橋上の死闘
異形の獣が地面を蹴った。
薫は咄嗟に右へ踏み出した。ほとんど同時に颯真も反対側へ身を引き、背後にいた騎士たちが左右へ散る。
「正面に立つな! まともに受けるなよ!」
隊長の怒声が飛んだ直後、肥大した腕が街道へ叩きつけられた。
凄まじい音とともに石畳が砕け、足元へ衝撃が伝わってくる。薫は跳ねた石から顔を庇いながら、数歩先で足を止めた。腕が通り過ぎた跡には、石畳が大きく陥没し、砕けた石が散乱している。
先ほど、あれを盾で受け止めようとした騎士たちは吹き飛ばされた。
もう同じことをしてはいけない。
「槍兵は左右に分かれろ! 腕を振り上げたら踏み込むな! 足を狙え!」
隊長の指示を受け、騎士たちが動いた。
正面から押し返すことは諦め、相手の攻撃を避けて側面から傷を与える。盾も構えてはいるが、あの巨大な腕を受け止めるためではない。もう片方の腕や、噛みつきを警戒するためだった。
最初に仕掛けたのは、異形の獣の右脚側へ回り込んでいた槍兵だった。
獣が叩きつけた腕を持ち上げようとした瞬間、騎士はその太腿へ長い槍を突き出した。穂先が肉へ食い込み、黒ずんだ体表に新たな傷を作る。
「入った!」
騎士はすぐに槍を引き抜こうとした。
だが、異形の獣が身体を捻ったことで、穂先が傷口へ引っ掛かった。
「……っ!」
「離せ!」
隣の騎士が叫ぶ。
槍兵は咄嗟に柄から手を離し、後方へ飛び退いた。直後、肥大した腕が横薙ぎに振るわれる。
残された槍がへし折られ、破片が石畳を跳ねた。少しでも退くのが遅れていれば、騎士自身も巻き込まれていただろう。
「くそっ……!」
「武器はいい! 命を優先しろ!」
隊長が叫び、別の騎士が予備の槍を手渡した。
その間に、颯真が前へ出る。
「はあっ!」
両手で握った剣へ風を纏わせ、巨体の右側から斬り込んだ。
狙いは、先ほど騎士が傷つけた脚だ。
異形の獣が振り向くより早く、颯真の剣が太腿の外側を捉える。風を伴った刃が体表を裂き、巨体がわずかに傾いた。
確かな手応えがあった。
しかし、深く踏み込みすぎた。
「颯真、下がって!」
薫の声が響く。
獣は傷ついた脚を引くと同時に、肥大した腕を地面へついた。巨体を支えながら、もう片方の腕を颯真へ振り回す。
「……っ!」
颯真は剣を引き戻し、咄嗟に上体を捻った。
爪が胸元を掠め、鎧の表面に浅い傷が走る。勢いに押されるように身体が仰け反り、足元が乱れた。
その瞬間、薫が獣の横から踏み込んだ。
「こっち向け!」
短く声を掛け、剣を低く振る。
刃が獣の右膝裏を掠めた。傷は浅い。それでも獣は薫の方へ顔を向け、大きく裂けた口から耳障りな声を漏らした。
薫は剣を引き戻し、すぐに距離を取る。
異形の獣が、地面についていた巨大な腕を振り上げた。
狙いは薫だった。
横へ逃げようとした瞬間、その腕が予想以上に長く伸びてくる。
「うわっ!」
薫は慌てて身を低くした。
頭上を太い腕が通り抜け、背後にあった橋のたもとの石柱へ激突する。硬いものが砕ける音が響き、石片が周囲へ飛び散った。
薫は地面へ片手をつき、転がるようにして距離を取る。立ち上がる途中で視界に入ったのは、根元から大きく欠けた石柱だった。
……あれ、当たってたら……いや、考えない方がいい。
まだ獣はこちらを見ている。
「カオル! 離れろ!」
騎士が槍を突き出し、獣の胴を牽制した。
薫はその隙に後退し、颯真の隣へ戻る。
「助かった!」
「お互い様!」
颯真も剣を構え直した。
異形の獣は、槍の穂先へ顔を向けていた。騎士たちは左右から間合いを測り、巨体が動くたびに位置を変えている。
まともに腕を受け止めようとする者は、もういなかった。
だが、攻撃を当てるには、あの巨大な腕の間合いへ踏み込まなければならない。少しでも離脱が遅れれば、次は避けきれないかもしれなかった。
異形の獣が、再び巨体を揺らした。
「右へ逃がせ! 橋の正面に立たせるな!」
隊長が指示を飛ばす。
橋へ続く道は、左右を低い石壁に挟まれていた。あの巨体が真っすぐ突進してくれば、後ろにいる慧や、まだ橋を渡りきっていない騎士たちまで巻き込まれる。
何としても、進路を変えなければならなかった。
「カオル! そちらから注意を引けるか!」
「やってみます!」
薫は左腕を持ち上げ、橋のたもとに残っている別の石柱へ鉤縄を射出した。
金属製の鉤が石柱の張り出しに引っ掛かる。薫は一度鋼線を引いて固定を確かめると、異形の獣の右側へ走った。
「こっちだ!」
異形の獣が顔を向けた。
先ほどつけた膝裏の傷を狙うように、薫は剣を構えて踏み込む。しかし、獣が肥大した腕を持ち上げたのを見て、すぐに攻撃を中断した。
薫は足元の石畳を蹴ると同時に、巻き取り機構を作動させる。
左肩に強い負荷が掛かり、身体が鉤縄を固定した石柱の方へ引かれた。薫は足を地面へ擦らせて姿勢を保ち、斜め後方へ逃れる。
ほんの一瞬前まで立っていた場所へ、異形の獣の腕が叩きつけられた。
地面が砕ける。
「今だ!」
反対側から、二人の騎士が踏み込んだ。
一人が槍を低く構えて脚を突き、もう一人が剣で胴の側面を斬りつける。
どちらも浅い傷だった。
だが、獣の身体がわずかに傾く。
「ソウマ!」
隊長の声が飛んだ。
「はい!」
颯真は両手剣を握り直し、傷ついた右脚へ踏み込んだ。魔力を剣へ流し込み、風を纏わせる。
「はああっ!」
刃が太腿の外側へ食い込んだ。
先ほどよりも深い。
獣が甲高い悲鳴を上げ、膝をわずかに曲げる。
「……よし!」
颯真は剣を引き抜き、そのまま後退しようとした。
しかし、異形の獣は倒れなかった。
肥大した腕を地面へつき、身体を支えたのだ。そして、傷ついた右脚の負担を逃がすように上体を捻ると、地面から引き抜く勢いで巨大な腕を横へ振り回した。
「ソウマ、退け!」
隊長の声に、颯真は咄嗟に身を引いた。
「……っ!」
直接の一撃は避けられた。
けれど、振り回された腕が地面を擦り、石の破片を巻き上げた。颯真は左腕で顔を庇いながら、数歩後退する。
そのすぐ横で、鈍い音が響いた。
「ぐあっ!」
騎士の一人が膝をついた。
飛び散った石片が脚に当たり、体勢を崩したらしい。立ち上がろうとしても、片脚に力が入らない。
「おい! 大丈夫か!」
近くの騎士が駆け寄る。
「あ、ああ……すまん、足が……!」
「無理に立つな!」
肩を貸そうとした、その瞬間だった。
異形の獣が二人へ顔を向けた。
肥大した腕が、ゆっくりと持ち上がる。
……まずい!
薫が走り出そうとした。
だが、その前に、地面から尖った岩が突き出した。
岩は獣の足元で砕け、破片を散らす。獣がわずかに身を引いた。
「今のうちに退け!」
後方から慧の声が響いた。
指輪型の触媒をつけた手を突き出し、荒く息を吐いている。
「助かった!」
騎士は負傷した仲間の腕を肩へ回し、引きずるように後退した。
それを見届けた薫は、すぐに獣の側面へ回り込んだ。
「颯真、右!」
「分かった!」
二人が左右へ分かれる。
獣の注意が颯真へ向いた瞬間、薫はその右脚の後ろ側へ剣を振った。刃は浅く肉を裂いたが、獣はすぐに身体を揺らし、薫の方へ振り向こうとする。
その正面へ、今度は颯真が踏み込んだ。
「はあっ!」
風を纏った剣が胸元を斬り裂いた。
獣が仰け反る。
しかし、颯真は追撃しなかった。すぐに距離を取り、剣を構え直す。
……追いすぎるな。
目の前の相手は、傷ついても簡単には止まらない。
倒そうと焦って深く踏み込めば、その瞬間に捕まる。颯真もそれを警戒しているのか、今度は不用意に距離を詰めようとしなかった。
攻撃を重ねても、異形の獣は倒れなかった。
颯真が何度も斬りつけた右脚は、わずかに動きが鈍っている。それでも、肥大した腕を振るう力は衰えない。石畳が砕かれるたびに破片が飛び散り、攻撃を避けた騎士たちにも負傷者が出始めていた。
「くそっ……!」
騎士の一人が、左腕を押さえながら後退した。
異形の獣が砕いた石畳の破片を盾で防いだものの、その中の大きな石片を受けた衝撃で腕を痛めたらしい。盾自体に目立った損傷はなかったが、左腕はまともに上がらなくなっていた。
「もういい! 下がれ!」
「ですが、まだ……!」
「その腕でどう戦うつもりだ!」
隊長に叱責され、騎士は悔しそうに顔を歪めた。
別の騎士が彼の肩を支え、橋へ向かって歩き始める。
それを見た薫は、周囲へ目を向けた。
最初に戦い始めたときよりも、騎士の数が減っていた。
命を落とした者がいる。動けなくなった者もいる。残っている騎士たちも、すでに無傷ではなかった。
……状況はかなり悪いな。
薫自身の呼吸も荒くなっていた。
鉤縄を使うたびに左肩へ負担が掛かり、走り続けている脚にも疲労が溜まっている。剣を握る右手には汗が滲み、柄を握り直す回数も増えていた。
それでも、まだ動ける。
けれど、同じことを全員に求めるわけにはいかなかった。
「カオル!」
隊長が叫んだ。
「その場を離れろ!」
「……っ!」
薫は反射的に後ろへ跳んだ。
次の瞬間、異形の獣の腕が目の前を通り過ぎる。風圧でマフラーが大きくはためき、薫は足元を滑らせながら着地した。
慌てて剣を構え直す。
……っぶな。
隊長の声がなければ、避けるのが遅れていたかもしれない。
「ありがとうございます!」
「礼は後だ!」
隊長も剣を構え、薫の横へ回った。
「いつになったら止まるんだ、こいつは……!」
「隊長、あいつ、右脚は少し庇ってるように見えます!」
「……そうか!」
隊長は獣の脚へ視線を向けた。
颯真が何度も斬りつけた場所から、血が流れている。獣はまだ動けているが、左右の脚の運び方が微妙に違っていた。
「そこを狙うぞ! ただし深入りはするな!」
「はい!」
薫が頷く。
その直後、後方から慧の声が響いた。
「薫! 颯真! 少し離れろ!」
二人は同時に後退した。
慧が指輪型の触媒を前へ向ける。魔力を流し込むと、足元の石が集まり始めた。
先ほどのような、足場を妨げるための岩ではない。
細長く、先端の尖った岩石。
一本の槍に近い形だった。
「……そらよっと!」
慧が指輪をつけた手を突き出すと、岩槍が勢いよく射出された。
風を切って飛んだ先端が、異形の獣の胴体へ深く突き刺さる。
「ギィアアッ!」
獣が絶叫した。
胴体に突き立った岩槍の周囲から血が溢れ、黒ずんだ体表を伝って流れ落ちる。
慧は思わず目を見開いた。
「……入った!」
あれほどの傷なら、普通の魔物はまともに動けなくなるかもしれない。
薫も一瞬、そう思った。
だが、異形の獣は岩槍を身体に刺したまま、慧の方へ顔を向けた。
「……っ、嘘だろ」
肥大した腕が持ち上がる。
狙われた。
「慧、下がれ!」
薫が叫んだ。
慧は慌てて後ろへ退いた。
異形の獣が踏み込む。
しかし、その進路へ颯真が回り込んだ。
「こっちだ!」
剣を大きく振り、風の斬撃を放つ。
獣の胸元へ新たな傷が走り、巨体がわずかに揺れた。続いて騎士たちが左右から槍を突き出し、獣の進路を塞ぐ。
動きが止まったのは、ほんの一瞬だった。
しかし、慧が距離を取るには十分だった。
「助かった!」
「まだ来るぞ!」
颯真は剣を構え直した。
その声に応えるかのように、異形の獣が身体を捻る。
肥大した腕が、大きく横へ振り抜かれた。
「散れ!」
隊長の怒声が響いた。
薫はすぐに身を低くし、颯真も後方へ跳ぶ。
だが、騎士の一人が逃げ遅れた。
「……っ!」
腕そのものに殴られたわけではない。
避けようとしたところへ、振り回された腕の先が槍の柄を捉えたのだ。
槍が大きく弾かれ、握っていた騎士の身体も横へ持っていかれる。騎士は石畳の上を転がり、低い石壁へ背中から叩きつけられた。
「ぐっ……ああっ!」
騎士は起き上がろうとした。
だが、右脚が不自然な方向へ曲がっていた。身体を起こそうにも体重を掛けられず、苦痛に顔を歪めている。
「くそっ、脚が……!」
「おい、しっかりしろ!」
近くの騎士が駆け寄った。
負傷した騎士は歯を食いしばったまま、立ち上がろうとする。
「俺は、まだ……!」
「無理するな!」
肩を貸そうとした仲間の手を、一度は振り払った。
だが、二度目に立とうとしたとき、痛みに耐えきれず、その場へ崩れ落ちた。
「……っ、すまん」
ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。
薫はその姿を見ていた。
もう戦える状態ではない。
それなのに、騎士はまだ前へ出ようとしていた。
……これ以上は。
「隊長!」
薫が声を上げた。
「負傷者を退かせましょう! このままだと、動ける人までやられます!」
隊長が一瞬だけ振り返った。
その顔には迷いがあった。
戦線を維持するには、一人でも多くの騎士が必要だ。しかし、負傷者を放置するわけにもいかない。彼らを運ぶにも、人手が要る。
ましてや、ここは高い渓谷へ架かる橋の手前だ。橋へ異形の獣が踏み込んでくれば、避難する住民たちまで巻き込まれる。
「……負傷者を橋の向こうへ!」
隊長が決断した。
「動ける者は肩を貸せ! 急げ!」
騎士たちが動き始めた。
しかし、その分だけ前線の人数が減る。
異形の獣は、そんなことなど構わずこちらへ向かってきた。
「颯真!」
「分かってる!」
二人は再び前へ出た。
薫が獣の右側へ走って注意を引き、颯真は正面から剣を構える。慧も後方で魔術の準備を始めていた。
騎士たちが負傷者を運び終えるまで、何としても持ちこたえなければならない。
異形の獣が薫へ顔を向け、肥大した腕を振り上げた。
「……っ!」
薫は踏み込みかけた足を引き、横へ逃れる。
直後、巨大な腕が石畳を砕き、その反動で獣の上体が沈んだ。
その隙へ、颯真が踏み込む。
「はあっ!」
風を纏わせた剣を斜め上へ振り抜き、獣の肩口を斬りつけた。
異形の獣が身を捩ると、颯真は追撃せずに後退した。
「薫、離れろ!」
慧の声が飛んだ。
薫が距離を取ると、慧が手を突き出した。
異形の獣の足元で石畳が盛り上がり、尖った岩が突き出す。
獣は踏み出しかけた足を引いたものの、すぐに岩を踏み砕いてしまった。
「……くそっ、これでも止まらねえのかよ」
慧が荒い息を吐く。
それでも、薫と颯真が距離を取るだけの時間は稼げた。二人は再び位置を変え、迫ってくる巨体へ剣を構え直す。
胴体には岩槍が突き刺さり、脚にも新たな傷が増えている。先ほどと比べれば、踏み込む際の動きもわずかに鈍くなっていた。
確かに、攻撃は通じている。
それでも、この怪物を倒すにはまだ足りなかった。
「カオル!」
後方から隊長の声が響いた。
薫は獣から目を離さずに返事をした。
「はい!」
「負傷者を運び出す! お前たちも下がれ!」
薫は橋の方へ目を向けた。
負傷した騎士たちが、仲間に支えられながら移動を始めている。鎧の擦れる音や、苦痛を堪える声が、戦闘の音に混じって聞こえてきた。
あの速度では、異形の獣に追いつかれるかもしれない。
薫は剣を構え直した。
「……まだです!」
「何だと!?」
「今、全員で下がったら追いつかれます!」
異形の獣が再びこちらへ顔を向ける。
「俺たちで、もう少し引きつけます!」
「しかし、それでは……!」
「隊長!」
今度は颯真が叫んだ。
「負傷者を頼みます! 動ける騎士が一緒にいないと、向こうまで運べません!」
隊長は橋へ目を向けた。
負傷者を運ぶ騎士たちの足取りは遅い。向こう岸でも戦闘が続いており、無事に渡ったあとも人手が必要になるだろう。
それでも、目の前の異形の獣を、この三人に任せていいのか。
隊長は薫と颯真を見た。
まだ十七歳の少年たちだった。
「……すまん」
低く呟いた声が、薫にも聞こえた。
「長くはもちません! 急いでください!」
薫は振り返らずに答えた。
隊長は一度だけ目を閉じ、それから声を張り上げた。
「撤退する! 負傷者を先に渡せ!」
「はい!」
騎士たちが負傷した仲間に肩を貸し、橋へ向かって急ぎ始める。
「カオル、ソウマ、ケイ! 無理に倒そうとするな! 時間を稼げればそれでいい! お前たちも必ず退け!」
「はい!」
薫が返事をした。
隊長は最後まで何か言いたげだったが、やがて負傷者を運ぶ騎士たちの後を追った。
鎧の音と足音が、少しずつ遠ざかっていく。
橋の向こうからは、まだ戦闘の音が聞こえていた。
そして、異形の獣の前に残されたのは、薫と颯真、慧の三人だけだった。
「……しっかし」
慧が荒い息を吐いた。
「とんでもないのと戦うことになったな、俺たち」
「……うん」
薫は短く答えた。
「正直、俺もここまでとは思わなかった」
「そりゃそうだろ。騎士が何人もいて、あれだけ攻撃してんのに、まだ動いてんだぞ」
慧は指輪型の触媒へ目を落とした。
魔力の消耗が激しい。
村では大地と協力して大きな岩を作り、ここへ来てからも何度も術式を使っている。まだ魔術は使えるが、このまま撃ち続ければ、いずれ限界が来る。
「……あと何発撃てるか、分かんねえな」
「無理に連発しなくていいよ」
薫は獣から目を離さずに言った。
「俺が注意を引く。颯真が攻撃できるときに、合わせて援護してくれれば」
「簡単に言うなよ……」
「……ごめんて」
「いや、分かってる。ほかに手もねえしな」
慧は小さく息を吐き、再び手を構えた。
颯真は薫の隣へ並ぶ。
「薫、右側は任せた」
「うん。颯真は正面をお願い」
「分かった」
二人は短く頷き合った。
異形の獣が、また一歩近づいてくる。
巨体は傷だらけだった。肩口にも、胴にも、脚にも斬り傷や刺し傷が残っている。胴体には慧が放った岩槍が突き刺さり、その周囲からも血が流れていた。
傷ついた右脚を庇うせいか、先ほどより踏み込みが遅れている。それでも、肥大した腕を振るう力は衰えていなかった。
むしろ、傷を負うたびに動きが荒々しくなっているように見えた。
「ギィィィィアアアアッ!!」
けたたましい絶叫が響いた。
薫は左腕の籠手を確かめた。
鉤縄はまだ使える。剣も握れる。
それでも、先ほどから戦い続けてきた身体には、確実に疲労が残っていた。荒い呼吸を整えようとしても、胸がなかなか落ち着かない。
今度は、騎士たちの援護もない。
異形の獣がこちらへ向き直り、傷ついた右脚を踏み出した。
「……来るよ!」
薫は右へ走った。
颯真は剣を構え、巨体の正面へ踏み込む。慧の足元では、次の岩槍が形を作り始めていた。
橋の向こう岸では、まだ転移門が完成していない。
三人は、その光が開くまでの時間を稼がなければならなかった。




