第52話 王都の牙
——ヴィント
王都レーヴェンは、連邦の街とは何もかもが違った。
高くそびえる城壁。磨き上げられた石畳。整然と並ぶ兵舎。すべてが力を誇示するために造られている。ヴィントはその王城の廊下を、一人歩いていた。
ハルベルから撤退して、まだ数日。血の匂いも抜けきっていない。退いたその足で、まっすぐ王都へ戻ってきた。一刻も早く報告せねばならなかった。ハルベルを落とせなかった。それだけではない。あの戦場で見たものを、王と師に伝えねばならない。
謁見の間の前で足を止める。扉の向こうに王がいる。そして師がいる。
扉が開いた。
「入れ」
低い声が響いた。
◇
謁見の間は広かった。
玉座にレーヴェン王ゲオルグが座っていた。歳は五十を過ぎている。肥えてはいないが、その目に酷薄な光があった。魔族を家畜と呼び、討伐で領土を広げ、そうやって国を富ませてきた王。その手を一度も汚れたと思ったことのない男だ。
玉座の傍らに、一人の男が立っていた。
グレイス総騎士長。歳は六十近い。だが背筋は鉄のようにまっすぐだった。銀の髪。鍛え抜かれた身体。この国の武の頂点に立ち、八人の将軍を束ねる男。ヴィントたち高弟の師でもある。
「ヴィントよ」
ゲオルグ王が口を開いた。
「ハルベルの討伐、失敗したそうだな」
「……申し訳、ございません」
ヴィントは膝をついた。
◇
「言い訳を聞こう」
ゲオルグ王の声は冷たかった。
「千の兵を与えた。ギルドの精鋭も付けた。それで、たかが一つの領を落とせなかった。なぜだ」
「勇者が、いました」
謁見の間がざわめいた。
「勇者ソラ。魔族側についた、あの勇者にございます。奴が一騎で、千の軍勢の中央を突破しました。鎧ごと兵を吹き飛ばして。あの膂力は常軌を逸しております」
「勇者だと」
ゲオルグ王が眉をひそめた。
「あれは我が国が召喚した、我が国の駒だぞ。それが、なぜ魔族の側に」
「わかりませぬ。ですが、勇者は変わっておりました」
◇
ヴィントはあの戦場を思い出した。
「召喚された頃の勇者は、剣を振り回すだけの、力任せの若者でした。ですが、あの戦場の勇者は違った。考えて剣を振っておりました。私の動きを読み、受け、いなした。──正直に申し上げます。私一人では、抑えきれませなんだ」
「貴様が抑えきれなかっただと」
グレイス総騎士長が初めて口を開いた。低く重い声だった。
「はい、師よ。お恥ずかしい限りにございます。ですが、それだけの相手でした」
グレイスの目が細くなった。自らが鍛えた八人の高弟、その筆頭たるヴィントが抑えきれなかった。その意味を、この老将は正確に理解していた。
「勇者は、誰かに鍛え直されたのか」
「……そのようにございます」
◇
「連邦を率いているのは、魔王ではありませんでした」
その言葉に、ゲオルグ王が身を乗り出した。
「なに? 魔王ではない?」
「はい。勇者は申しました。連邦の長は、レイジという男だと。魔王ではない、と」
「レイジ……?」
ゲオルグ王がその名を口の中で転がした。
「聞かん名だ。何者だ、それは」
「わかりませぬ」
ヴィントは正直に答えた。
「戦場で、後方に立っておりました。剣を振るう様子もない。魔法を使う様子もない。ただそこに立って、戦場を見ていた。──ですが、あの勇者を変えた男が、ただ者とは思えませぬ」
◇
謁見の間の隅から、一人の文官が進み出た。
痩せた、狡猾そうな顔の男だった。地味な衣を纏っている。
「恐れながら、陛下」
男が揉み手をした。
「そのレイジという男。私、心当たりがございます。ハルベルの旧支部長ジグムントから、討伐前に報告が上がっておりました。連邦の長は、レイジというFランクの冒険者だと」
「Fランク?」
謁見の間の家臣たちから、失笑が漏れた。
「Fランクの冒険者が、連邦の長とは」
「魔王の、飾りでございましょう」
家臣たちが口々に笑った。ゲオルグ王も鼻を鳴らした。
「くだらん。剣も魔も使えぬ男が、一国を率いるなど、あり得ぬわ」
◇
「──お待ちを」
低い声が、家臣たちの笑いを断ち切った。
グレイス総騎士長だった。王には向けず、ただ、笑った家臣たちを静かに見据えていた。
「その笑いは、油断にございます。陛下の御前で、恥じ入るべきかと」
家臣たちの笑いが、ぴたりと止んだ。グレイスはゲオルグ王に向き直り、頭を垂れた。
「陛下。ヴィントは、我が高弟の筆頭。その男が抑えきれぬ勇者を、変えた者がおります。侮ってよい相手とは、思えませぬ」
ゲオルグ王はしばらく黙し、それから頷いた。
「……よかろう。グレイス、お前の見立てを聞こう」
◇
「ヴィント。お前はそのレイジという男を、どう見た」
グレイスが問うた。
ヴィントはしばらく考えた。あの戦場。後方に立っていた、目立たない男。だが勇者を変え、魔王を従え、あのジグムントを、一言も剣を交えずに自滅させた。戦場全体が、まるであの男の掌の上で動かされているようだった。
「飾りではありませぬ」
ヴィントは答えた。
「あの戦場を、本当に動かしていたのは、あの男です。人の心を、盤上の駒のように動かす。ジグムントという男を、挑発一つで自滅させました。──そういう類の、恐ろしさにございます」
グレイスが頷いた。
「同感だ」
◇
「陛下。此度の連邦、侮ってはなりませぬ」
グレイス総騎士長の声は重かった。
「勇者を擁し、魔王を擁し、そして正体の知れぬ知恵者が束ねている。放置すれば、領は次々と離反いたします。今この時も、連邦は版図を広げておりましょう。──我らの対応が遅れれば遅れるほど、奴らは肥え太ります」
ゲオルグ王の顔が険しくなった。
「では、どうせよと言う」
「正攻法にございます」
グレイスが地図を広げた。レーヴェン王国と、その周辺。連邦に奪われた領が、赤く記されている。
「小細工は要りませぬ。連邦の強みは、勇者と、あの知恵者。この二人が、個の武と知恵で、少数の戦をひっくり返す。──ならば、こちらは、その逆を突きます。数と、組織と、兵力の差で、正面から押し潰す」
◇
「戦線を、二つ、同時に開きます」
グレイスの目が鋭く光った。
「連邦を、二方面から攻める。連邦は、勇者と知恵者を、引き剥がさざるを得ませぬ。二人が一緒にいれば手強いが、別々の戦線に散れば、それぞれは、ただの一戦線に過ぎませぬ」
彼は地図の二点を指した。
「各戦線に、将軍を四人ずつ。加えて、正規軍の本隊を厚く配します。勇者がどちらに来ようと、知恵者がどちらに現れようと、構いませぬ。四人の将軍と、大軍で、受けて立つ。──個の武は、数で囲む。知恵は、兵力の差で、押し切る」
ゲオルグ王が、ゆっくりと頷いた。
「小手先ではなく、力で捻り潰すか」
「御意。連邦の兵は、勇者と魔王を除けば、我が将軍の敵ではありませぬ。正面からぶつかれば、質が違う。数も違う。──必ず、削れます」
◇
「そして、本道は」
グレイスが、地図の一点を指した。連邦の本拠地の、すぐ隣。
「ハルベルです。連邦が最初に奪った領。奴らの原点であり、本拠地の喉元。ここを取り返せば、連邦の心臓に、刃を突きつけられる。──こちらを主攻とし、主力を集中させます。もう一方の戦線は、連邦の戦力を引きつけ、散らすための一手」
「主力は、ハルベルに集めるのだな」
「御意」
ヴィントは、その采配を聞きながら、一歩、前に出た。
「そのハルベルの戦線、この私に、お任せいただけませぬか」
◇
「ほう」
グレイスが弟子を見た。
「志願か、ヴィント」
「はい。私は、あの地で一度、退きました。あの決着を、つけたいのです。それに──ハルベルは本道。主攻を担うなら、地の利も、敵の様子も知る私が、適任かと」
グレイスは、しばらく弟子を見て、頷いた。
「よかろう。ハルベルは、お前に預ける。ディートリヒ、ラインハルト、ゴドウィンを付ける。四人だ。もう一方の戦線には、残る四人を回す。──兵力差で、ハルベルを落とせ。それが、第一だ」
「はっ」
「ただし」
グレイスの目が、鋭くなった。
「もし、あの戦場に勇者が現れたら。その時は、抑え込め。一人で無理なら、二人がかりでいい。個の武で挑むな。軍で、囲め」
◇
謁見が終わり、退出しようとしたヴィントを、グレイスが呼び止めた。
二人きりになった。師と弟子。王の前の、張り詰めた空気が、少し緩んだ。
「勇者は──ソラは、そんなに変わったか」
グレイスの声から、将の厳しさが消えていた。そこにあったのは、一人の弟子を案じる、老いた師の顔だった。ソラもまた、この男の、末の弟子だった。
「……変わりました」
ヴィントは静かに答えた。
「見違えるほどに。剣に、芯が通っておりました。あの子は、守るために剣を握っていた。師よ。あの子は、いい男になりました」
グレイスの目が、わずかに和らいだ。
「そうか」
だが、すぐにその顔は、将のものに戻った。
「だが、敵だ。次に会えば、斬り合うことになる」
「……はい」
ヴィントは、その言葉の重さを噛みしめた。
◇
その夜。八人の高弟が、王都の一室に集まった。
グレイスの直弟子たち。すべてSランク上位。そして、それぞれが軍を率いる将軍。ヴィントを筆頭に、ディートリヒ、ラインハルト、ゴドウィン、アルフレート、コンラート、オズワルド、ジーク。
「聞いたぞ、ヴィント」
大柄なディートリヒが笑った。
「ソラ坊に手こずったんだってな。あの甘ちゃんに。信じられん」
王の前を離れた今、高弟たちの口から、親しい呼び名が出た。彼らにとってソラは、共に汗を流した、末の弟弟子だった。
「会えばわかる」
ヴィントは静かに答えた。
「ソラ坊は変わった。三年前の、あの子供じゃない。特に、力比べを挑むな。あいつの膂力は、俺たちの上だ」
高弟たちの顔から、笑みが消えた。ヴィントがここまで言う。それがどれほどのことか、彼らは知っていた。
◇
「作戦は聞いたな」
ヴィントは地図を広げた。
「俺と、ディートリヒ、ラインハルト、ゴドウィン。この四人でハルベルを叩く。本道だ。もう一方の戦線が、連邦の戦力を引きつけている間に、ここに主力を集中させる」
「ソラ坊は、来るか」
ゴドウィンが聞いた。無口な、槍の名手だ。
「来るかもしれん。来ないかもしれん。──それは、連邦が決めることだ」
ヴィントは静かに答えた。
「だが、どちらでもいい。ハルベルは、派手に攻める。まず、兵力差で落としにかかる。連邦の原点が燃えれば、あいつは放っておけないだろう。もし来れば──俺が抑える。来なければ、そのままハルベルを落とすだけだ」
彼は地図を見据えた。
「どちらに転んでも、こちらの得になる。それが、この一手だ」
◇
「三年、稽古をつけて、わかっている」
ヴィントは静かに続けた。
「あいつは、目の前で誰かが傷つくのを、見過ごせない。損得でも、理屈でもない。ただ、放っておけないんだ。ハルベルの危機を知れば、来る公算は高い。──だが、確証はない。賭けだ」
「来た時のために、罠を張っておくわけか」
ラインハルトが言った。細身の、剣の達人だ。
「ああ。来れば、あいつの優しさが、命取りになる。来なければ、それはそれでいい。ハルベルは、どのみち落ちる」
その声に、わずかな苦さが滲んだ。弟の優しさを、弟を倒すために使う。もし来れば。それが騎士の務めだった。忠義という名の、鎖だった。
◇
「来たソラを、俺ともう一人で抑え込む」
ヴィントは地図に駒を置いた。
「二人がかりだ。個の武では、あいつに届かん。だが、二人で連携すれば、抑えられる。その間に、残る二人が、ハルベルの守りを崩す。連邦の兵は、ソラ以外、まだ俺たちには及ばん。──数と、連携と、作戦。それを思い知らせてやる」
「勇者一人に、四人がかり。過剰か?」
ディートリヒが笑った。
「過剰でいい」
ヴィントは笑わなかった。
「あいつを甘く見た者から死ぬ。俺は一度、退いている。次は退かん」
高弟たちが頷いた。
◇
会議が終わり、高弟たちが散っていく。
ヴィントは一人、窓辺に残った。月を見上げて。
明日、王都を発つ。ハルベルへ。そこで、あるいはソラ坊と、また剣を交えるかもしれん。今度は稽古ではない。殺し合いだ。しかも、あいつの優しさを、罠に使って。
「……すまんな、ソラ坊」
ヴィントは呟いた。もし来るなら、と胸の内で付け足して。
弟の成長を喜ぶ気持ちは、本物だった。その弟に、牙を剥くかもしれない。それも、正面からではなく、罠にかけて。
だが、それでも。ヴィントの胸には、もう一つの影が引っかかっていた。
レイジ。あの得体の知れない男。──奴は、もう一方の戦線に現れるのか。そこには、四人の将軍がいる。師は、力で押し潰せると言った。理屈は、その通りだ。
(だが、あの男は、本当に、それで詰むのか)
月が、雲に隠れた。
王国の牙は、研がれた。二つの戦線へ。そして最も鋭い牙が、連邦の原点──ハルベルへと、向けられた。




