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火を継ぐ者の帰る道  作者: いわんちょちょ
序章 日本編
1/17

ありふれた日常(上)

 フライパンの上で、目玉焼きがパチパチと音を立てていた。

 少し火が強かったかもしれない。白身の端が茶色くなり始めているのを見て、榊薫(さかき かおる)はコンロの火を弱めた。


「……まあ、このくらいなら」


 半熟よりも、少し固まっている方が好きだ。そういうことにしておこう。

 皿に卵を移してから、炊飯器の蓋を開ける。湯気と一緒に、炊きたてのご飯の匂いが立ち上った。昨夜のうちに作っておいた味噌汁を温め直し、冷蔵庫から漬物を取り出す。


 ご飯、味噌汁、目玉焼きに漬物。

 うん。なかなか良い朝飯じゃないかな。


「いただきます」


 椅子に座り、手を合わせてから箸を取る。

 テレビでは朝のニュースが流れていた。薫は目玉焼きを一口食べながら、何となく画面に目を向ける。

 どうやら、夕方から雨が降るらしい。

 窓の外は晴れている。雲もそれほど多くないように見えるのだが、天気予報がそう言うのなら仕方ない。

 部活が終わるまでは持ってほしいところだ。剣道の防具を抱えて雨の中を歩くのは、できれば遠慮したい。


 折り畳み傘、どこやったっけな。


 食器を洗い、布巾で手を拭く。時計を確認すると、まだ少し余裕がある。薫は食卓の椅子を戻してから、部屋の隅にある仏壇へ向かった。


 三つの位牌が並んでいる。


 薫は座布団の上に腰を下ろし、そっと手を合わせた。目を閉じると、テレビから聞こえてくるニュースの声だけが、静かな部屋に流れていた。


 しばらくして、薫は目を開けた。


「……行ってきます」


 返事はない。


 けれど、それは別に珍しいことではなかった。毎朝こうして手を合わせて、それから学校へ向かう。もうずいぶん長く続けている習慣だ。


 立ち上がった薫は、制服のポケットにスマートフォンが入っていることを確かめ、鞄を肩に掛けた。

 玄関で靴を履きながら、ふと思い出す。


「あ、傘」


 危ない。忘れるところだった。

 鞄に折り畳み傘を押し込み、今度こそ玄関の扉を開ける。

 少し冷たい朝の空気が頬を撫でた。


 


 家を出てしばらく歩くと、いつもの交差点が見えてきた。

 信号は赤だった。薫が歩道の手前で足を止めたところで、向こう側に見覚えのある姿を見つける。

 長い黒髪を後ろで一つに結んだ女子生徒が、こちらに気づいて軽く手を上げた。


「薫、おはよ」

「おはよう、綾芽」


 信号が青に変わるのを待ってから、薫は横断歩道を渡った。


 姫崎綾芽(ひめざき あやめ)は、昔からの幼馴染だ。特に待ち合わせをしているわけではないのだが、家を出る時間が似ているせいか、こうして通学路で顔を合わせることが多い。


「今日はちょっと早いね」


 薫がそう言うと、綾芽は不思議そうに首を傾げた。


「そうかな。いつもと同じくらいだと思うけど」

「昨日より早いと思うよ、若干」

「……薫って、そういうの結構覚えてるよね」

「たまたまだよ」


 綾芽は小さく笑って、薫の隣に並んだ。

 歩き始めると、彼女のポニーテールが肩の後ろで揺れる。綾芽の方が薫より少しだけ背が高い。もっとも、昔から一緒にいる相手なので、今さら気にするようなことでもなかった。


「そういえば、今日の夕方は雨らしいよ」

「えっ、そうなの?」

「うん。朝のニュースで言ってた」

「そっか……。部活が終わるまでは降らないでほしいね」

「だよね。防具が濡れるとめんどくさいし」


 雨に濡れた防具を乾かすのは、なかなか大変だ。きちんと手入れをしないと、あとで嫌なことになる。

 そういえば、前に一度だけ防具袋を十分に乾かさずにしまったことがあった。


 あれは、ひどかった。主に臭いが。


「薫?」

「ん?」

「どうしたの、急に変な顔して」

「ああ、いや。ちょっと思い出しただけ。……濡れた防具袋のこと」

「あー……」


 綾芽は一瞬考えてから、何かを察したように笑った。


「ちゃんと乾かさなかったんだ?」

「はい。とっても反省してます」

「ふふっ、気をつけなよ」

「いや、本当にね」


 そのまま二人で歩いていると、ふと気になることがあった。


「そういえば、颯真は?」

「まだ見てないよ」

「そっか。今日は遅いね」

「また寝坊してるんじゃない?」

「ありそうだなぁ……」


 九条颯真(くじょう そうま)。薫と綾芽にとって、もう一人の幼馴染だ。


 勉強も運動もできるし、誰とでも自然に話せる。剣道だって強い。おまけに、身だしなみにも気を遣っている。


 そんな颯真にも、苦手なものがある。


 朝だ。


 颯真の奴、どうしてあんなに朝が弱いんだろ。


「でも、颯真のことだから、ちゃんと間に合うんじゃない?」

「そうだね。なんだかんだ遅刻はしないし」


 綾芽がそう言った、ちょうどそのときだった。


「――おーい! 二人とも!」


 後ろから声が聞こえた。薫が振り返ると、制服姿の男子生徒がこちらに向かって走ってきていた。見慣れた茶色い髪に、整った顔立ち。九条颯真だ。

 ずいぶん急いでいるようで、鞄を片手に抱えながら、なかなかの勢いで走っている。

 それなのに、制服はきちんと着ているし、髪にも目立った乱れがない。

 寝坊したとしても、そこだけは譲れないらしい。


 いや、それはいいんだけどさ。


 薫は思わず目を細めた。


 ……ん?

 あいつ、何かくわえてない?


 よく見ると、颯真の口から四角いものが飛び出していた。

 食パンだった。


 しかも、あれ、焼いてあるな。


「…………」

「……薫?」

「いや、ちょっと待って」


 颯真が二人の前で足を止めた。口にくわえていた食パンを手に取ると、膝に手をついて息を整える。


「ふう……。よし、やっと追いついた」

「おはよう、颯真」

「おう、おはよ!」


 颯真は軽く手を上げて答えた。

 実に爽やかな笑顔だった。

 ……食パンさえ持っていなければ。


「……颯真」

「ん? どうした、薫」

「いや……それ、食パンだよね」

「見りゃ分かるだろ」


 薫は少し考えた。

 何と言えばいいんだろう。


「……本当に食パンくわえて走る人っているんだね」

「何だよ、それ!」


 颯真が笑いながら言い返す。

 綾芽も彼の手元に目を向けて、呆れたように笑った。


「また寝坊したの?」

「……まあ、ちょっとな」

「ちょっと?」

「目覚ましを止めたところまでは覚えてるんだけどなぁ」

「それは……ダメなパターンだね」


 薫がそう言うと、颯真は苦笑いした。


「気づいたら家を出る時間だったんだよ。だから朝飯を食う暇がなくて」


「それで食パン?」

「そういうこと」

「でもさ、颯真」

「ん?」

「髪はちゃんとセットしてきたんだね」


 薫が言うと、颯真は少しだけ得意げな顔になった。


「当たり前だろ。寝坊したからって適当にしていいわけじゃないし」

「……朝ご飯は適当になってるけど」


 綾芽の一言に、薫は思わず吹き出した。


「はは、確かに」

「いや、そこはほら、優先順位ってものがあるだろ」

「食パン食いながら走るのが、その優先順位の結果なんだ?」

「薫、お前さっきから食パンにこだわりすぎだろ」

「だって、初めて見たし……」


 笑いながら答えると、颯真もつられて笑った。

 綾芽はそんな二人を見て、やれやれと首を振る。


「もう。ほら、歩きながら食べるなら気をつけなよ?」

「分かってるって」

「あと、時間は大丈夫なの?」


 その言葉に、颯真が腕時計へ目を落とした。


「……あ」

「え?」

「やばい。思ったより時間ないぞ」


 薫もスマートフォンで時刻を確認する。


 まずいな。確かに、のんびり話している場合ではなさそうだ。


「じゃあ、ちょっと急ごうか」

「おう!」

「颯真、パンちゃんと食べ終わってから走ってよね」

「分かってる! 分かってるから!」


 颯真は残っていた食パンを急いで食べ終えると、鞄を持ち直した。

 薫と綾芽も少しだけ歩く速度を上げる。

 さっきまで二人だった通学路が、いつの間にかずいぶん賑やかになっていた。

 これも、いつもと変わらないことだ。

 薫は隣を歩く二人に目を向け、自然と笑みをこぼした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

初めての小説投稿で少し緊張していますが、これから少しずつ物語をお届けできたらと思っています。

まだまだ至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします!

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