第7話 囮という役割
三度目の依頼から、様子が変わった。
「レイジ、今日のお前は殿だ」
北の渓谷、グレイヴボアの群れ討伐。難度C上位。ガルドの声は、いつもどおり爽やかだった。
「群れを引きつけて、谷の口まで釣ってこい。俺たちが待ち伏せる」
「了解です」
「危険な役だ…だが、これができりゃお前は一皮むける。俺も昔、同じことをやらされたもんだ」
──嘘だ。
資料室の記録では、六年前まで「紅の盾」の殿はガルド自身が務めている。臨時メンバーに殿を回し始めたのは、六年前の、ある依頼を境にしてからだ。その依頼で何があったかは、記録の空白になっている。
「──ガルドさん」
「ん?」
「その役、承ります。書面をお願いします」
ガルドは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、笑顔の底に別の何かを覗かせて──すぐに、いつもの兄貴分の顔で羊皮紙を取り出した。
三枚目、回収。
◇
囮というのは、逃げる技術だ。
戦う技術じゃない。追われながら道を選び、速度を管理し、追手の視界と自分の体力を天秤にかけ続ける、極めて理詰めの作業。要するに──観察と計算の仕事。
つまり、俺の本業に、かなり近い。
「【自己強化(小)】」
前日の下見で、俺は渓谷の地形を頭に叩き込んでいた。三か所の急な登り、二か所の崩落跡、そして獣が本能的に嫌がる硫黄の湧く水場。グレイヴボアは猪型の魔物で、直進の速度は俺の倍。真っ直ぐ逃げたら三十歩で死ぬ。
だから真っ直ぐは逃げない。
登りに差しかかるたび、俺は速度を落として距離を詰めさせる。奴らが加速したところで斜面を折れて、崩落跡の細い岩棚へ。質量のある猪は急な方向転換ができず、先頭の一頭が崖下へ滑落した。
追手、七から六。
「──っ、はぁ、はぁ……」
呼吸が焼ける。バフを乗せても、俺の身体は所詮この程度だ。速度で勝てるのは、あと三百歩がせいぜい。
だが、それでいい。谷の口まではあと二百歩。
硫黄の水場を左に見ながら風上を選んで走る。臭気を嫌がった群れが半歩ぶん躊躇して、その半歩が、俺の呼吸をひとつぶん助けた。
半歩。──いつもの、俺の半歩だ。
視界の先、谷の口。岩陰にガルドの大盾が見える。
「ガルドさん!! 六頭、来ます!! 先頭は右に寄ってます!!」
叫んで、俺は最後の力で右の岩場へ跳んだ。
直後、大盾が正面の一頭を受け止め、フィオナの氷が群れの中核を貫き、ニックの投げナイフが逃げ道を潰す。セシリアの祝福が前衛に飛ぶ。
──手際がいい。憎らしいほどに。俺が命懸けで釣ってきた獲物を、この一党は驚くほど鮮やかに、安全に、片付けていく。
そう、これが「囮契約」の完成形だ。
危険は俺が引き受け、成果は全員で分け、報酬は役割に応じて配分される。綺麗な仕組みだ。誰も嘘をついていない。誰も殺していない。ただ、死ぬときは俺が死ぬ、というだけで。
◇
討伐後、岩に腰を下ろして呼吸を整えていると、影が差した。
セシリアだった。
「お疲れさまでした。──失礼しますね」
答える前に、彼女の手が俺の額に触れた。温かい光が滲む。回復魔法。ささくれた喉と、酷使した脚の痛みが、すうっと引いていく。
「……ありがとうございます」
「いいえ。それが私の役目ですから」
セシリアは微笑んだまま、少しだけ黙って、それから言った。
「レイジさん。今日の逃げ方、とても……上手でしたね」
「地形を覚えていただけです」
「ええ。覚えていたんですよね。昨日、一人で下見に行かれたでしょう」
────心臓が、小さく跳ねた。
「……どうしてそれを」
「昨日の夕方、南門の外で見かけましたから。あなた、渓谷の方角から戻ってこられた。しかも三時間も」
セシリアは俺の顔を覗き込んで、まるで内緒話をするみたいに声を落とした。
「殿を命じられたのは今朝です。まだ何も知らされていないうちから、あなたは下見に行った。……ということは、あなたは最初から、自分が危ない役をやらされると分かっていた。そうでしょう?」
嘘の匂いを、この人は嗅ぎ取る。
これが、おっとりの皮を被った観察者。俺の目の前に座って、微笑みながら、俺の一番深いところに手を伸ばしてくる。
俺は答えを選んだ。ここは、嘘より真実の一部を渡す方が安い。
「……ええ。分かっていました」
「まあ」
「調べれば分かることでしたので」
セシリアの微笑みが、ゆっくりと消えた。
代わりに残ったのは、ひどく静かな、悲しそうな顔だった。
「──だったら、なぜ」
彼女は膝の上で、両手をきつく握りしめている。
「なぜ、それでも来たんですか。分かっていて、断らずに」
「価値があると判断したからです」
「価値?」
「Bランクの実戦は、Fランクには買えません。ここでしか手に入らないものがある。──俺は、対価を払ってそれを買っています。騙されたつもりはありません」
しばらく、風の音だけが谷に響いていた。
やがてセシリアは、ゆっくりと立ち上がった。
「……あなたは、賢い方ですね」
「よく言われます」
「いいえ。褒めていません」
冷たさのない、それでいて刃のような声だった。
「賢い方ほど、自分は納得ずくだと思い込んで、危ない場所に留まってしまう。──『分かっていて選んだのだから、これは搾取ではない』と。私は、そう自分に言い聞かせて、六年います」
俺は、彼女の顔を見上げた。
微笑みは、もう戻っていた。いつもの、柔らかくて、少し困ったような、あの笑顔に。
「……そろそろ戻りましょう。日が暮れます」
彼女は背を向けて歩き出した。数歩進んで、立ち止まって、振り返らずに言った。
「レイジさん。もしいつか、あなたが本気で逃げると決めたら──その時は、私に言ってください。それだけは、手伝えます」
◇
宿に戻り、俺はノートを開いた。だが、ペンは動かなかった。
『セシリア:味方にできる可能性・高』と書けばいい。実際そうだ。今日、彼女ははっきり内側から手を差し伸べてきた。回収すべき手札が一枚、向こうから転がり込んできたと、そう書けばいい。
──賢い方ほど、自分は納得ずくだと思い込んで、危ない場所に留まってしまう。
俺は天井を見上げた。
「……上等だ」
俺は納得ずくで、ここにいる。損得は計算してある。引き際も引いてある。あの人が六年かけて言い聞かせてきた言葉と、俺の計算は、違う。
違う────はずだ。
結局その夜、ノートに書けたのは一行だけだった。
『セシリアの祝福を受けた。回復のみ、強化の祝福は未確認。次こそ検証する』
……いや、もう一行、書いた。書いてから、消して、また書いた。
『あの人を、あそこから連れ出す手はあるか?』
盤面に、俺の損得と関係のない駒が、一つ増えた。




