそう言うと、大地がにやりと笑った。
「おっ、いいねぇ! そうこなくちゃな!」
「お前まで乗るのかよ」
「だって、面白そうだし」
「まあ、それは否定しねえけど」
「ほら、慧も乗り気じゃん」
「勝手に決めんなって」
文句を言いながらも、慧はすでに本を鞄へしまい始めている。
薫はその様子を見て、思わず口元を緩めた。
こういうところなんだよな、慧って。
「よし! じゃあ行くぞ、お前ら!」
大地が勢いよく教室の扉へ向かう。
「おい大地、廊下走んなよ」
「分かってるって!」
そう答えながら、すでに早足になっている。
薫は慧と顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
「じゃ、行こうか」
「おう。まあ、せいぜい頑張ろうぜ」
二人も大地の後を追って教室を出た。
昼休みの廊下には、購買へ向かう生徒たちの姿がちらほら見える。
大地はその流れを眺めると、急に真剣な顔になった。
「……まずいな」
「何が?」
「ライバルが多い」
「全員が焼きそばパン狙いとは限らねえだろ」
「甘いな、慧。購買に向かう奴は全員敵だと思え」
「……お前、パン買いに行くんだよな?」
「当たり前だろ!」
慧が額を押さえた。
薫は笑いをこらえながら、大地の隣に並ぶ。
「まあまあ。とりあえず行ってみようよ。まだ残ってるかもしれないし」
「そうだな!」
大地は大きく頷いた。
その顔は、まるでこれから空手の大事な試合にでも臨むかのようだった。
……そこまで真剣にならなくてもいいと思うんだけどな。
購買に着いた頃には、すでに大勢の生徒が集まっていた。
思っていた以上の混雑だ。パンの並んだ棚の前には人だかりができており、あちこちから注文する声が飛び交っている。
「うおっ、やべえ! もうこんなに並んでんのかよ!」
「だから言ったろ。出遅れてんだって」
「まだ間に合う! たぶん!」
「最後の『たぶん』で台無しじゃねえか」
大地が背伸びをして、棚の方を覗き込む。
薫もその隣から様子を窺ったが、人が多くて肝心の焼きそばパンが見えない。
……これは、ちょっと厳しいかもしれない。
それでも、せっかくここまで来たのだ。三人は列の最後尾に並び、少しずつ前へ進んだ。
「おっ、あった! 焼きそばパン!」
大地が声を上げた。
どうやら棚に、まだ一つだけ残っているらしい。
「よっしゃ! 俺たちの勝ちだ!」
「いや、一個しかねえじゃん。しかも俺たちの前に何人いると思ってんだよ」
「諦めんなよ、慧!」
「いや、現実を見ろって」
ところが、あと二人というところで、前にいた男子生徒がその焼きそばパンを手に取った。
「あっ」
大地の口から、間の抜けた声が漏れる。
男子生徒は何も知らない様子で代金を払い、嬉しそうに購買を離れていった。
三人はその背中を見送った。
「…………」
「…………」
「…………」
……どうやら、購買へ向かう生徒は本当に全員敵だったらしい。
「……終わった」
大地が力なく呟いた。
「だから言ったろ」
「くそぉ……あとちょっとだったのに……!」
大地が悔しそうに頭を抱えた。
その姿は、本当に試合に負けた選手のようだった。
「ほら、後ろつかえてるから。何か買おうよ」
薫がそう言うと、大地は渋々顔を上げた。
何か代わりになるものはないかと棚を眺めていると、少し変わった商品が目に入った。
焼きそばおにぎり。
どうやら、おにぎりの中に焼きそばが入っているらしい。
しかも、ちょうど三つ残っていた。
「……これ、どう?」
薫が指差すと、大地と慧もその商品に目を向けた。
「焼きそば……おにぎり?」
「パンが米になっただけじゃねえか」
「まあ、焼きそばは入ってるし」
「……確かにな」
慧が妙に納得した顔で頷く。
大地はしばらくおにぎりを見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……よし。今日はこれで勘弁してやる!」
「誰に言ってんだよ」
結局、三人とも焼きそばおにぎりを一つずつ買うことになった。
もちろん、それだけでは昼食として少し物足りない。
薫はサラダチキンバーとサラダを追加し、大地は大盛りの唐揚げ弁当を手に取った。慧は少し悩んだ末、栄養補助ゼリーを一つ選んでいる。
……大地、ずいぶん食べるなぁ。
「大地」
「ん?」
「そんな大きいお弁当買うなら、最初から焼きそばパンいらなかったんじゃない?」
「は? 何言ってんだ薫」
大地は心底不思議そうな顔をした。
「弁当は昼飯だろ?」
「うん」
「焼きそばパンは勝負だ!」
「……そっか」
「もう放っとけ、薫。こいつの頭ん中じゃ別の問題なんだよ」
そう言いながら、慧は自分の買ったゼリーを袋にしまった。
「おい慧、お前こそそんなんで足りんのか?」
「おにぎりも買っただろうが」
「いや、少ねえだろ」
「お前の弁当を基準にすんなって」
「午後、腹減っても知らねえぞ?」
「そんときゃ考えるわ」
二人のやり取りを聞きながら、薫は小さく笑った。
あれだけ騒いだ焼きそばパンは、結局誰も買えなかった。
その代わり、三人の手には同じ焼きそばおにぎりがある。
……これはこれで悪くない。
「ほら、そろそろ戻ろうよ。食う時間なくなるよ」
「おう! 教室戻ったら早速食うぞ!」
「だから廊下走んなって」
先に歩き出した大地を、慧がいつもの調子で呼び止める。
薫は二人の後ろを歩きながら、袋の中のおにぎりをちらりと見た。
これ、どんな味がするんだろう。
教室に戻ると、三人は机を寄せて昼食を広げた。
薫はさっそく焼きそばおにぎりの包装を剥がし、一口かじってみる。
甘辛いソースの味が口の中に広がった。米と焼きそばという組み合わせは少し不思議だが、思っていたよりも悪くない。
「結構おいしい」
「おっ、マジか!」
大地もさっそくかぶりついた。
「うめえ! これ当たりだな!」
「ちょっと大地! 声でかすぎ!」
少し離れた席から、美琴の声が飛んできた。
「おう、悪い悪い!」
「もー、びっくりするじゃん!」
「そんだけうまかったんだよ!」
「知らないってば!」
美琴が呆れたように笑うと、隣にいた灯も小さく笑った。
「……お前、ほんと声量だけは一人前だよな」
「だけって何だ、だけって!」
「そういうとこだよ」
慧が笑いながら返す。
薫も思わず吹き出した。
まったく、騒がしい昼飯だ。
でも、こうして誰かとくだらない話をしながら食べる時間は、結構好きだった。
薫はもう一口、焼きそばおにぎりを頬張った。




