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火を継ぐ者の帰る道  作者: いわんちょちょ
第1章 ラズリオン編
14/17

この世ならざる、異形

 森の奥で、また木が倒れた。


 今度は音だけではなかった。街道の先に広がる木々が大きく揺れ、そのうちの一本が隣の木を巻き込みながら傾いていく。枝が折れ、葉が散り、やがて幹が地面へ叩きつけられた。


「……何だ、あれ」


 颯真が剣を握り直した。


 薫も森から目を離さなかった。木々の間を何かが動いているのは分かる。だが、枝葉に遮られ、その姿までは見えない。

 ただ、妙に大きかった。

 重い足音が響くたび、木々の隙間から土煙が上がる。何かがこちらへ向かっている。それも、先ほどまで相手にしていた魔物とは明らかに違うものが。


「住民を橋へ! 戦闘可能な者は後方を固めろ!」


 隊長の指示を受け、騎士たちが素早く動き始めた。


 それまで避難誘導を担当していた者も盾や槍を構え、街道の幅を使って防衛線を作る。後方に残っていた住民たちは騎士に促され、急いで橋へ向かい始めた。


「カオル、ソウマ! そなたらも下がれ!」


 セドリックの声が飛ぶ。


「まずは我々で対処できるか確かめる!」

「分かりました!」


 薫は返事をし、颯真とともに数歩後退した。


 その直後、森の木々が左右へ押し分けられた。

 最初に見えたのは、異様に太い腕だった。

 樹皮を削りながら突き出された腕は、先ほどまで相手にしていた獣型の魔物とは比べものにならないほど大きい。地面へ届きそうなほど長く、肩から先にかけて不自然に肥大していた。


 続いて、巨体が木々の間から姿を現した。

 高さは、およそ三メートル。

 二本の脚で立っている。胴体は獣に似ていたが、左右の釣り合いがあまりにも悪かった。片方の腕だけが胴よりも大きく膨れ上がり、その重さを支えるように身体全体が傾いている。


 頭部も奇妙だった。

 首から上だけ、ほかの部位と無理に繋ぎ合わせたように質感が違っていた。皮膚とも毛皮ともつかないものが複雑に重なり、口にあたる部分は裂け目のように大きく開いている。


 それが、ゆっくりとこちらを向いた。


 薫は息を呑んだ。

 魔物なら、これまでにも見てきた。人間より大きいものも、恐ろしい牙や爪を持つものもいた。

 だが、目の前の生き物は、そうした魔物とはどこか根本的に違っているように感じられた。

 どうしてあんな姿になっているのか、分からない。

 ただ、生き物の身体として、ひどく不自然だった。


「……何なんだよ、こいつ」


 隣の颯真が呟く。

 その声に答える者はいなかった。


 巨体が一歩、前へ出る。

 肥大した腕が地面を擦り、石を砕いた。

 そして、再び口が開いた。


「ギィィィィアアアアアアッ!!」


 甲高い絶叫が響き渡った。

 近くにいた騎士が思わず顔をしかめ、後方の住民たちから悲鳴が上がる。薫も反射的に肩を強張らせた。


 耳に突き刺さるような声だった。

 獣が相手を威嚇するときの唸り声とは違う。もっと切迫した、何かを必死に訴えようとしているような響きが混じっている。

 だが、その意味を考える余裕はなかった。


「総員、構え!」


 隊長が剣を抜いた。


「まずは足を止める! 槍兵、前へ!」


 騎士たちが一斉に盾を構える。

 前列の者が足を開き、盾の下端を地面へ押しつけた。その後ろから槍が伸び、鋭い穂先が巨体へ向けられる。

 訓練で何度も繰り返した陣形だった。

 これまでも騎士たちは、こうして魔物の突進を食い止めてきた。


「来るぞ!」


 異形の獣が前へ踏み出した。

 次の瞬間、肥大した腕が持ち上がる。


「盾を固めろ!」


 騎士たちが身を寄せた。

 しかし、腕が振り下ろされたとき、その盾はほとんど意味をなさなかった。

 凄まじい衝突音が響いた。

 前列の盾が大きくへこみ、構えていた騎士の身体が宙へ浮いた。隣の騎士もまとめて押し飛ばされ、石敷きの街道を転がっていく。


「ぐああっ!」


 後方にいた騎士まで巻き込まれ、数人が地面へ倒れた。


 薫は目を見開いた。


 ……嘘だろ。


 盾ごと、吹き飛ばした。

 しかも、あの腕を振っただけで。


「立て! 陣形を立て直せ!」


 隊長が叫ぶ。

 残った騎士たちが慌てて前へ出た。

 槍が突き出され、数本の穂先が異形の獣の胴体や腕へ食い込む。

 確かに傷はついた。黒ずんだ体表が裂け、血が流れる。


 しかし、獣は止まらなかった。

 肥大した腕が横へ振られる。

 槍の柄がまとめて折れ、騎士の一人が胸元を打たれて後ろへ吹き飛んだ。地面へ転がった騎士が立ち上がろうとしたところへ、巨体が踏み込む。


「危ない!」


 誰かが叫んだ。

 騎士は顔を上げた。

 だが、間に合わなかった。

 振り下ろされた腕が、地面へ叩きつけられる。

 鈍い音が響き、砕けた石が跳ねた。

 その下にいた騎士は、動かなかった。


「…………え?」


 少し後方で避難誘導を手伝っていた男子生徒が声を漏らした。


 薫にも、その騎士の姿には見覚えがあった。

 出発前、荷車の積み荷を確認していた騎士だ。緊張していたクラスメイトへ、危険なときは自分たちを頼ればいいと声を掛けていた。

 ほんの数時間前のことだった。


「……おい」


 男子生徒が、一歩前へ出る。


「あの人……」


 言葉が続かなかった。

 騎士は起き上がらない。

 ほかの騎士が名前を呼んでも、返事はなかった。

 異形の獣が腕を持ち上げる。

 今度は倒れた仲間を助けようと駆け寄った騎士へ、その巨大な手が伸びた。


「下がれ!」


 隊長が叫ぶ。

 しかし、獣の動きは想像以上に速かった。

 肥大した手が騎士の胴を掴み、その身体を地面から持ち上げる。


「がっ……!」


 鎧が軋んだ。

 騎士は剣を振り上げ、掴んでいる腕へ刃を叩きつけた。剣が傷をつけても、獣の指は緩まない。


「槍を! 早く!」


 周囲の騎士たちが駆け寄る。

 その目の前で、獣の腕に力がこもった。

 金属がひしゃげるような音がした。

 騎士の剣が手から落ちる。

 続いて、力を失った身体が地面へ投げ捨てられた。


「……っ!」


 薫は思わず踏み出しかけた。

 けれど、颯真がその肩を掴む。


「待て、薫!」

「でも……!」

「今飛び込んだら、お前までやられる!」


 颯真の声も、わずかに震えていた。

 騎士たちは決して弱くない。

 薫たちが訓練を受けてきた相手でもあり、今日の避難任務でも何度となく助けられてきた人々だった。

 その騎士たちが、ほとんど何もできないまま倒されている。

 異形の獣は、また一歩前へ出た。

 その足元には、動かなくなった騎士たちがいた。


「……退け!」


 隊長が叫んだ。


「全員、後退しろ! ここでは食い止められん!」


 残った騎士たちが、倒れている仲間へ駆け寄ろうとする。

 しかし、異形の獣が腕を振り上げたことで、近づけなくなった。


「隊長! まだあそこに!」

「分かっている! だが、これ以上近づくな!」


 隊長は歯を食いしばり、剣を構えたまま一歩下がった。


 薫は動かない騎士たちを見た。

 そこへ戻れば、自分も同じようになるかもしれない。

 そう分かっていても、目を離すことができなかった。


 ……さっきまで、普通に話してたのに。


 その事実が、どうしても頭から離れなかった。


     ◇


 薫たちが異形の獣から距離を取ろうとした、そのときだった。

 橋の向こう岸から、別の叫び声が響いた。


「魔物だ! 前方にも魔物の群れ!」


 先に橋を渡っていた騎士が、剣を抜いていた。

 向こう岸の街道、その先に続く森の中から、次々と魔物が姿を現している。

 一体や二体ではない。

 獣型の魔物が茂みを突き破り、その後ろから別の種類の魔物まで飛び出してきた。互いにぶつかりながらも、ほとんど速度を落とさず橋へ向かって突進している。


「何だよ、あの数……!」


 大地が、思わず声を上げた。

 すぐそばでは、慧が険しい顔で森を見つめている。


「……さっきの奴が現れてから、一気に増えたな」


 異形の獣の咆哮に呼応するように、魔物たちは興奮していた。

 互いの進路を奪い合い、倒れた仲間を踏み越えてでも前へ進もうとしている。


 その先には、避難民たちがいた。

 すでに橋を渡り終えた住民も大勢いる。

 荷車の周囲には老人や子どもが集まり、負傷した騎士たちも休んでいた。今から全員を連れて走り出したところで、魔物の群れから逃げ切れるとは思えない。


「前衛、構えろ!」


 向こう岸の騎士が叫んだ。


「住民を下がらせろ! 魔物を橋へ近づけるな!」

「おう!」


 大地が前へ出た。


 騎士たちの隣に並び、拳を握り直す。


「綾芽! こっちはオレたちでやるぞ!」

「うん!」


 綾芽も刀を抜き、騎士たちの側面へ回った。


 少し後方では、美琴が杖を掲げている。


「みんな、支援するから!」


 その隣で、灯が《宵鈴》を鳴らした。

 盾兵霊と槍兵霊が姿を現し、負傷者や住民の前へ配置される。


「……お願いします。ここを守ってください」


 灯の声に応えるように、霊兵たちがそれぞれの武器を構えた。

 紗良も負傷者への応急処置を終え、立ち上がる。


「動ける方は、こちらへ! 負傷している方は無理に走らないでください!」


 ほかの来界者たちも、騎士と協力して住民を後方へ移動させ始めた。

 だが、人数が多い。

 そして、魔物たちは速かった。


「来るぞ!」


 最初の一体が飛びかかる。

 騎士の盾へぶつかり、続けて大地の拳がその側面へ叩き込まれた。


「おらあっ!」


 魔物が地面へ転がる。

 しかし、その後ろからさらに数体が飛び出してきた。


「くそっ、次から次へと!」


 大地は腕を引き戻し、別の敵へ向き直った。

 騎士たちも槍を突き出し、群れを押し返そうとする。

 その光景を、橋の手前にいる薫たちも見ていた。


「……まずい」


 薫が呟く。


 後ろには異形の獣。

 前には、大量の魔物。

 そして、その間には橋を渡りきっていない住民たちがいる。

 どちらか一方に戦力を集中させれば、もう一方が突破される。かといって、両方を相手にできるほどの余裕はなかった。


「隊長!」


 颯真が振り返る。


「このままだと、橋を渡れません!」

「分かっている!」


 隊長は唇を噛んだ。


 後方では異形の獣が再び歩き始めている。騎士たちが退いたことで、その巨体を遮るものはほとんどなくなっていた。

 向こう岸からは、絶えず戦闘の音が響いてくる。

 退くにも、進むにも、敵がいる。


 薫は橋と異形の獣を交互に見た。


 ……どうする。


 考えている間にも、時間は過ぎていく。

 そのとき、セドリックが口を開いた。


「……転移術を使う」


 隊長が振り返った。


「セドリック殿?」

「この人数を通常の経路で逃がすのは、もはや不可能だ。緊急の転移術を展開する」

「できますか!?」

「できる。転移先には、すでに座標を把握している場所を使う。ただし、すぐには開けん」


 セドリックは橋の向こう岸へ目を向けた。


「これだけの人数を通すとなれば、相応の規模が必要になる。術式を組み、接続を安定させるまで、およそ三分は掛かるだろう」

「三分……」


 隊長が険しい顔をした。


「周囲の魔力も乱れておる。無理に急げば、術式が不安定になるおそれもある」


 セドリックはそう言ってから、改めて隊長を見た。


「それに、転移門が完成しただけで避難が終わるわけではない。門を開いたあとも、全員が通り抜けるまで時間が必要だ」


 隊長は唇を引き結び、橋の向こう岸へ目を向けた。

 魔物の群れとの戦闘は、まだ続いている。こちらでは異形の獣が迫っており、避難民たちも橋を渡りきっていなかった。


「……分かりました。こちらで時間を稼ぎます」

「頼む。私は向こう岸で術を展開する」


 セドリックは護衛の騎士を伴い、橋へ向かった。

 まだ橋の上にいた住民たちが、騎士に促されて脇へ寄る。セドリックたちはその間を抜け、急いで向こう岸へ進んでいった。


     ◇


「必要なものだけ持ってください! 大きな荷物は置いていってください!」


 橋の向こう岸では、騎士たちが住民へ呼び掛けていた。

 魔物の群れはすぐ近くまで迫っている。前衛が防いでいる間に、住民を転移門の展開予定地へ集めなければならなかった。

 しかし、全員がすぐに従えるわけではなかった。


「待ってくれ! この荷車も持っていかせてくれ!」


 荷車を引いていた男が、騎士の腕を掴んだ。


「中には食料も道具もあるんだ! これがなけりゃ、この先どうやって暮らせばいい!」

「申し訳ありません! 荷車ごと通せるとは限りません! 今は身の安全を優先してください!」

「そんなこと言われたって、全部置いていけるかよ!」


 男の声には、怒りだけでなく切実な不安が混じっていた。

 荷車には袋や木箱が積まれている。食料や道具だけでなく、布に包まれた家財らしきものも見えた。

 これまでの生活を支えてきた品々なのだろう。それを今すぐ捨てろと言われても、簡単には納得できないはずだった。

 別の場所では、年配の女性が小さな包みを抱えたまま動こうとしなかった。


「これだけは……これだけは持っていきたいんです」

「それなら大丈夫です。抱えられるものは、そのままで」


 避難誘導を手伝っていた女子生徒が、落ち着いた声で答えた。


「ただ、急いでください。もうすぐ魔物が来ます」


 女性は何度も頷き、包みを胸へ抱いたまま歩き始めた。


 一方、荷車の男はまだ騎士と言い合っていた。


「荷車を置いていったら、何も残らないんだぞ!」

「命まで失ったら、取り戻すこともできません!」

「そんなことは分かってる!」


 男の声が震えた。

 近くでは子どもが泣いている。その母親も、何度も後ろを振り返っていた。

 誰もが、自分の大切なものを守ろうとしていた。

 けれど、そのすべてを持って逃げられるだけの時間も場所も、今は残されていなかった。


「……っ、もう!」


 避難誘導を手伝っていた男子生徒が、苛立ったように息を吐いた。


「早くしてくれないと、みんな危ないのに……!」

「落ち着いて」


 隣の女子生徒が声を掛けた。


「気持ちは分かるけど、怒鳴っても仕方ないよ」

「……分かってる。分かってるけどさ」


 男子生徒は歯を食いしばった。

 向こうでは、騎士たちがまだ戦っている。

 その背中が見えているからこそ、焦りを抑えるのも難しかった。


 やがてセドリックが橋を渡り、開けた場所へ進み出た。


「全員、私の周囲から離れよ! 転移術を展開する!」


 住民たちが騎士に誘導され、場所を空けていく。

 セドリックが地面へ手を向けると、複雑な魔法陣が足元に広がり始めた。

 幾重もの線が重なり、円の内側に新たな術式が刻まれていく。

 セドリックは片膝をつき、魔力の流れを確かめた。


「……頼むぞ」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。

 魔法陣の上に、淡い光が集まり始める。

 だが、まだ門の形にはならない。

 転移先との接続を確立し、これだけの人数が通れる状態へ安定させるには、どうしても時間が必要だった。


「セドリック殿! あとどれほどですか!」

「まだかかる! 術式を乱さぬよう、周囲を守ってくれ!」

「了解!」


 騎士が返事をし、前衛へ駆け戻っていった。


 少し離れた場所では、大地が魔物の攻撃を受け流していた。


「ぐっ……!」


 勢いを殺しきれず、靴底が地面を滑る。

 そこへ別の魔物が迫った。


「大地、下がって!」

「おう!」


 綾芽がその横へ踏み込み、刀を振るう。

 刃が魔物の脚を斬り、体勢を崩したところへ騎士の槍が突き込まれた。


「助かった!」

「ううん、まだ来る!」


 綾芽は短く答え、すぐに次の敵へ向き直った。

 美琴の補助を受けていても、疲労は確実に溜まっていた。


 灯の盾兵霊も何度となく攻撃を受け、槍兵霊とともに敵の進路を塞ぎ続けている。負傷者の護衛を残しながら戦線を支えるため、灯も《宵鈴》を握る手に力を込めていた。


 紗良は住民たちの移動を助け、転倒した老人へ駆け寄る。


 騎士たちは声を掛け合い、どうにか魔物の群れを食い止めていた。


 けれど、押し寄せる数は減らなかった。


     ◇


 一方、橋の反対側では、異形の獣が巨大な腕を引きずりながら近づいていた。

 肥大した腕が地面を擦るたび、石が砕ける。先ほど倒された騎士たちは、まだ街道に残されたままだった。


 隊長は残った騎士たちを集め、橋の手前で防衛線を作り直していた。

 しかし、先ほどのように盾を並べて受け止めることはできない。


「あの腕には近づくな! 正面から受けようとするなよ!」


 隊長の声に、騎士たちが頷いた。

 異形の獣が一歩踏み出す。

 その進路へ槍を向けた騎士が、慎重に間合いを取った。

 獣が腕を持ち上げた瞬間、隊長が叫ぶ。


「散れ!」


 騎士たちが左右へ飛び退いた。

 直後、巨大な腕が街道へ叩きつけられる。鈍い衝撃とともに石片が飛び散り、退ききれなかった騎士の盾を打った。


「ぐっ……!」

「無理に押し返すな! 下がれ!」


 騎士たちは距離を取りながら、槍を突き出して獣の進路を妨げた。巨体が向きを変えようとすれば、別の騎士が横から牽制する。


 だが、それで止められるのは、ほんのわずかな時間だけだった。

 異形の獣が腕を振れば、誰もが距離を取らざるを得ない。槍で傷をつけても、相手は怯む様子すら見せなかった。

 少しずつ、橋との距離が縮まっていく。


「……くそっ」


 隊長が歯を食いしばった。

 あの巨体を倒すことは、今の戦力では難しい。

 かといって、全員で橋へ退けば、住民たちに危険が及ぶ。

 何としても、ここで足を止めなければならなかった。


「……隊長」


 颯真が声を掛けた。


「俺たちも戦います」


 隊長が振り返る。


「ソウマ。お前たちは住民とともに……」

「今から橋を渡っても、全員が逃げ切れるとは思えません」


 颯真は異形の獣へ目を向けた。


「俺の剣なら、少なくとも傷はつけられるはずです」


 隊長は答えなかった。

 代わりに、その隣へ立った薫を見た。


「……カオルもか」


「はい」


 薫は剣を握り直した。


「正面から受け止めるのは難しいと思います。でも、攻撃を避けながら注意を引くことなら、できるかもしれません」

「危険だぞ」

「分かっています」


 薫は一度だけ、橋の方へ目を向けた。

 向こう岸では、まだ魔物たちとの戦闘が続いている。転移門も完成していない。

 住民たちが逃げるためには、もう少し時間が必要だった。

 それを稼がなければならない。


「隊長、向こう岸の慧を呼んでもらえませんか」


 薫が声を掛けると、隊長が振り返った。


「クロカワか?」

「はい。あいつなら、地面や岩を使って足止めできるかもしれません」


 薫は異形の獣へ目を向けた。


「正面から受け止めるのは難しいです。でも、動きを妨げることなら……」


 隊長は一瞬だけ考え、近くの騎士を呼んだ。


「お前、向こう岸のクロカワを呼んでこい! こちらで魔術による援護が必要だと伝えろ!」

「了解!」


 騎士は頷き、避難民の間を縫って橋へ駆け出した。


 薫は再び異形の獣へ目を向けた。

 騎士たちが牽制を続けているものの、その巨体は少しずつ橋へ近づいている。


 ……間に合ってくれよ。


 薫は剣を握り直した。


     ◇


 橋の向こう岸では、大地たちが魔物の群れを食い止めていた。


「くそっ、まだ来るのかよ!」


 大地が迫ってきた一体を蹴り返したところへ、伝令の騎士が駆け寄ってくる。


「クロカワ! 向こう岸で魔術による援護が必要だ! カオルたちが、あの巨大な魔物を食い止めようとしている!」


「……は!?」


 慧が思わず振り返った。

 橋の反対側では、騎士たちが異形の獣を牽制している。遠目にも、その大きさが分かった。


「……おいおい。まさか、あれと戦えっていうのかよ」

「長くは持ちこたえられん! 来られるか!」


 慧は顔をしかめた。


「行けるかって言われてもな……」


 そう言いながら、周囲の戦況を確かめる。

 こちらにも、まだ多くの魔物が残っていた。自分が抜ければ、それだけ大地たちの負担が増える。


「慧!」


 横から大地の声が飛んだ。


「呼ばれてんだろ! 行ってこい!」

「おい、大地! こっちはどうするんだよ!」

「オレたちで何とかする! いいから早く行け!」


 大地はそう答え、飛びかかってきた魔物の腕を受け流した。


「綾芽! こっち、頼めるか!」

「うん、任せて!」


 綾芽が騎士とともに位置を変え、大地の側面を守るように構える。


 慧は二人を見てから、小さく舌打ちした。


「……ったく! 分かったよ!」


 指輪型の触媒を確かめ、慧は橋へ向かって走り出した。

 避難する住民たちの間を抜け、橋を駆けていく。

 向こう側では、薫と颯真が異形の獣を警戒していた。

 近づくにつれ、その巨体がはっきりと見えてくる。街道には砕けた石が散乱し、倒れた騎士たちの姿もあった。


「……冗談じゃねえぞ」


 慧は顔をしかめながらも、二人の後方で足を止めた。


「俺は後ろから援護する。だが、あんなのを長く拘束できるとは思うなよ」

「分かった。俺と颯真で引き付ける!」

「……軽く言ってくれるな」


 慧は小さく息を吐き、足場を確かめた。それから指輪型の触媒をつけた手を異形の獣へ向け、術式の準備を始める。


 薫と颯真は、騎士たちの前へ出た。


「俺が正面で注意を引く。薫は横から頼む」


 颯真が剣を構える。


「分かった。でも、腕の攻撃はまともに受けないでよ」


「お前もな」


 二人は短く頷き合った。


 颯真が正面から敵の動きを誘い、薫が側面から隙を探る。そして慧が後方から魔術で動きを妨げる。

 あの巨体を相手に、どこまで通用するかは分からない。

 それでも、真正面から力で押し返すよりは、まだ可能性があるはずだった。

 すぐ後ろでは、慧が術式へ魔力を流し込み始めている。


「聞け! 我々の役目は、この魔物を倒すことではない!」


 隊長の声に、騎士たちが顔を上げた。


「転移門が完成し、住民が逃げ切るまで、ここを通さぬことだ! 無理に攻め込むな。互いを援護し、少しでも長く持ちこたえろ!」

「了解!」


 返事は力強かった。

 だが、誰もが先ほどの光景を覚えていた。

 盾を構えていた騎士が吹き飛ばされたこと。

 仲間が掴み上げられ、そのまま動かなくなったこと。

 そして、今も街道に残されている者たちのことを。


 薫も覚えていた。

 できることなら、もう二度と見たくなかった。

 けれど、異形の獣はそんな事情など知らない。

 巨大な腕を引きずりながら、また一歩近づいてくる。


「ギィィィィアアアアッ!!」


 耳を裂くような絶叫が響いた。


 颯真が剣を構え直す。


 慧は後方で術式へ魔力を流し込み、薫は左腕の籠手を確かめた。


 鉤縄は使える。

 剣も、まだ振れる。

 だが、先ほどから戦い続けてきた身体には、確実に疲労が残っていた。


「……来るよ」


 薫が呟いた。


「ああ」


 颯真が答える。


 異形の獣が地面を蹴った。

 その巨体が、予想を超える速さで迫ってくる。


 薫は剣を握り、横へ踏み出した。


 ここから先は、一度の判断の遅れが命取りになる。

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