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火を継ぐ者の帰る道  作者: いわんちょちょ
序章 日本編
2/15

ありふれた日常(中)

 一時間目が終わり、薫と颯真は飲み物を買いに教室を出ていた。

 休み時間の廊下は、それなりに賑やかだ。友人同士で話している生徒もいれば、次の授業の準備をしている生徒もいる。

 薫は買ったばかりのペットボトルを片手に、颯真と並んで教室へ向かっていた。


「いやー、朝は本当に危なかったな」

「誰のせいだと思ってるのさ」

「俺だけどさ」


 あまりにあっさり認めるものだから、薫は思わず吹き出した。颯真もつられたように笑う。


 ……まあ、反省はしているらしい。


 それに、あれだけ走れば嫌でも目は覚めただろう。でも、明日も明後日もあんなぎりぎりの時間に登校するのは、さすがに勘弁してほしい。


「明日はちゃんと起きなよ」

「分かってるって。今日は目覚ましをもう一個かけとく」

「……今まで何個だったの?」

「二個」

「三個目で起きられるといいね」

「お前、絶対馬鹿にしてるだろ」

「そんなことないよ。応援してる。心の底から」

「こいつ……」


 颯真が苦笑した、そのときだった。


「あ、九条くん!」


 前から歩いてきた女子生徒が、こちらに向かって手を振った。


「おう、おはよう」

「ねえ、昨日はありがと! 教えてもらったところ、小テストに出たんだよ!」

「本当か? よかったじゃん」

「うん! また分かんないところあったら聞いてもいい?」

「もちろん。俺で分かることならな」

「やった! ありがとね!」


 女子生徒は嬉しそうに手を振り、友人と一緒に歩いていった。

 颯真も軽く手を振り返す。


 相変わらずだなぁ。


 薫は隣を歩く親友をちらりと見た。こうして誰かに声をかけられるのも、颯真にとっては珍しいことではない。


 ……こいつが今朝、食パンをくわえて走っていたところを見たら、さっきの子たちはどんな顔をしたんだろう。


「……あ、九条くん」


 今度は、別の女子生徒から声をかけられた。

 颯真が振り向くと、その女子生徒は一瞬だけ言葉に詰まり、少し照れたように笑った。


「お、おはよ」

「おう、おはよ!」


 颯真が笑顔で返すと、女子生徒は小さく手を振った。隣にいた友人に何かを囁かれ、頬を赤くしながら歩いていく。


 ……ああ、そういうことね。


 当の颯真は、何事もなかったように歩き始めた。


「颯真ってさ」

「ん?」

「よくそんなに声かけられるよね」

「そうか?」

「そうだよ。今だって二回も」

「別に普通だろ。知り合いに挨拶されただけだし」

「……そうだね」


 いや、今のは多分、それだけじゃないと思うんだけど。

 ……わざわざ言うことでもないか。


 そんなことを考えているうちに、二人は教室へ戻ってきた。


 教室の中は、廊下に負けず劣らず賑やかだった。机を寄せて話している者もいれば、次の授業まで机に突っ伏している者もいる。休み時間の過ごし方は人それぞれだ。


「ねえねえ、これ見てよ! 可愛くない?」


 窓際の方から、弾んだ声が聞こえてきた。

 橘美琴(たちばな みこと)だ。

 何人かの女子生徒と机を囲み、スマートフォンの画面を見せている。何を見てそんなに盛り上がっているのだろう。自分の席へ戻る途中、薫が近くを通りかかると、画面には丸っこいお化けのぬいぐるみが映っていた。


「えっ、何これ。お化け?」

「そう! この間見つけたんだけどさ、めっちゃ可愛くない?」

「えー、なんか変な顔してない?」

「そこがいいんじゃん!」


 美琴は楽しそうに笑いながら、画面を指で拡大してみせた。

 その隣では、茶色いボブヘアの小柄な女子生徒が、控えめに画面を覗き込んでいた。

 望月灯(もちづき あかり)だ。


「灯はどう思う?」


 美琴は自然にスマートフォンを灯の方へ傾けた。


「……えっと」


 灯は少し考えてから、画面の一部分を指差した。


「この、ちょっと困ってるみたいな顔……かわいい、と思う」

「あっ、そう! そこ! そこがいいんだよ!」

「……ふふ」


 美琴が嬉しそうに声を上げると、灯もつられて笑った。


 お化けのぬいぐるみ、か。

 美琴さん、楽しそうだな。灯さんも笑ってるし、よっぽど気に入ったんだろう。


 自分の席に戻ろうとしたとき、近くで小さな声がした。


「あっ、痛っ」

「どうしたんですか?」

「いや、プリントで指切っちゃって……」

「少し血が出ていますね。先に水で洗ってきてください。絆創膏ならありますから」

「えっ、ほんと? ありがとう、白石さん!」

「いえ、どういたしまして」


 白石紗良(しらいし さら)は鞄から小さなケースを取り出し、中身を確かめていた。


 ……準備いいなぁ。


 自分だったら、たぶん水で洗って終わりだろう。絆創膏、鞄に何枚か入れておこうかな。


「薫、何してんだ? 次、始まるぞ」

「あ、うん。今行く」


 颯真に呼ばれ、薫は自分の机へ向かった。

 ペットボトルを置き、椅子を引く。

 窓際からは、まだ美琴たちの楽しそうな声が聞こえていた。


 ◇


 四時間目の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。

 ようやく昼休みだ。

 薫は机の上の教科書とノートを片付け、軽く背筋を伸ばした。ずっと座っていたせいか、少し身体が固まっている。


 昼飯、どうしようか。


 そんなことを考えていると、目の前に大きな影が落ちた。


「薫!」

「……ん?」


 顔を上げると、朝倉大地(あさくら だいち)が机の前に立っていた。がっしりとした体格に、よく通る声。近くにいるだけで、なんとなく存在感のある男だ。

 そして、何やら妙に真剣な顔をしている。


「今日こそ決着をつけるぞ」

「……何の?」

「焼きそばパンだよ!」


 ……焼きそばパン?


 薫は一瞬考えた。

 いや、待ってほしい。焼きそばパンと決着をつけるって、どういうことだ。


「真面目に聞くなよ、薫。こいつ、腹減りすぎておかしくなってるから」


 横から口を挟んできたのは、黒川慧(くろかわ けい)だった。片手に持っていた本を閉じ、呆れたような顔で大地を見る。


「おかしくなってねえよ!」

「じゃあ、焼きそばパンと何の決着つけるつもりだったんだ?」

「……昨日買えなかった俺との決着?」

「ますます意味分かんねえよ」


 薫は思わず吹き出した。


 ……腹が減ると、人ってここまで真剣になれるんだなぁ。


「大地、焼きそばパンにそんな大層なもの懸けてたの?」

「おう! 昨日も一昨日も売り切れてたからな。今日こそは絶対に買う!」

「それ、単純に行くのが遅いだけじゃない?」

「だから今日は早く行くんだろうが!」


 なるほど。言っていること自体は間違っていない。

 ……いや、そもそも普通に買いに行けばいいだけの話なんだけど。


「で、薫。お前も来るだろ?」

「俺?」

「おう。どうせ昼飯まだ買ってねえんだろ?」

「まあ、そうだけど」

「よし、決まりだ!」

「決まるの早いなぁ」


 大地は満足そうに頷いた。

 慧はそんな大地を横目に肩をすくめた。


「で? 三人で行って、三人とも買えたら勝ちなのか?」

「いや、誰が一番最初に買えるか勝負だ!」

「だったら三人で行く必要なくね?」

「うるせえ! 細かいこと気にすんな!」

「雑すぎるだろ」


 そう言いながらも、慧の口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。


「よし、俺も行く」


 薫がそう言うと、大地がにやりと笑った。


「おっ、いいねぇ! そうこなくちゃな!」

「お前まで乗るのかよ」

「だって、面白そうだし」

「まあ、それは否定しねえけど」

「ほら、慧も乗り気じゃん」

「勝手に決めんなって」


 文句を言いながらも、慧はすでに本を鞄へしまい始めている。

 薫はその様子を見て、思わず口元を緩めた。


 こういうところなんだよな、慧って。


「よし! じゃあ行くぞ、お前ら!」


 大地が勢いよく教室の扉へ向かう。


「おい大地、廊下走んなよ」

「分かってるって!」


 そう答えながら、すでに早足になっている。

 薫は慧と顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。


「じゃ、行こうか」

「おう。まあ、せいぜい頑張ろうぜ」


 二人も大地の後を追って教室を出た。

 昼休みの廊下には、購買へ向かう生徒たちの姿がちらほら見える。

 大地はその流れを眺めると、急に真剣な顔になった。


「……まずいな」

「何が?」

「ライバルが多い」

「全員が焼きそばパン狙いとは限らねえだろ」

「甘いな、慧。購買に向かう奴は全員敵だと思え」

「……お前、パン買いに行くんだよな?」

「当たり前だろ!」


 慧が額を押さえた。

 薫は笑いをこらえながら、大地の隣に並ぶ。


「まあまあ。とりあえず行ってみようよ。まだ残ってるかもしれないし」

「そうだな!」


 大地は大きく頷いた。

 その顔は、まるでこれから空手の大事な試合にでも臨むかのようだった。


 ……そこまで真剣にならなくてもいいと思うんだけどな。


 購買に着いた頃には、すでに大勢の生徒が集まっていた。

 思っていた以上の混雑だ。パンの並んだ棚の前には人だかりができており、あちこちから注文する声が飛び交っている。


「うおっ、やべえ! もうこんなに並んでんのかよ!」

「だから言ったろ。出遅れてんだって」

「まだ間に合う! たぶん!」

「最後の『たぶん』で台無しじゃねえか」


 大地が背伸びをして、棚の方を覗き込む。

 薫もその隣から様子を窺ったが、人が多くて肝心の焼きそばパンが見えない。


 ……これは、ちょっと厳しいかもしれない。


 それでも、せっかくここまで来たのだ。三人は列の最後尾に並び、少しずつ前へ進んだ。


「おっ、あった! 焼きそばパン!」


 大地が声を上げた。

 どうやら棚に、まだ一つだけ残っているらしい。


「よっしゃ! 俺たちの勝ちだ!」

「いや、一個しかねえじゃん。しかも俺たちの前に何人いると思ってんだよ」

「諦めんなよ、慧!」

「いや、現実を見ろって」


 ところが、あと二人というところで、前にいた男子生徒がその焼きそばパンを手に取った。


「あっ」


 大地の口から、間の抜けた声が漏れる。

 男子生徒は何も知らない様子で代金を払い、嬉しそうに購買を離れていった。

 三人はその背中を見送った。


「…………」

「…………」

「…………」


 ……どうやら、購買へ向かう生徒は本当に全員敵だったらしい。


「……終わった」


 大地が力なく呟いた。


「だから言ったろ」

「くそぉ……あとちょっとだったのに……!」


 大地が悔しそうに頭を抱えた。

 その姿は、本当に試合に負けた選手のようだった。


「ほら、後ろつかえてるから。何か買おうよ」


 薫がそう言うと、大地は渋々顔を上げた。

 何か代わりになるものはないかと棚を眺めていると、少し変わった商品が目に入った。

 焼きそばおにぎり。

 どうやら、おにぎりの中に焼きそばが入っているらしい。

 しかも、ちょうど三つ残っていた。


「……これ、どう?」


 薫が指差すと、大地と慧もその商品に目を向けた。


「焼きそば……おにぎり?」

「パンが米になっただけじゃねえか」

「まあ、焼きそばは入ってるし」

「……確かにな」


 慧が妙に納得した顔で頷く。

 大地はしばらくおにぎりを見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。


「……よし。今日はこれで勘弁してやる!」

「誰に言ってんだよ」


 結局、三人とも焼きそばおにぎりを一つずつ買うことになった。

 もちろん、それだけでは昼食として少し物足りない。

 薫はサラダチキンバーとサラダを追加し、大地は大盛りの唐揚げ弁当を手に取った。慧は少し悩んだ末、栄養補助ゼリーを一つ選んでいる。


 ……大地、ずいぶん食べるなぁ。


「大地」

「ん?」

「そんな大きいお弁当買うなら、最初から焼きそばパンいらなかったんじゃない?」

「は? 何言ってんだ薫」


 大地は心底不思議そうな顔をした。


「弁当は昼飯だろ?」

「うん」

「焼きそばパンは勝負だ!」

「……そっか」

「もう放っとけ、薫。こいつの頭ん中じゃ別の問題なんだよ」


 そう言いながら、慧は自分の買ったゼリーを袋にしまった。


「おい慧、お前こそそんなんで足りんのか?」

「おにぎりも買っただろうが」

「いや、少ねえだろ」

「お前の弁当を基準にすんなって」

「午後、腹減っても知らねえぞ?」

「そんときゃ考えるわ」


 二人のやり取りを聞きながら、薫は小さく笑った。

 あれだけ騒いだ焼きそばパンは、結局誰も買えなかった。

 その代わり、三人の手には同じ焼きそばおにぎりがある。


 ……これはこれで悪くない。


「ほら、そろそろ戻ろうよ。食う時間なくなるよ」

「おう! 教室戻ったら早速食うぞ!」

「だから廊下走んなって」


 先に歩き出した大地を、慧がいつもの調子で呼び止める。

 薫は二人の後ろを歩きながら、袋の中のおにぎりをちらりと見た。


 これ、どんな味がするんだろう。


 教室に戻ると、三人は机を寄せて昼食を広げた。

 薫はさっそく焼きそばおにぎりの包装を剥がし、一口かじってみる。

 甘辛いソースの味が口の中に広がった。米と焼きそばという組み合わせは少し不思議だが、思っていたよりも悪くない。


「結構おいしい」

「おっ、マジか!」


 大地もさっそくかぶりついた。


「うめえ! これ当たりだな!」

「ちょっと大地! 声でかすぎ!」


 少し離れた席から、美琴の声が飛んできた。


「おう、悪い悪い!」

「もー、びっくりするじゃん!」

「そんだけうまかったんだよ!」

「知らないってば!」


 美琴が呆れたように笑うと、隣にいた灯も小さく笑った。


「……お前、ほんと声量だけは一人前だよな」

「だけって何だ、だけって!」

「そういうとこだよ」


 慧が笑いながら返す。

 薫も思わず吹き出した。

 まったく、騒がしい昼飯だ。

 でも、こうして誰かとくだらない話をしながら食べる時間は、結構好きだった。

 薫はもう一口、焼きそばおにぎりを頬張った。


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