第50話 復讐と希望
ローゼン領の領主館は、月のない夜だった。
俺たちは館の裏手の塀を越えた。ソラ、ニック、リル、そして俺。ニックの斥候の目が、警備の穴を正確に見抜いていく。
「見張りは正門と東の塔だけだ。離れの周りは護衛が二人。──ハルベルに兵を割いたせいで、ガラガラだぜ」
ニックが小声で言った。
離れは母屋から少し離れた小さな建物だった。窓には鉄格子。ここにクレイが、八年間閉じ込められている。
「護衛の二人は俺がやる」
ソラが木剣を握った。
「殺すなよ」
「わかってるって」
ソラが闇に溶けた。
◇
どっ、どっ、と鈍い音が二つ。
護衛の二人が崩れ落ちた。ソラの当て身で気を失っただけだ。血は一滴も流れていない。
「よし。開けるぞ」
俺は離れの扉に手をかけた。鍵はニックがすでに開けている。
きぃ、と扉を押す。
薄暗い部屋だった。最低限の家具。壁際に剣が一振り。その中央に、一人の若者が立っていた。こちらを見据えて、手には抜き身の剣。
「……誰だ」
低く警戒した声だった。歳は二十歳くらい。痩せているが鍛えられた身体。目に鋭い光がある。八年、この部屋で牙を研いできた男の目だ。
クレイだった。
◇
「侵入者か。バルトスの差し金じゃないな。あいつなら、こんな夜中に忍び込ませる必要はない」
クレイは剣を構えたまま、俺たちを値踏みした。
「何者だ。名乗れ」
「連邦の者だ」
俺は静かに答えた。
「連邦……? ミストリア連邦か。魔族と人族の」
クレイの眉が動いた。
「知っているのか」
「軟禁されていても、噂くらいは入ってくる。ハルベルを守った国だろう。──だが、その連邦がなぜ、俺の部屋に」
「お前を迎えに来た」
クレイの目が細くなった。剣を握り直す。
「迎えに? 俺を? 何のために」
◇
「まず、ここを出る」
俺は部屋の外を示した。
「バルトスに気づかれる前に。お前をこの牢から出してやる」
クレイはしばらく俺たちを睨んでいた。
「……信用できると思うか。突然忍び込んできた連中を」
「思わないだろうな」
俺は頷いた。
「だが一つだけ聞け。お前をここに閉じ込めた男、バルトス。あの男の罪を暴きに来た。お前は、その証人だ」
クレイの剣先が揺れた。
「バルトスの、罪」
その言葉に、八年分の何かが滲んでいた。クレイは低く笑った。
「……面白い。あの男を追い詰めるだと? いいだろう、乗ってやる。どうせ俺は、あいつを殺すために、この八年を生きてきた」
◇
クレイが剣を鞘に納めた。だが、警戒は解いていない。
俺たちは離れを出て、母屋へ向かった。ニックが先導し、警備のいない廊下を選んで進む。
その間、リルはずっとフードを目深にかぶって、後ろにいた。クレイに、まだ気づかせない。俺がそう指示していた。八年ぶりの再会は、然るべき時に、然るべき場所で。今、廊下でばったり、ではあまりに惜しい。
「なあ、あんた」
歩きながら、クレイが俺に聞いた。
「連邦は、なんでバルトスを狙う。あの男が魔族狩りで儲けてるのは知ってる。だが、それが連邦に何の関係がある」
「関係、大ありだ」
俺は答えた。
「あの男が殺してきた魔族は、今、連邦の民になるはずだった者たちだ。──それに、お前も無関係じゃない」
「俺?」
「お前が八年、閉じ込められた理由。それも、あの男の罪の一つだ」
◇
母屋の奥、バルトスの私室の前まで来た。
「ここからは、俺とお前で入る」
俺はクレイに言った。
「あの男に直接、問い質せ。八年、聞きたかったことを、全部」
クレイの喉が、ごくりと鳴った。八年間、顔を見ることも許されなかった、憎しみの相手。その部屋の扉の前。
俺は扉を開けた。
私室の中、暖炉の前の椅子に、初老の男が座っていた。でっぷりと肥えて、豪奢な衣を纏っている。バルトスだ。
「なんだ、騒々しい。誰か──」
そこまで言って、バルトスは、入ってきた人物を見て固まった。
「……クレイ? なぜお前が、離れを出て」
◇
「久しぶりだな、父上」
クレイの声は、氷のように冷たかった。
「八年ぶりか。こうして顔を合わせるのは」
「誰が出した! 護衛は何をしている!」
バルトスが喚いた。だがクレイは構わず、一歩踏み出した。
「聞きたいことがある。ずっと聞きたかった」
その声が、怒りで震えていた。
「なぜ、リルを殺した。あの子と、あの子の両親を。あいつらが何をした。ただ山奥でひっそり暮らしてただけだ。俺と遊んでただけだ。なぜ殺した!」
バルトスはクレイを見て、それから鼻を鳴らした。
「なぜ、だと?」
その顔に、悪びれた様子は微塵もなかった。
◇
「家畜だからだ」
バルトスは吐き捨てた。
「魔族など、角の生えた獣だ。人の言葉を喋る家畜に過ぎん。それを狩って土地を得て、何が悪い。むしろ世のためだ」
クレイの拳が握りしめられた。
「お前はこの私の、高貴な血を受け継ぐ者だ。なのに家畜と戯れた。恥さらしめ。八年閉じ込めて、性根を叩き直してやったのだ。感謝せよ」
「感謝……?」
「そうとも。あのまま家畜になじんでいたら、お前は私の名を汚す出来損ないになっていた。私はお前を、正しい血に戻してやったのだ」
バルトスは椅子から立ち上がり、胸を張った。
「魔族狩りは、我が家の正当な生業だ。土地を得て、資源を得て、王国に忠義を尽くす。何一つ、恥じることはない」
◇
クレイの中で、何かが切れた。
「──ふざけるな!」
彼は剣を抜き、バルトスに斬りかかった。八年分の憎しみを乗せて。
「リルは! あいつらは! 家畜なんかじゃない! お前が、お前がぁ!」
刃がバルトスに届く——その寸前。
がぁん!
木剣がクレイの剣を、真横から弾いた。
ソラだった。いつの間にか部屋に踏み込んで、木剣でクレイの一撃を受け止めている。
「なっ……! 邪魔をするな!」
「するよ」
ソラが静かに言った。
◇
「あんたが、こいつを殺したら」
ソラはクレイの剣を押さえたまま言った。
「あんたも、こいつと同じになる」
「同じ、だと……?」
「そうだ。人を殺す。命を奪う。こいつがリルたちを殺したのと、同じことをあんたがする。そうなったら、あんた、こいつと何が違うんだ」
クレイの目が見開かれた。
「俺は……!」
「俺も昔、同じだった」
ソラの声が、静かに続いた。
「憎しみで剣を振ろうとした。魔族を殺そうとした。止めてもらえなきゃ、俺はこいつみたいな奴になってた」
彼はクレイをまっすぐ見た。
「あんたは、こいつと違う道を選べる。まだ間に合う。──手を、汚すな」
◇
「間に合う、だと?」
クレイの声が掠れた。剣を握る手が震えていた。
「お前に何がわかる。俺は八年だ。八年間、この男を殺すことだけを考えて生きてきた!」
その目から、涙が溢れ出した。
「リルが殺された。俺の目の前で、あいつの血まみれの服を見せられて。俺のせいだ。俺があいつと遊んでたから。無邪気に、あいつを森に呼び出してたから!」
クレイは叫んだ。
「俺だけ、のうのうと生き残った! あいつは死んだのに! 俺はあいつに、なんて言えばいいんだ! どうやって詫びればいい! だから、せめてこの男を殺して、あいつの仇を──!」
その時。
◇
「クレイ」
静かな声がした。
フードを外したリルが、一歩前に出ていた。
「私、生きてるよ」
クレイの動きが止まった。
ゆっくりと、声のした方を見る。そこに立っている魔族の少女を。小さな巻き角。見覚えのある面影。八年経って、大人になった、その顔を。
「……リ、ル?」
その声が震えた。
「嘘だ。お前、死んだ。俺は見た、血まみれの……」
「逃げたの」
リルは涙を浮かべて笑った。
「両親が逃がしてくれた。私だけ生き延びた。ずっと隠れて生きてた。──ごめんね、クレイ。あなたがこんなに苦しんでたなんて、知らなくて」
◇
「リル……本当に、リルなのか」
クレイの手から、剣が滑り落ちた。
からん、と床に音が響いた。
「生きて……生きてたのか。八年、ずっと、俺はお前が……」
「うん。生きてるよ。ここにいるよ」
リルがクレイに近づいた。そして、その震える手をそっと握った。
「もういいんだよ、クレイ。もう苦しまなくていい。仇なんて討たなくていい。──私はここにいる。生きてる。それで十分でしょう?」
クレイの目から、涙が止まらなかった。
「リル……リル……!」
彼はその場に崩れ落ちた。八年分の憎しみが、罪悪感が、孤独が、すべて涙になって溢れ出した。リルが、その震える背中をそっと抱きしめた。
俺はその光景を、黙って見ていた。──盤面は詰んだ。剣ではなく、再会で。
◇
その傍らで、バルトスがじりじりと後ずさっていた。
息子が崩れ落ち、魔族の少女と抱き合っている。その異様な光景に恐怖して。そして、部屋に踏み込んだ少年の顔を見て、はっと目を見開いた。
その顔を、見忘れるはずがない。王国が鳴り物入りで召喚した勇者。王国派の貴族の集まりで、幾度もその姿絵を見せられてきた。
「ゆ……勇者! お前、勇者ソラ! 王国の勇者だろう!」
バルトスがソラに縋りついた。
「おお、勇者様! お助けを! この者たちは反逆者だ! 魔族と通じた裏切り者! 勇者様ならおわかりでしょう、魔族は家畜、討つのが正義! ……な、なぜ木の剣なぞ。聖剣は、どうなさった。まさか、本当に、魔族の側に──」
ソラがバルトスを見た。
◇
ソラは何も言わなかった。
ただ静かに、バルトスを睨んだ。
その目に、いつものへらへらした色はなかった。魔族を家畜と呼ぶ男への。息子を八年閉じ込めた男への。リルの両親を殺した男への。──静かで、深い怒りだけがあった。
バルトスの言葉が止まった。
「ひ……」
そのたった一つの眼差しに、バルトスは竦み上がった。肥えた身体が震える。勇者に助けを求めたはずが、返ってきたのは氷のような蔑みの目。
「な、なぜ勇者が、魔族の味方を……」
ソラは答えなかった。ただ一歩、前に出た。
「ひぃっ!」
バルトスが悲鳴を上げた。そして身を翻し、部屋の外へ逃げ出した。
◇
「待て!」
ニックが追おうとした。だが遅かった。
バルトスは私室を飛び出し、廊下を走った。恐怖で足がもつれている。振り返り、振り返り、逃げていく。追ってくる影に怯えて。
「来るな! 化け物! 来るなぁ!」
廊下の先、階段の上り口で。
肥えた身体が、大きくよろめいた。踏み外した足が、宙を掻く。
「あ——」
どどどっ、と鈍い音。
バルトスの身体が、階段を転げ落ちた。数段先の踊り場、その石床に、頭から叩きつけられて。そして、どさり、と動かなくなった。
首が、不自然な方向に曲がっていた。
◇
俺たちは階段の上から、それを見ていた。
ニックが駆け下り、脈を確かめた。そして首を横に振った。
「……死んでる。打ちどころが悪かったんだ」
誰も手を下していない。バルトスは自分で逃げて、自分で落ちて、死んだ。八年前、魔族を家畜と呼んで殺した男が。息子を閉じ込めた男が。最後はたった一つの眼差しに怯えて、無様に階段を転げ落ちて。
因果応報というには、あまりにあっけない最期だった。
「……こんなもの、か」
クレイが、階段の下の亡骸を見下ろして呟いた。
八年間、殺すことだけを考えてきた相手。その男が、自分の手にかかることもなく、勝手に、無様に死んだ。憎しみの行き場を失ったような、虚ろな声だった。
◇
「これで、よかったんだよ」
リルが、クレイの手を握ったまま言った。
「あなたが、手を汚さなくて。──あの人は、自分の罪の重さで、勝手に落ちた。あなたのせいじゃない」
クレイはしばらく、亡骸を見つめていた。
そして、深く息を吐いた。長い息だった。八年間、肺の底に溜めていたものを、全部吐き出すような。
「……終わった、のか」
「終わったよ」
リルが微笑んだ。
「もう、憎まなくていい。もう、独りじゃない。──私も、生きてる。あなたも、生きてる。それで、十分」
クレイの目に、また涙が滲んだ。だが、今度は、憎しみの涙ではなかった。
◇
ソラが、へらりと笑ってクレイに近づいた。
「なあ、あんた」
木剣を担いで、いつもの調子に戻っている。
「その子のこと、守りたいんだろ」
クレイが顔を上げた。
「その子が来た国はさ、人族も魔族も、一緒に暮らしてるんだ。角があってもなくても関係ねえ。リルも、そこでやっと笑えるようになった。──あんたも、その子を守りたいなら、一緒に来ればいいんじゃね?」
ソラは屈託なく続けた。
「あんた、領主になるんだろ。このローゼン領、連邦につけばいい。そしたら、あんたもリルも、堂々と一緒にいられる。もう、こそこそ森で会わなくてもさ」
そして、後ろを振り返って俺を見た。
「な、兄貴!」
◇
俺は頷いた。
「ああ」
短く、それだけ答えた。
ソラが、いつの間にか盤面を動かしていた。俺が口を出す前に。──クレイを連邦に引き込む。ローゼン領を離反させる。第二のドミノを倒す。俺が組もうとしていたその手を、ソラが自分の言葉で、先に差し出していた。
しかも、戦略としてではなく。ただ、リルとクレイに幸せでいてほしい。その、まっすぐな気持ちだけで。
かつて、視界に入る者しか見えなかったあのソラが。今、二人の未来を案じて、道を示している。
大きくなったな、とまた思った。──いや、それ以上だ。こいつはもう、俺が守ってやる弟分じゃない。いつか、俺の隣に立つ。そんな予感がした。少しの寂しさと、大きな頼もしさと共に。
◇
クレイは、ソラの言葉をしばらく噛みしめていた。
そして、リルを見た。リルが頷いた。
「……いいのか。俺みたいな、バルトスの息子が。魔族を殺した男の血を継ぐ者が、連邦に行っても」
「血なんて関係ねえよ」
ソラが笑った。
「あんたは、あんただ。リルと遊んでた、あの頃のあんただろ。魔族を家畜なんて思ってない。それで十分だ」
クレイの目から、涙がこぼれた。今度こそ、憎しみでも悲しみでもない涙が。
「……ありがとう」
彼はリルの手を握り直した。
「リル。俺、お前を守りたい。今度こそ。──一緒に、行ってくれるか。その連邦に」
「うん」
リルが、涙で濡れた顔で笑った。
「一緒に、行こう。クレイ」
◇
こうして、ローゼン領は連邦についた。
新しい領主となったクレイが、真っ先に王国からの離反を宣言した。魔族狩りの記録をすべて公開し、バルトスの罪を明らかにした。領民の多くは、むしろほっとしていた。──バルトスの非道な魔族狩りに、心を痛めていた者も少なくなかったのだ。
第二のドミノが倒れた。
ハルベルに続いて、ローゼン領。二つの領が王国を離れ、連邦についた。しかも今度は、人族の領主と魔族の少女が、手を取り合っての離反だった。
連邦の理念が、そのまま形になった。人族と魔族が共に生きる。その姿を、クレイとリルが体現していた。
◇
連邦への帰り道。
ソラは上機嫌で、木剣を担いで歩いていた。
「いやー、よかったなあ! リル、あんな嬉しそうな顔、初めて見たぜ!」
「ああ」
「クレイも、いい奴そうだしさ。二人とも、連邦で幸せになれるといいなあ」
俺は、その無邪気な横顔を見ていた。
「ソラ」
「ん?」
「お前、いつの間に、あんなに口がうまくなった」
「え?」
「クレイを連邦に引き込んだ。ローゼン領を離反させた。──あれは、俺がやろうとしていたことだ。お前が先に、やっちまった」
ソラはきょとんとした。それから頭を掻いた。
「そんな難しいこと、考えてねえよ。ただ、二人が一緒にいられたら、いいなって思っただけだ」
「それでいい」
俺は笑った。
「それが、一番強い」
◇
ソラは、まだぴんと来ていない顔だった。
だが、俺にははっきりと見えていた。
こいつは変わった。力任せの、視界の狭いあの少年は、もういない。今のソラは、人の痛みを見て、人の願いを汲んで、自分の言葉で人を動かせる。──それは、俺が盤面でやっていることと、根っこは同じだ。ただ、ソラのそれは計算じゃない。心から湧いて出る。
だから、強い。
いつか、こいつは俺の隣に立つ。俺が盤面を組み、ソラが心で人を繋ぐ。──そんな未来が見えた気がした。
「なあ、兄貴」
ソラが言った。
「連邦、どんどん大きくなってくな」
「ああ」
「なんか、楽しいな。みんなで一緒に、国を作ってくの」
俺は頷いた。
霧の向こうに、ミストリアの灯りが見えてきた。ハルベルの灯。そして、これから加わるローゼンの灯。──一つずつ、灯が増えていく。
「ああ。楽しいな」
俺も、そう思った。




