ありふれた日常(上)
フライパンの上で、目玉焼きがパチパチと音を立てていた。
少し火が強かったかもしれない。白身の端が茶色くなり始めているのを見て、榊薫はコンロの火を弱めた。
「……まあ、このくらいなら」
半熟よりも、少し固まっている方が好きだ。そういうことにしておこう。
皿に卵を移してから、炊飯器の蓋を開ける。湯気と一緒に、炊きたてのご飯の匂いが立ち上った。昨夜のうちに作っておいた味噌汁を温め直し、冷蔵庫から漬物を取り出す。
ご飯、味噌汁、目玉焼きに漬物。
うん。なかなか良い朝飯じゃないかな。
「いただきます」
椅子に座り、手を合わせてから箸を取る。
テレビでは朝のニュースが流れていた。薫は目玉焼きを一口食べながら、何となく画面に目を向ける。
どうやら、夕方から雨が降るらしい。
窓の外は晴れている。雲もそれほど多くないように見えるのだが、天気予報がそう言うのなら仕方ない。
部活が終わるまでは持ってほしいところだ。剣道の防具を抱えて雨の中を歩くのは、できれば遠慮したい。
折り畳み傘、どこやったっけな。
食器を洗い、布巾で手を拭く。時計を確認すると、まだ少し余裕がある。薫は食卓の椅子を戻してから、部屋の隅にある仏壇へ向かった。
三つの位牌が並んでいる。
薫は座布団の上に腰を下ろし、そっと手を合わせた。目を閉じると、テレビから聞こえてくるニュースの声だけが、静かな部屋に流れていた。
しばらくして、薫は目を開けた。
「……行ってきます」
返事はない。
けれど、それは別に珍しいことではなかった。毎朝こうして手を合わせて、それから学校へ向かう。もうずいぶん長く続けている習慣だ。
立ち上がった薫は、制服のポケットにスマートフォンが入っていることを確かめ、鞄を肩に掛けた。
玄関で靴を履きながら、ふと思い出す。
「あ、傘」
危ない。忘れるところだった。
鞄に折り畳み傘を押し込み、今度こそ玄関の扉を開ける。
少し冷たい朝の空気が頬を撫でた。
家を出てしばらく歩くと、いつもの交差点が見えてきた。
信号は赤だった。薫が歩道の手前で足を止めたところで、向こう側に見覚えのある姿を見つける。
長い黒髪を後ろで一つに結んだ女子生徒が、こちらに気づいて軽く手を上げた。
「薫、おはよ」
「おはよう、綾芽」
信号が青に変わるのを待ってから、薫は横断歩道を渡った。
姫崎綾芽は、昔からの幼馴染だ。特に待ち合わせをしているわけではないのだが、家を出る時間が似ているせいか、こうして通学路で顔を合わせることが多い。
「今日はちょっと早いね」
薫がそう言うと、綾芽は不思議そうに首を傾げた。
「そうかな。いつもと同じくらいだと思うけど」
「昨日より早いと思うよ、若干」
「……薫って、そういうの結構覚えてるよね」
「たまたまだよ」
綾芽は小さく笑って、薫の隣に並んだ。
歩き始めると、彼女のポニーテールが肩の後ろで揺れる。綾芽の方が薫より少しだけ背が高い。もっとも、昔から一緒にいる相手なので、今さら気にするようなことでもなかった。
「そういえば、今日の夕方は雨らしいよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。朝のニュースで言ってた」
「そっか……。部活が終わるまでは降らないでほしいね」
「だよね。防具が濡れるとめんどくさいし」
雨に濡れた防具を乾かすのは、なかなか大変だ。きちんと手入れをしないと、あとで嫌なことになる。
そういえば、前に一度だけ防具袋を十分に乾かさずにしまったことがあった。
あれは、ひどかった。主に臭いが。
「薫?」
「ん?」
「どうしたの、急に変な顔して」
「ああ、いや。ちょっと思い出しただけ。……濡れた防具袋のこと」
「あー……」
綾芽は一瞬考えてから、何かを察したように笑った。
「ちゃんと乾かさなかったんだ?」
「はい。とっても反省してます」
「ふふっ、気をつけなよ」
「いや、本当にね」
そのまま二人で歩いていると、ふと気になることがあった。
「そういえば、颯真は?」
「まだ見てないよ」
「そっか。今日は遅いね」
「また寝坊してるんじゃない?」
「ありそうだなぁ……」
九条颯真。薫と綾芽にとって、もう一人の幼馴染だ。
勉強も運動もできるし、誰とでも自然に話せる。剣道だって強い。おまけに、身だしなみにも気を遣っている。
そんな颯真にも、苦手なものがある。
朝だ。
颯真の奴、どうしてあんなに朝が弱いんだろ。
「でも、颯真のことだから、ちゃんと間に合うんじゃない?」
「そうだね。なんだかんだ遅刻はしないし」
綾芽がそう言った、ちょうどそのときだった。
「――おーい! 二人とも!」
後ろから声が聞こえた。薫が振り返ると、制服姿の男子生徒がこちらに向かって走ってきていた。見慣れた茶色い髪に、整った顔立ち。九条颯真だ。
ずいぶん急いでいるようで、鞄を片手に抱えながら、なかなかの勢いで走っている。
それなのに、制服はきちんと着ているし、髪にも目立った乱れがない。
寝坊したとしても、そこだけは譲れないらしい。
いや、それはいいんだけどさ。
薫は思わず目を細めた。
……ん?
あいつ、何かくわえてない?
よく見ると、颯真の口から四角いものが飛び出していた。
食パンだった。
しかも、あれ、焼いてあるな。
「…………」
「……薫?」
「いや、ちょっと待って」
颯真が二人の前で足を止めた。口にくわえていた食パンを手に取ると、膝に手をついて息を整える。
「ふう……。よし、やっと追いついた」
「おはよう、颯真」
「おう、おはよ!」
颯真は軽く手を上げて答えた。
実に爽やかな笑顔だった。
……食パンさえ持っていなければ。
「……颯真」
「ん? どうした、薫」
「いや……それ、食パンだよね」
「見りゃ分かるだろ」
薫は少し考えた。
何と言えばいいんだろう。
「……本当に食パンくわえて走る人っているんだね」
「何だよ、それ!」
颯真が笑いながら言い返す。
綾芽も彼の手元に目を向けて、呆れたように笑った。
「また寝坊したの?」
「……まあ、ちょっとな」
「ちょっと?」
「目覚ましを止めたところまでは覚えてるんだけどなぁ」
「それは……ダメなパターンだね」
薫がそう言うと、颯真は苦笑いした。
「気づいたら家を出る時間だったんだよ。だから朝飯を食う暇がなくて」
「それで食パン?」
「そういうこと」
「でもさ、颯真」
「ん?」
「髪はちゃんとセットしてきたんだね」
薫が言うと、颯真は少しだけ得意げな顔になった。
「当たり前だろ。寝坊したからって適当にしていいわけじゃないし」
「……朝ご飯は適当になってるけど」
綾芽の一言に、薫は思わず吹き出した。
「はは、確かに」
「いや、そこはほら、優先順位ってものがあるだろ」
「食パン食いながら走るのが、その優先順位の結果なんだ?」
「薫、お前さっきから食パンにこだわりすぎだろ」
「だって、初めて見たし……」
笑いながら答えると、颯真もつられて笑った。
綾芽はそんな二人を見て、やれやれと首を振る。
「もう。ほら、歩きながら食べるなら気をつけなよ?」
「分かってるって」
「あと、時間は大丈夫なの?」
その言葉に、颯真が腕時計へ目を落とした。
「……あ」
「え?」
「やばい。思ったより時間ないぞ」
薫もスマートフォンで時刻を確認する。
まずいな。確かに、のんびり話している場合ではなさそうだ。
「じゃあ、ちょっと急ごうか」
「おう!」
「颯真、パンちゃんと食べ終わってから走ってよね」
「分かってる! 分かってるから!」
颯真は残っていた食パンを急いで食べ終えると、鞄を持ち直した。
薫と綾芽も少しだけ歩く速度を上げる。
さっきまで二人だった通学路が、いつの間にかずいぶん賑やかになっていた。
これも、いつもと変わらないことだ。
薫は隣を歩く二人に目を向け、自然と笑みをこぼした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
初めての小説投稿で少し緊張していますが、これから少しずつ物語をお届けできたらと思っています。
まだまだ至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします!




