13話 ガルド・ヴァンベルク(ガルド回)
「遅いぞ」
薄暗い路地の壁にもたれながら、ガルドは不機嫌そうに呟いた。
「申し訳ありません。ニーナを地下室へ入れていたもので」
「誰かに見られなかっただろうな?」
「はい。裏口から入りましたので」
「ならいい」
不機嫌そうに低い声で答えると、ガルドは杖を地面につき、ゆっくりと立ち上がった。
ほんの少し歩いただけだというのに、左脚には鈍い痛みが走っている。
昔なら、この程度の町など端から端まで走ったところで息一つ乱さなかった。
それが今では、屋敷へ帰るだけでも誰かの手を借りなければならない。
「肩を」
セレナが身体を寄せる。
「……いらん」
「私はあなたの奴隷です…少しくらい頼ってください」
「……」
ガルドは何も言わず、差し出された肩へ腕を回した。
セレナも何も言わなかった。
二人は人通りの少ない道を選び、屋敷へ向かって歩き始めた。
この町でガルドの名を知らない者は少ない。
かつて町を襲った魔物から人々を守った元A級冒険者。
今でも道を歩けば頭を下げる者がいる。
昔話を聞かせてほしいと寄ってくる若い冒険者もいた。
だからこそ、今人目につくわけにはいかなかった。
奴隷を連れて歩くこと自体は違法ではない。
だが――余計な噂など、ないに越したことはない。
「……急ぐぞ」
「はい」
二人は誰にも見られないよう、屋敷へと戻っていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
屋敷の地下。
ガルドが扉を開けると、部屋の隅に座っていた少女がビクッと身体を震わせた。
薄い金色の長い髪。
奴隷商のところにいた時と変わらず背中を丸め、こちらの様子をうかがっている。
「立て」
「は、はい……」
ニーナは慌てて立ち上がった。
その腕には奴隷としての従属の刻印がある。
今、その主人となっているのはガルドだった。
「今日からお前はここで暮らす」
「……はい」
「言われたことを守っていれば悪いようにはせん。食事も寝床も用意する」
「はい……」
ニーナは小さく頭を下げた。
それでも何か言いたそうに、何度もガルドを見ては視線を逸らしている。
「なんだ?」
「えっ……」
「言いたいことがあるなら言え」
「あ、あの……」
しばらく迷ったあと、ニーナは恐る恐る口を開いた。
「リセ……は?」
ガルドの表情が止まった。
「昨日……私と一緒にいた女の子です。ここに……いるんですか?」
「……」
「昨日、リセを買ったのも……あなたですよね?」
少しの沈黙のあと、ガルドは杖をついてニーナに背を向けた。
「ここにはおらん」
「え……」
「別の屋敷で働いてもらっている」
「そう……なんですか?」
「ああ」
ニーナの顔から、ほんの少しだけ緊張が抜けた。
「よかった……」
その言葉に、ガルドは答えなかった。
「ニーナ」
代わりにセレナが優しく声をかける。
「今日はもう休みなさい。疲れたでしょう?」
「あ……はい」
「部屋へ案内します」
セレナに促され、ニーナは地下室を出る。
階段を上がった先には、想像していたよりもずっと広い屋敷があった。
廊下には高そうな絵画。
綺麗に並べられた家具。
部屋もいくつあるのか分からない。
それなのに、ニーナにはどうしても気になることがあった。
「……あの」
「どうしました?」
「ここって……他に誰か住んでるんですか?」
セレナの足が止まった。
「どうしてです?」
「その……こんなに広いのに、誰とも会わないから……」
屋敷へ入ってから、人の声を一度も聞いていない。
使用人らしい人間もいなければ、料理人も、掃除をしている者もいない。
広い屋敷の中にいるのは、ガルドとセレナ。
そして、自分だけ。
「昔はいましたよ」
「昔……?」
「今はいません」
セレナはそれ以上説明せず、一つの扉を開けた。
「ここを使ってください」
小さいながらも綺麗な部屋だった。
ベッドもある。
「ありがとうございます……」
「ただし」
セレナの声が少しだけ低くなった。
「ガルド様から一つだけ命令があります」
ニーナの身体が強張る。
「この部屋から、勝手に出てはいけません」
「……え?」
「必要なものがあれば私を呼んでください。食事も私が運びます」
「でも……」
「これは命令です」
ニーナは自分の腕を見る。
そこに刻まれた従属の刻印。
主人の命令には逆らえない。
「……分かりました」
「では、ゆっくり休んでください」
セレナは微笑むと部屋を出た。
カチャ。
扉が閉まる。
一人になったニーナは、しばらく扉を見つめていた。
「……リセ」
昨日まで隣にいた少女の名前を、小さく呟いた。
綺麗な部屋。
柔らかそうなベッド。
奴隷商の檻より、ずっといい場所のはずなのに。
なぜか――。
ここへ来てからずっと、胸の奥がざわついていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……昨日の副作用はなんだった?」
屋敷の地下。
先ほどニーナがいた部屋より、さらに奥。
そこには薬品の入った瓶や見たこともない器具が、所狭しと並べられていた。
机の上には書きかけの紙が何枚も広げられている。
ガルドはその一枚を手に取った。
「投与量でしょうか」
「違う」
即答だった。
「量は間違っていない」
「では、薬同士の組み合わせが――」
「それも何度も確認した」
ガルドは苛立ったように紙を机へ置いた。
「途中までは成功していた」
「はい」
「傷は塞がった。身体も以前より強くなった。あそこまでは想定通りだった」
セレナは黙っている。
「それなのに、なぜ最後に拒絶した?」
ガルドは机に並んだ薬瓶を睨みつける。
昨日。
確かに成功したと思った。
だが、その直後からリセは激しく苦しみ始めた。
幻覚。
錯乱。
自傷。
そして――。
「……やはり、人間の身体に魔物の素材を定着させること自体に無理があるのでは?」
「ならばなぜ途中までは成功した」
「それは……」
「成功したんだ」
ガルドはセレナを見る。
「俺はこの目で見た」
「……」
「なら、何かが足りないだけだ」
机の端には、使い切った小瓶が一本置かれていた。
ガルドはそれを手に取る。
何度失敗した。
何度作り直した。
あと少し。
本当に、あと少しなのだ。
杖を握る手に力が入った。
視線が、自分の動かない左脚へ落ちる。
「もうすぐだ……」
昔のように。
もう一度。
自分の脚で大地を踏みしめる。
あの斧を握る。
戦う。
まだ自分は終わっていない。
それを証明する。
「もうすぐで完成する」
ガルドは空になった小瓶を握り締めた。
「次こそ……」
その目には、かつて町を救った英雄の面影はなかった。
「次こそは……」




