第51話 広がる灯
ハルベルとローゼン。二つの領が連邦についてから、季節が変わった。
その報せは、堰を切ったように広がった。「ハルベルが王国の討伐を跳ね返した」「ローゼンの若い領主が、魔族の娘と手を取って連邦についた」──その二つの事実が、王国に不満を抱えていた領を、次々と動かした。
最初は、ハルベルの隣の小さな領だった。領主が、こっそり霧の回廊を抜けて、ケイルの手引きで連邦を訪ねてきた。街を見て、記録を見て、そして頷いた。次は、その隣。さらに、その隣。
半年で、五つの領が、連邦に加わった。
◇
俺は執務室で、広げた地図を見ていた。
ミストリア連邦の版図が、じわじわと広がっている。精霊の地の街を中心に、ハルベル、ローゼン、そして新しく加わった領。霧の回廊が、それらを繋ぐ。かつて王国の一部だった土地が、少しずつ、連邦の色に塗り替わっていく。
「大きくなったな」
隣でガルドが、地図を覗き込んだ。総隊長として、各領の自衛団の編成に走り回っている。腹の古傷を抱えながらも、その顔は生き生きしていた。
「ああ。ハルベルから始まって、ここまで来た」
「あの、支部長の膿を出してた頃が、嘘みてえだ」
ガルドが笑った。
「あの時は、一つのクランだった。それが今じゃ、いくつもの領を抱える連邦だ。──お前の盤面も、ずいぶんデカくなったもんだ」
◇
連邦の経済も、回り始めていた。
ケイルの交易網が、精霊の地の特産を、方々に流していた。精霊銀、薬草、鉱石。かつて魔物に守られて誰も採れなかった資源が、今は連邦の富になっている。
「毎度! 今月も、上々やで」
ケイルが、帳簿を抱えて執務室に来た。狐目を細めて、上機嫌だ。
「精霊銀の細工が、よそで飛ぶように売れとる。魔族の職人の腕がええからな。人族の商人が、こぞって買い付けに来とるわ」
「王国は、締め出そうとしてないのか」
「しとるで。でも、無駄や」
ケイルが、にやりとした。
「連邦の品は、質がええ。よそにないもんばっかりや。王国が『買うな』と言うても、商人は、こっそり買いに来る。銭の流れは、王のお触れなんかより、正直やからな」
◇
街も、変わっていた。
五千だった民は、もう八千を超えていた。新しく加わった領から、人が流れてくる。人族も、魔族も。かつて憎しみ合っていた者たちが、同じ市場で買い物をし、同じ酒場で杯を交わす。
広場を歩くと、子供たちが駆け回っていた。角のある子と、ない子が、入り混じって。もう、誰も、それを珍しいとは思わない。
「兄貴!」
ソラが、木剣を担いで駆けてきた。後ろに、ヴァイスと、見慣れない若い連中を連れている。
「新しい領の若いのが、自衛団に入りたいってさ! 人族も魔族もいるぜ!」
「鍛えてやれ」
「おう! ヴァイスと一緒にな!」
ヴァイスが、ふん、と鼻を鳴らした。だが満更でもない顔だ。かつてソラに突っかかっていた魔族の若者は、今や、後輩を率いる立場になっていた。
◇
ローゼンのクレイとリルも、連邦に馴染んでいた。
クレイは領主として、ローゼン領を治めながら、連邦の合議にも顔を出す。リルは、薬草園の仕事を続けている。二人は、もう隠れて会う必要がない。堂々と、街を並んで歩く。
「レイジさん」
リルが、薬草の籠を抱えて、俺に頭を下げた。二年前、人族を恐れて目も合わせなかった少女が、今はまっすぐ俺を見る。
「クレイが、連邦の議会で、新しい提案をしたいって。魔族の隠れ里を、探して回りたいって言うんです」
「隠れ里を?」
「まだ、山奥に隠れて暮らしてる魔族が、いるはずだから。──私たちみたいに。その人たちに、もう隠れなくていいって、伝えたいって」
俺は頷いた。かつて復讐に囚われていた二人が、今は、同じ痛みを持つ者を救おうとしている。
「いい提案だ。議会にかけよう」
◇
その日の夕方、俺はハルベルを訪ねた。
連邦の要の一つ。そして、俺たちが最初に灯を点した街。盤上の灯のクランハウスは、今もそこにある。
モーリスが、城壁の上で、待っていた。
「よく来てくれた、連邦の長よ」
四十年、目を逸らしてきた老領主。今の彼は、背筋が伸びていた。憑き物が落ちたような、穏やかな顔をしている。
「街の様子は、どうです」
「見ての通りだ」
モーリスが、眼下の街を示した。ハルベルの通りにも、今は魔族の姿があった。人族と魔族が、当たり前に、隣り合って暮らしている。
「私が四十年、家畜と呼んでいた者たちが。今は、私の街の、大切な民だ。──おかしなものだな。あんなに、目を逸らしていたのに」
◇
俺とモーリスは、城壁の上を、並んで歩いた。
「なあ、レイジ殿」
モーリスが、ぽつりと言った。
「私は、長くないかもしれん。歳だ。この贖罪が、間に合ったのかも、わからん。私が殺させた魔族は、もう還らない」
「モーリス殿」
「だが」
彼は、街を見下ろして、微笑んだ。
「この街が、こうなったのを見られた。人族と魔族が、笑い合っているのを。──それだけで、私は、救われた気がする。あなたが来てくれなければ、私は共犯者のまま、何も知らずに死んでいた」
彼は、俺を見た。
「連邦について、本当に良かった。心から、そう思う」
俺は、その言葉に、静かに頷いた。──この時の俺は、まだ知らなかった。この言葉を、こんなにも早く、思い返すことになるとは。
◇
クランハウスにも、寄った。
盤上の灯の、原点。ハルベルの一角にある、古い建物。今は連邦の、ハルベル支部として使われている。バッセさんが記録を積み上げた資料室も、そのままだ。
「懐かしいな」
一緒に来たソラが、伸びをした。
「ここで、兄貴に、いろいろ教わったよなあ。考えろ、って。──あの頃の俺、ほんと、バカだったな」
「今も大概だ」
「ひでえ!」
ソラが笑った。俺も、少し笑った。
クランハウスの壁には、今も、盤上の灯の紋章が掲げられている。小さな灯が、いくつも集まった意匠。──ここから始まった。この小さな灯が、今は、連邦という大きな光になった。
◇
連邦への帰り道。
俺は、馬上で、考えていた。
すべてが、順調だった。領は増え、経済は回り、人族と魔族は融和していく。盤面は、俺の描いた通りに動いている。ハルベルから始まった灯が、こんなにも広がった。
だが。
俺の中に、小さな引っかかりがあった。
順調すぎる。──王国は、ハルベルの討伐に失敗して以来、大きな動きを見せていない。まるで、連邦が膨らむのを、黙って見ているかのように。
(……静かすぎる)
あの、ヴィントという騎士。あれは、相当な指揮官だった。そして、あの背後には、総騎士長がいて、同格の高弟が、まだ何人もいる。王国が、本気を出していないだけだとしたら。
「どうした、兄貴。難しい顔して」
隣で、ソラが聞いた。
「……いや」
俺は、首を振った。
「連邦が、大きくなった。それは、いいことだ。──だが、大きくなれば、それだけ、狙われる的も、大きくなる」
◇
霧の向こうに、ミストリアの灯りが見えてきた。
八千の民の、無数の灯。ハルベルの灯。ローゼンの灯。新しく加わった、いくつもの領の灯。──一つずつ、増えてきた光。
俺は、それを見ながら、思った。
これだけのものを、手に入れた。これだけの人が、連邦を頼りにしている。──ならば、これだけのものを、守り抜かなければならない。
盤面は、広がった。だが、広がった盤面は、守るのも、難しくなる。
(王国が動く前に、備えを固めておかないとな)
俺は、そう考えていた。──だが、その備えが、間に合うより先に。
王国は、動き出していた。俺の知らない、王都の奥で。静かに、そして、確実に。




