第57話 焦りの刃(前編)
——ジーク視点
負けた。
その事実がジークの頭から離れなかった。
あの東の戦線。連邦の長、レイジ。剣も魔も使えぬFランクだと、そう聞いていた。だから侮った。後衛から叩けば、すぐ終わると。
なのに気づいたら、地に伏していた。
何をされたのか、わからなかった。目の前が白く弾けて、次に目を覚ました時には、味方に担がれ、撤退の最中だった。総合値三百。ヴィントと並ぶと言われた剣技の天才が、何もできずに沈められた。
「……ありえない」
ジークは拳を握りしめた。屈辱だった。
◇
王都に戻ってから、事態はさらに悪くなった。
「ジーク。上層部が、お前の処罰を検討しているらしいぞ」
同輩の高弟が、こっそり耳打ちしてきた。
「なんだと?」
「東の戦線の敗北の責任だ。将軍が四人もいて退いた。陛下ではない。焦った文官どもが、誰かの首を差し出したがっている。真っ先にやられたお前が、槍玉に挙がってるんだ」
ジークの背筋に、冷たいものが走った。
処罰。
剣に生きてきた自分が、一度の敗北で。あのレイジという男のせいで、すべてを失うのか。
「……冗談じゃない」
功を挙げねばならない。挽回できる手柄を。それも、早く。
◇
だが、連邦の本拠地、精霊の地は攻められなかった。
霧の回廊。霧の防壁。あの地は大軍を通さない。正面から攻める術がない。
では、どうする。
ジークは地図を睨んだ。そして、一つの案に行き当たった。
ハルベル。一月前に落とした、あの街。そこには連邦から奪った捕虜がいる。魔族の捕虜が。
「……そうだ」
ジークの口元が歪んだ。
「連邦は、魔族を仲間だと言っている。ならば、その魔族の捕虜を処刑すると触れ回れば、連中は必ず助けに来る。おびき寄せて、平野で叩く」
◇
ジークは、その策を高弟たちに持ちかけた。
「捕虜を、処刑する? 魔族の?」
ヴィントの眉が険しくなった。
「連邦をおびき寄せるために、か。──ジーク。それは騎士のやることじゃない」
「なぜです」
ジークは食い下がった。
「相手は魔族ですよ。家畜だと陛下も仰っている。それを処分して、連邦を釣り出す。何がいけないんです」
「戦えぬ者を殺すからだ」
ヴィントの声は低かった。
「捕虜は、もう戦う力を持たない。それを餌にして殺すなど、騎士の恥だ」
◇
「綺麗事です」
ジークは吐き捨てた。
「ヴィントさん。あなたは一度、ソラに退かされた。俺もレイジに沈められた。このままじゃ、俺たちは連邦に勝てない。勝つためには、使えるものは何でも使う。違いますか」
ヴィントは答えなかった。ただ苦い顔で、ジークを見ていた。
他の高弟たちも、微妙な顔をしていた。
「まあ……魔族だけなら」
一人がぽつりと言った。
「陛下も家畜と仰っているしな。人族の捕虜じゃない。それで連邦を釣れるなら」
その一言が、空気を決めた。
ヴィントはなおも渋い顔をしていた。だが、ジークの策は進み始めた。
◇
ハルベルに、触れが回された。
「連邦から奪った魔族の捕虜を、三日後、公開処刑する」
その報はジークの狙い通り、連邦へと届いた。
そして連邦は動いた。
斥候の報告が入る。ミストリア軍、約三千。ハルベルへ向けて進軍中。
釣れた。ジークは笑った。
「かかったぞ。連邦の甘い連中め。魔族一匹のために、のこのこと」
王国軍は七千。合流した将軍四人も揃っている。数でも質でも、こちらが上。今度こそ手柄を立てる。あのレイジに負けた汚名を、そそぐ。
だがジークは、知らなかった。
その連邦軍の先頭に、一人の少年がいることを。
◇
——レイジ視点
「捕虜を処刑する、だと」
俺は斥候の報告を聞いて、眉をひそめた。
「魔族の捕虜を餌にして、俺たちを釣り出すつもりか。見え透いた罠だな」
「どうする、レイジ」
ニックが聞いた。
「行くしかない。罠だとわかっていても、あそこには連邦の仲間がいる。魔族の捕虜だ。見殺しにはできない」
俺は地図を広げた。ハルベルの平野。七千の王国軍。対するこちらは三千。
「罠に乗る。だが、ただ乗るんじゃない。──こっちの盤面で乗る」
その時。
「兄貴」
ソラが前に出た。天空の聖剣を担いで。
◇
「俺が、先に出る」
ソラはまっすぐ俺を見て言った。
「捕虜のところへ、一直線に行く。処刑を止める。魔族のみんなを守る。今の俺なら、できる」
俺はソラを見た。
天空の聖剣。守護結界。あの氷風撃を完全に防いだ、守る力。ソラなら、できる。捕虜を守り抜ける。前回、守れなかったソラは、もういない。
「ああ」
俺は頷いた。当たり前のように。
「行ってこい、ソラ。捕虜はお前が守れ。その隙に、ヴァイスたちが回収する。俺とフィオナは、本隊を抑える」
「任せろ!」
ソラが笑った。頼もしい笑顔だった。
◇
そのやり取りを見ていたフィオナが。
つい、と俺の腕をつねった。
「いたっ!?」
俺は思わず声を上げた。
「えっと……フィオナ、さん……?」
「知りません」
フィオナは、ぷい、と顔を背けた。頬を少し膨らませて。
「……ソラばかり頼りにして。私だって、いるのに」
「あ、いや、フィオナは俺と一緒に、本隊を──」
「ふん」
どうやら、ソラを当たり前のように送り出したのが、気に入らなかったらしい。俺は慌てて言った。
「フィオナ。お前の魔法が、この戦の要だ。お前がいなきゃ、七千は抑えられない。頼りにしてる。一番」
「……最初から、そう言えばいいんです」
フィオナの機嫌が、少しだけ直った。
◇
——ジーク
処刑の朝が来た。
ハルベルの平野に、王国軍七千が布陣した。その前方に、粗末な檻。中には魔族の捕虜が数十人。角のある者たちが、怯えた目でこちらを見ている。
「さあ、始めるぞ」
ジークは剣を抜いた。
連邦軍は平野の向こうに布陣している。三千。こちらの半分にも満たない。あの中に、レイジがいるはずだ。
「見ているか、連邦の連中。お前たちの大事な魔族が、どうなるか。まずは一匹」
ジークが檻に近づいた。捕虜の魔族が後ずさる。
剣を振り上げた。処刑を始める。連邦を挑発するために。奴らが慌てて突っ込んでくるように。
その瞬間。
◇
平野の向こうから、一つの影が飛び出した。
速い。連邦の陣を離れ、まっすぐこちらへ。七千の王国軍の真ん中を、突っ切って。
「なっ……!?」
ジークが振り返った。
白い光を帯びた剣を担いだ、少年。その顔には、見覚えがありすぎた。稽古場で、何度も打ち合った、末の弟弟子。
「ソラ坊……!?」
なぜ、あいつがここに。ジークが、そう思った時にはもう、少年は間合いに飛び込んでいた。剣を掲げて。
「精霊解放──守護結界っ!」
刹那。
捕虜の檻を囲むように、白い光の壁が生まれた。半球状の、清らかな結界。ジークの剣が、その結界に阻まれる。
がぃん!
剣が弾かれた。処刑の刃が、届かない。
◇
「なん……だと!?」
ジークは目を見開いた。
檻の魔族たちを、光の壁が守っている。何度剣を叩きつけても、びくともしない。
「この光は……! ソラ坊、貴様、こんな力を!」
ソラが結界の中心に降り立った。捕虜たちを背に庇って。剣を構えて。
「間に合った」
ソラがぽつりと言った。息を切らしながら。よく見れば、その身体は傷だらけだった。七千の軍勢を突っ切ってくる間に、無数の刃を浴びたのだろう。血を流している。
それでも、ソラは笑っていた。
「もう大丈夫だ。──俺が守るから」
◇
ジークの背後で、ヴィントたち将軍が、その光景を見ていた。
七千の軍勢を、たった一人で突っ切ってきた少年。傷を負いながら、一直線に。ただ、魔族の捕虜を守るために。
ヴィントが、ゆっくりと歩み出た。ソラの持つ剣を、じっと見て。
「ソラ坊。その剣……」
以前の木剣ではなかった。白く輝く、立派な剣。ヴィントの目が、鋭くなった。
「とうとう、木剣を捨てたか。──殺す覚悟を、決めたのか。ソラ坊」
騎士としての問いだった。人を斬らぬ木剣を捨て、刃を持つ。それは覚悟の証。剣を握る者が、命を奪う覚悟をした証。
だが。
「違うよ!」
ソラは、あっけらかんと笑った。
◇
「これは、守るための剣だ!」
ソラは、天空の聖剣を掲げて見せた。
「モーリスさんに誓ったんだ。もう誰も失わないって。──この剣はな、誰も殺さない。刃だって、ないんだぜ」
刃のない、白い剣。それを、ソラは得意げに、ヴィントに見せつけた。
「言っとくけどな、ヴィント。前の木剣が、これになったんだ! すげえだろ! 進化したんだぜ!」
ヴィントは、しばらく、その剣を見ていた。
それから、ふっと、笑った。
「……やはり、規格外だな。お前は」
弟の成長を認める、兄の笑みだった。かつて稽古で、何度も地面に這わせた甘えん坊が。今や、木剣を聖剣に変えて、仲間を守って立っている。ヴィントの目に、確かな、感嘆があった。
◇
その傍らで、ジークだけが、取り残されていた。
二人の間に流れる、穏やかな空気に。ついていけずに。
「な、何を……何を笑ってるんですか、ヴィントさん! 敵ですよ、そいつは! 処刑を、妨害されたんですよ!」
「ジーク」
ヴィントが、静かに言った。もう、笑ってはいなかった。
「見ただろう。あの少年を。七千の中を、単身で突っ切ってきた。ただ、戦えぬ捕虜を、守るために。──あれが、騎士だ。お前が、餌にしようとした、その捕虜を、命がけで守る。あれこそが、騎士の姿だ」
ジークが、たじろいだ。
「そ、そんな……! 俺は、ただ、手柄を──」
「わかっている」
ヴィントの声は、どこか、哀れむようだった。
「お前は、焦っていた。処罰を恐れて。──だが、そのために、選んではならぬ道を、選んだ」
◇
平野に、緊張が走った。
七千と三千。処刑を止めたソラ。焦るジーク。そして、何かを決意したヴィント。
ソラは、結界の中で、捕虜を守りながら、ヴィントを見た。
「ヴィント。俺は、この人たちを、絶対に渡さない。ハルベルも、取り返す。──モーリスさんが、命をかけて守った街だ」
「モーリス……ハルベルの、老領主か」
ヴィントの顔が、わずかに、曇った。あの陥落の日。最後まで、連邦の若者を逃がすために、突っ込んできた、老いた領主。その覚悟を、ヴィントも、見ていた。
「……そうか。あの男の名を、背負ってきたか」
ヴィントは、剣を、握り直した。
戦の火蓋が、切られようとしていた。だが、その刃は
──ジークの思惑とは、別の方向へ、向き始めていた。




