……気持ちのいいものじゃないな
薫たちが初めて実戦に参加することになったのは、装備の相談を終えてから、しばらく経った頃だった。
王都から少し離れた街道沿いで、魔物の目撃が続いているという。近くには農地もあり、放置すれば通行人や住民に被害が出るおそれがあった。
そこで、王国の兵士たちによる小規模な討伐隊が組まれることになった。薫たち来界者も、希望すれば同行できるという。
もちろん、全員が参加する必要はない。来界者に戦闘の義務はなく、今回も本人の意思が尊重された。実戦に不安がある者や、まだ訓練が十分ではないと感じている者は、王都に残ることを選んでいた。
参加を決めた薫も、出発前には少し緊張していた。
「……いよいよ、か」
身につけた軽い革鎧の留め具を確かめながら、小さく呟く。
腰には、新しく用意された片刃の直剣。ほかにも、盗賊ギルドで揃えた投げナイフを何本か携えている。
要望していた鉤縄付きの籠手は、まだ調整の途中だった。実際に使えるようになるには、もう少し時間が掛かるらしい。
「薫、準備できたか?」
振り返ると、颯真が立っていた。
「うん。大丈夫」
「そうか。……ちょっと緊張するな」
「颯真でも?」
「そりゃするだろ。相手は魔物だぞ」
「まあ、そうだよね」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
稽古では何度も剣を交えてきた。けれど、今度の相手は竹刀で打たれても止まってくれないし、こちらも本物の刃を使うことになる。
分かっていたことなのに、いざ出発が近づくと、その違いが妙に気になった。
◇
現地に着くと、討伐隊を率いる兵士から改めて説明があった。
「まずは我々が前に出る。君たちは指示に従い、決して無理に戦おうとするな。危険を感じたら、ためらわず下がれ」
兵士は薫たちを一人ずつ見回した。
「今回の目的は、魔物を討伐することだけではない。実際の戦場がどういうものかを知り、全員が生きて帰ることだ。分かったな?」
「はい!」
颯真が代表するように返事をした。
薫も頷きながら、周囲を見回した。
街道から外れた林の中には、低い草が生い茂っている。少し湿った土の匂いがして、風が吹くたびに葉が擦れる音が聞こえた。
盗賊ギルドで何度も歩いたような場所だ。
けれど、今日は訓練ではない。
薫は腰の剣へ軽く触れた。
……俺にできることをやろう。
それだけは、いつもと変わらないから。
隊は慎重に進み、やがて魔物の痕跡が残る場所へ辿り着いた。
「あの、少しいいですか?」
薫が声を掛けると、近くの兵士が振り返った。
「どうした、カオル」
「あそこの草、何かが通ったみたいに倒れてませんか?」
薫は少し離れた茂みを指さした。
草の一部が不自然に寝ている。その先には、土が掘り返されたような跡もあった。
兵士は慎重に近づき、地面を確かめた。
「……確かにな。よく見つけた」
「いえ、まだ習い始めたばかりなので、間違ってるかもしれませんけど」
「いや、報告してくれて助かった。全員、警戒を強めろ!」
兵士の声に、隊の空気が変わった。
薫も剣の柄へ手を伸ばす。
その直後だった。
茂みの向こうから、低い唸り声が聞こえた。
葉を押し分け、灰色の毛に覆われた獣に似た魔物が姿を現す。
犬よりも一回り大きく、前脚は太い。口の端からは鋭い牙が覗き、低く構えた背中の毛が逆立っていた。
訓練場で絵を見せられたことはあったが、本物を前にすると印象がまるで違った。
何より、こちらを見つめる目が怖い。
「前衛、構えろ!」
兵士たちが盾と槍を構えた。
魔物は低く唸ると、太い前脚で地面を蹴った。土を跳ね上げながら一気に距離を詰め、その勢いのまま先頭の兵士へ飛びかかる。
次の瞬間、盾を叩く重い音が響いた。
「ぐっ……!」
兵士の身体が大きく揺れ、踏ん張っていた足が地面を滑った。盾の向こうから押し寄せる重みに耐えきれず、片膝が沈みかける。
「押し返せ!」
隣の兵士が叫び、槍を突き出した。
穂先が魔物の胴へ迫る。しかし、相手は前脚を踏み替えて身体を捻り、寸前でそれを躱した。
槍が毛皮を浅く掠め、魔物が耳障りな唸り声を上げる。
盾を押していた重みがふっと消えたかと思うと、今度は横合いから鋭い爪が振り抜かれた。
ガンッ、と盾の縁に衝撃が走る。
「くそっ、こいつ……!」
兵士は歯を食いしばり、盾を身体へ引き寄せた。腕に伝わった衝撃を逃がそうと半歩下がるが、魔物は休む間もなく牙を剥いて迫ってくる。
薫は思わず息を呑んだ。
……速い。
訓練中に相手をしてきた人間とは、動きが違う。
四本の脚を使って低い姿勢から飛び込んでくるため、間合いも読みづらかった。何より、盾越しに攻撃を受けた兵士があれほど押されるのだ。まともに身体へ食らえば、ただでは済まない。
「薫、右!」
颯真の声が響いた。
別の茂みから、もう一頭が飛び出してきたのだ。
薫は反射的に身体を向け、剣を抜いた。
すぐに兵士の一人が間へ入ろうとしたが、魔物はその脇をすり抜ける。
狙われたのは、少し後方にいた綾芽だった。
「……っ!」
綾芽は素早く刀を構え、迫ってくる魔物へ向き直った。
足の運びも、構えも悪くない。
けれど、魔物が目前まで迫った瞬間、ほんのわずかに動きが止まった。
いつもの綾芽なら、あの間合いで迷うことはない。
そう思ったときには、魔物がもう地面を蹴っていた。
「綾芽!」
薫が声を上げた。
綾芽は咄嗟に横へ踏み込み、魔物の突進を避ける。しかし、すれ違いざまに振った刀は浅く、相手を止めるには至らなかった。
魔物が前脚を踏ん張り、すぐに身体を反転させる。
……まずい。
薫は腰から投げナイフを抜いた。
狙いを定め、腕を振り抜く。
刃は魔物の肩先を掠めただけだったが、相手は一瞬そちらへ顔を向けた。
その隙に颯真が踏み込み、剣を振るう。
「はあっ!」
風を纏った刃が魔物の前脚を捉えた。
だが、踏み込みと風の勢いがうまく噛み合わず、颯真の身体もわずかに流れた。
魔物は痛みに吠えながら身を捩り、颯真から距離を取る。
魔物の動きは止まらない。
颯真は剣を握り直し、足を踏み直した。綾芽も体勢を立て直していたが、その表情には明らかな緊張が浮かんでいる。
薫は魔物の動きを見た。
傷ついた前脚を庇うように、重心が少し傾いている。
……あそこなら。
相手が次にどちらへ動くかは、完全には分からない。
それでも、動ける方向はある程度限られていた。
「颯真、そっちお願い!」
「分かった!」
颯真が魔物の正面へ回り、剣を構えた。
薫は距離を保ちながら横へ動く。
魔物の頭がこちらを向いた。
牙が見えた。
怖い。
そう感じた次の瞬間、魔物が地面を蹴った。
薫は一歩退き、続けて斜めへ身体を逃がす。牙がすぐ目の前を通り過ぎ、思わず息が詰まった。
魔物が前脚を踏ん張り、向きを変えようとする。
だが、傷ついた脚がわずかに遅れ、その脇腹がこちらへ向いた。
……今なら。
迷っている時間はなかった。
薫は右手の剣を握り直し、左手を柄へ添えた。
身体を逃がしたときの足を踏み直し、両手で剣先を押し出す。
刃が魔物の脇腹へ突き入り、手に重い抵抗が伝わった。
「……っ!」
魔物が大きく身体を震わせた。
剣を引き抜こうとしたが、思っていたより抜けない。薫は咄嗟に力を込めかけ、すぐに手を止めた。
無理に捻れば、刃が抜けなくなるかもしれない。
相手の身体が傾くのに合わせて一歩引き、剣を真っすぐ引き抜いた。
魔物が地面へ倒れ込んだ。
どさり、と重い音が響き、湿った土が跳ねる。それでも相手はすぐには動きを止めず、太い前脚で地面を掻き、何とか身体を起こそうとしていた。
「……っ」
薫は剣を構え直した。
傷口から血が流れ、魔物の腹が不規則に上下している。喉の奥から漏れる荒い息には、時折、苦しげな唸り声が混じった。
まだ、生きている。
魔物が頭を持ち上げた。
薫の方へ牙を剥こうとしたものの、力が入らないのか、再び地面へ顎を落とす。
その姿を見て、薫は奥歯を噛みしめた。
……このままには、できないよな。
剣を握る手に、少しだけ力がこもった。
怖くないわけじゃない。
初めて刃を突き入れたときの、生々しい抵抗がまだ手の中に残っている。できることなら、もう一度味わいたい感触ではなかった。
けれど、ここでためらえば、苦しむ時間を長引かせるだけかもしれない。それに、まだ動ける以上、最後まで警戒を解くわけにはいかなかった。
薫は魔物の動きを見ながら、牙の届かない側へ回り込んだ。
慎重に間合いを詰める。
魔物の前脚がわずかに動いた。
薫は一度足を止め、相手の動きを確かめた。
そして、両手で握った剣先を首の側面へ向ける。
刃を突き下ろした。
ずぶり、と重い抵抗が両腕に伝わる。
「……っ」
魔物の身体がびくりと跳ねた。
地面を掻いていた前脚が一度だけ強く突っ張り、爪が土を削る。
薫は歯を食いしばり、剣を握り続けた。
やがて、魔物の身体から力が抜けていく。
荒かった呼吸が途切れ、前脚も動かなくなった。
薫はしばらく剣を構えたまま様子を確かめ、それから慎重に刃を引き抜いた。
血のついた剣先から、赤い雫が落ちる。
……終わった、のかな。
そう思っても、すぐには鞘へ納められなかった。
少し離れた場所では、まだ兵士たちの怒号と金属のぶつかる音が響いている。
薫は一度息を吐き、周囲へ目を向けた。
まだ戦闘は終わっていない。
ほかの魔物がいないか。仲間は無事か。
確かめなければならないことが、まだ残っていた。
剣を握り直し、薫は顔を上げた。
◇
周囲が静かになったのは、それから少し経ってからだった。
もう一頭の魔物も兵士たちによって討伐され、隊は周囲に新たな敵がいないかを確認していた。
「全員、怪我はないか!」
隊を率いる兵士の声が響く。
薫は剣を下ろし、自分の身体を確かめた。
腕は動く。脚も問題ない。服には土がついていたが、血が出ている場所はなさそうだった。
それから周囲を見回す。
颯真は少し荒い息を整えながら、剣についた血を拭っていた。綾芽はその隣で、まだ魔物の倒れている方を見ている。
「綾芽、大丈夫?」
薫が声を掛けると、綾芽はゆっくり顔を上げた。
「……うん。怪我はないよ」
「そっか。よかった」
「薫は?」
「俺も大丈夫」
そう答えてから、薫はもう一度、魔物の方へ目を向けた。
動いていない。
自分が殺したのだ。
その事実は、思っていたより重かった。
剣を突き入れたときの感触が、まだ手に残っている。
稽古で竹刀を当てたときとも、木剣で相手を打ったときとも違う。刃が肉を貫く感覚も、傷ついた魔物が地面で足掻く姿も、知らなかったものばかりだった。
……気持ちのいいものじゃないな。
薫は小さく息を吐いた。
けれど、あのとき剣を振らなければ、誰かが傷ついていたかもしれない。
魔物はこちらを襲ってきた。
戦わずに退けられたなら、その方がよかった。だが、少なくともあの瞬間は、そうできる状況ではなかった。
だから、剣を振った。
その判断まで間違っていたとは、思わなかった。
薫は周囲の警戒が続いているのを確かめ、近くの兵士へ声を掛けた。
「すみません。あの魔物、もう動かないと思うんですけど、確認していただけますか?」
「ああ。分かった」
兵士は薫が示した魔物へ近づき、剣を構えたまま様子を窺った。反応がないことを確かめてから、慎重に生死を確認する。
「……死んでいるな。カオル、よく対処した」
「ありがとうございます」
薫は小さく頭を下げた。
褒められたことは分かったが、どう返せばいいのか、少し迷った。
それでも、兵士が確認してくれたことで、ようやく一つ肩の荷が下りた気がした。
やがて周囲の安全確認も終わり、負傷者がいないことが分かった。討伐隊の面々が帰還の準備を始める中、薫はもう一度だけ、自分が倒した魔物の前へ向かった。
ほんの数秒、両手を胸の前で合わせる。
目を閉じ、静かに頭を下げた。
「……薫?」
綾芽の声が聞こえた。
薫は手を下ろし、振り返った。
「ああ。ちょっとね」
「……そっか」
綾芽はそれ以上、何も聞かなかった。
薫も説明しようとはしなかった。
さっきまで動き、こちらに牙を剥いていたものが、もう二度と動かない。
そのことだけは、忘れずにいたかった。
◇
帰り道、薫たちは来たときよりも口数が少なかった。
少し前を歩く兵士たちは、今回の討伐について話し合っている。どこで魔物が現れ、どう動いたのか。次に似た状況が起きたとき、どう対処するべきか。
薫もその話を聞いていたが、ふと自分の手元へ視線を落とした。
何度か握り、開いてみる。
剣を握っていたときの感触は、もうほとんど残っていない。
それでも、思い返せば、あの重い抵抗をはっきりと思い出せた。
「……薫」
隣を歩いていた綾芽が口を開いた。
「ん?」
「さっき、怖くなかった?」
薫は少し考えた。
「……そりゃあ、怖かったよ」
「……そうなんだ」
「うん。すごい勢いで飛びかかってきたし、正直、ちゃんと避けられるかも分からなかった」
薫は苦笑した。
「それに……やっぱり、殺すのって嫌な感じがするね」
綾芽は黙っていた。
「でも、あそこで止まるわけにもいかなかったから」
「……うん」
「だから、斬ったんだと思う」
薫はそう答えた。
自分でも、それ以上うまく説明できなかった。
必要だったから、剣を振った。ただ、必要だったからといって、何も感じなかったわけではない。
綾芽はしばらく足元を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……私、刀を振るのが遅れちゃった」
「うん」
「分かってたんだよ。あのままじゃ危ないって。でも、目の前まで来たら……」
そこで言葉が止まった。
薫は綾芽の顔を見た。
「……初めてだったしね」
「……うん」
「俺だって、次も同じようにできるかは分からないよ」
その言葉に、綾芽が顔を上げる。
「薫でも?」
「そりゃ、そうだよ」
薫は少し笑った。
「次に出てくる魔物が、今日みたいに動くとは限らないし。俺の方が先にやられるかもしれないしね」
「……そういうことを、さらっと言わないでよ」
「あ……ごめん」
綾芽に睨まれ、薫は困ったように眉を下げた。
「ただ、次も生きて帰れるようにはしたいなって」
「それは、当たり前でしょ」
「うん。そうだね」
薫は頷いた。
少し前では、颯真が兵士から今日の戦いについて説明を受けていた。
剣の振り方も、風の使い方も、まだまだ改善できるところがあるらしい。颯真は時折頷きながら、真剣な顔で話を聞いていた。
薫も、きっと同じだ。
もっと周囲を見られたかもしれない。投げナイフも、もう少し狙いを定められたかもしれない。
魔物の動きを見て、もう少し早く動けていたら。
考え始めると、反省することはいくらでもあった。
……帰ったら、少し整理しておこうかな。
そう思いかけて、薫は首を振った。
いや、今日はもう疲れた。
まずは帰って、飯食って、身体を休めよう。
薫は前を歩く仲間たちへ視線を向け、少しだけ歩調を速めた。




