第47話 ハルベル攻防戦(前編)
王国討伐軍がハルベルの平野に現れたのは、離反の報せから、わずか十日後だった。
モーリスは城壁の上から、その軍勢を見下ろしていた。
黒い鎧の波。旗の数。千は下らない。ギルドの精鋭が先頭に並び、後ろに数えきれない一般兵が続く。さらに後方には、一段と格の違う一団がいた。銀の鎧を纏った王国正規軍の精鋭。その中心に、一人の騎士が立っている。
対するハルベル軍は五百。
「……多いな」
モーリスは呟いた。
隣の側近ロランが、硬い声で答えた。
「先頭はギルドの精鋭。五十ほど、Sランクも混じっています。後方の正規軍に、格違いの指揮官が一人。あれはSランク上位、王都の名のある騎士かと」
「こちらは」
「五百。戦えるのはC級が中心です。D級の駆け出しも混じっている」
数でも質でも劣っている。それは誰の目にも明らかだった。
◇
「連邦の援軍は」
「まだ、報せがありません」
「……そうか」
モーリスは霧の向こうを見た。深い白い霧、連邦へ通じる道。あの向こうにレイジたちがいる。来てくれる。そう信じている。だが、間に合うかはわからない。
「領主様。敵がまもなく攻めてまいります」
モーリスはしばらく黙っていた。四十年、目を逸らしてきた。子供の靴を見ないふりをしてきた。だが、もう逸らさないと決めた。
「私も出る。指揮は私が執る。実働はロラン、お前に任せる」
「領主様!? なりません、後方で──」
「ロラン」
モーリスは剣を抜いた。使い慣れない、けれど手入れだけは欠かさなかった剣を。
「私は四十年、逃げてきた。もう逃げん。兵たちに見せねばならん。領主が逃げずに立つ姿を」
ロランはしばらく主を見つめ、深く頭を下げた。
「……御意。細かな下知は、このロランが」
◇
王国軍が動いた。
喊声とともにC級の一般兵が押し寄せる。ハルベル軍が槍を構えて迎え撃つ。だが数が違った。
「右翼、押されてます! 二番隊、回り込め!」
ロランが的確に下知を飛ばす。モーリスの直下でハルベル軍が隊列を保つ。だが一人、また一人と兵が倒れていく。じりじりと後退する。
「領主様が戦っておられるぞ!」
「退くな! 領主様を守れ!」
モーリスが最前線で剣を振るう姿に、兵が踏みとどまる。強くはない。だが、その姿が士気を支えていた。
そこへギルドのSランク精鋭が動き出す。一人がハルベルの隊列に突っ込んだ。たった一人で五人、六人と薙ぎ倒していく。格が違う。C級の兵では相手にならない。
「……っ、化け物か」
モーリスの額に汗が滲んだ。前線が崩れ始める。
◇
その時。
王国軍の中央後方。密集した隊列のど真ん中が──
どぱぁん、と内側から爆ぜた。
「なっ……!?」
王国兵が宙を舞う。何かが軍の中心を正面からこじ開けていく。まっすぐハルベルへ向かって。
ずがん、ずがん、と鈍い音が連続する。鎧を着た兵が、まとめて弾き飛ばされていく。
「道が開くぞ! 続けぇ!」
その裂け目から、白銀の髪の若者が雪崩れ込む。ヴァイスだ。魔族の若い戦士たちが続く。ニックが韋駄天で駆け抜け、倒れたハルベル兵を後方へ運ぶ。
王国軍の中央が、真っ二つに割られていった。
◇
「……あれは」
モーリスが呆然と見た。千の軍勢のど真ん中を、誰かがこじ開けている。その裂け目から連邦の軍が雪崩れ込んでくる。
「連邦の……援軍!」
「間に合った、か……!」
ロランが掠れた声で言った。
突破の先頭にいた影が、ハルベル軍の前線まで駆け抜けてきた。木剣を担いだ少年。にっと笑う。
「よぉ! 遅くなった!」
ソラだった。
「大丈夫か、領主さん。もう平気だぜ。連邦が来たからな」
モーリスは、その背中を、呆然と見つめた。たった一人で千の軍をこじ開けた少年。来て、くれた。
◇
王国軍の後方。
銀の鎧の騎士が、その光景をじっと見ていた。
ヴィント。総騎士長の高弟、八人の直弟子の中で最強と謳われた男。歳は三十絡み。冷たく澄んだ目をしている。
「……今の突破」
ヴィントが呟いた。密集陣を正面から、一点でこじ開ける力。並の膂力ではない。
「あの馬鹿げた力。まさか──勇者か」
彼は馬を進めた。副官が慌てて止める。
「隊長! 前に出られては──」
「勇者は、俺が抑える」
ヴィントはただ一騎、戦場の中央へ進み出た。そして、ソラの前に立った。
「久しいな。──ソラ坊」
◇
ソラの動きが止まった。
「……その声。ヴィント!?」
「覚えていたか」
ヴィントが静かに笑った。
「三年ぶりだ。先生の下で、お前に稽古をつけて以来だな」
ソラの顔が複雑に歪んだ。かつての兄弟子。総騎士長という同じ師の下で剣を教わった、八人のうちの一人。ソラにとっては兄のような存在だった。
「なんで、あんたが……」
ヴィントの目が、ソラの手元に落ちた。
「その剣はなんだ。勇者ともあろう者が、木剣か」
「これは──」
「聖剣はどうした。腑抜けたか、ソラ坊」
ソラは木剣を握りしめた。
「……あんたには、わからねえよ」
「なら剣で語れ。久しぶりに稽古をつけてやる」
ヴィントが剣を抜いた。
◇
二人がぶつかった。
きぃん、と金属と木がぶつかる音。だが、その音は澄んでいた。木剣が鋼の剣を受け止めている。折れずに。
ヴィントの目が見開かれた。
「……なに?」
ソラの一撃。重い。ヴィントは受けてたたらを踏んだ。
「この力は……!」
だが、ヴィントもただ者ではない。総騎士長の最強の高弟。技量では、まだソラの遥か上だ。大振りの隙を突いて、鋭い刺突を放つ。ソラが辛うじて木剣で逸らす。
がっ、がぎん、と二人の剣がめまぐるしく打ち合う。
力はソラ。技はヴィント。拮抗していた。いや──ヴィントが、じわじわ押し込まれていた。
◇
「……嘘だろう」
ヴィントの息が上がってきた。
「三年前のお前は、剣を振り回すだけの甘ちゃんだった。俺が稽古で、何度も地面に這わせた。それが──」
彼はソラの一撃を受け流しながら呻いた。
「なんだ、この剣は。力だけじゃない。ちゃんと考えて振ってる。俺の動きを読んでる。あの子供が、この短期間で。一体どうして、こうなった!?」
「兄貴に教わったんだ」
ソラが答えた。木剣を振るいながら。
「考えろ、自分で選べ、ってな。俺、あの人に会ってから変わったんだ」
「兄貴だと……?」
「連邦のトップだよ」
ソラが、後方の俺の方を、顎で示した。
「レイジ。俺の、兄貴だ。あんた、勘違いしてるかもだけどな。連邦のトップは、魔王じゃねえ。レイジだ」
◇
ヴィントの動きが、一瞬止まった。
「魔王では、ない……?」
彼の視線が、一瞬、俺に流れる。だが、すぐにソラに戻った。
「連邦を率いるのは、レイジという男。魔王ではなく」ヴィントは眉をひそめた。「……聞かん名だ。何者だ」
「兄貴は兄貴だよ」
ソラが笑った。それ以上は説明しない。ヴィントの中に、レイジという名と、正体不明の謎だけが残った。
ヴィントは剣を引き、間合いを取った。荒い息で、額に汗を浮かべて。
「認めよう、ソラ坊。お前は強くなった。──もう、俺一人じゃ、お前にゃ勝てんな」
ソラの目が揺れた。
「ヴィント……」
「木剣を腑抜けと言ったのは、撤回する。何か、理由があるのだろう。その剣にも、お前の変わりようにも」
その顔に悔しさはなかった。むしろ、弟の成長を喜ぶような、かすかな笑みがあった。
◇
だが、ヴィントはすぐに顔を引き締めた。
「──気になることがある」
彼は戦場全体を見渡した。連邦の軍、息を吹き返したハルベル軍、その後方の霧。
「勇者がいる。魔族の若い戦士も。だが、魔王の姿がない。連邦の切り札が、この戦場にいないとは考えにくい」
ヴィントの目が鋭くなった。
「どこかに、伏せているのかもしれん。混戦の中で横から突かれれば、全軍が崩れる。──ここは一度退く。拠点まで下がって、態勢を立て直す」
彼はソラを振り返った。
「今日は引く。だがソラ坊。また会うことになる」
その声には複雑な響きがあった。かつての弟弟子と、また剣を交える。その日が来ることへの哀しさが。
◇
王国正規軍が、整然と後退を始めた。
さすがはヴィントの指揮だった。崩れず、乱れず、隊列を保ったまま。押し寄せる連邦軍を、精鋭が殿で食い止めながら。
その退いていく軍の中で。ヴィントが、馬上で、ぽつりと呟いた。
「連邦のトップは、レイジという男。魔王ではなく。──いったい、何者だ」
その独り言を、拾った者がいた。
◇
後方の丘。
みすぼらしい鎧の男が、ヴィントに、こそこそと擦り寄ってきた。ギルド部隊を率いる、討伐軍の案内役。
「ヴィント様。今、レイジと、おっしゃいましたかな」
ヴィントがその男を見た。見覚えはない。だが、卑屈な笑みが顔に貼りついている。
「何者だ、貴様は」
「これは失礼。私、ジグムントと申します。かつてハルベル支部を、任されておりました」
男は揉み手をした。
「そのレイジなら、私がよく存じております。あれは、ただのFランクの、小僧ですよ」
「Fランク?」
「ええ。剣も魔も、ろくに使えぬ弱兵で。二年前、私を逆恨みで陥れた、性悪の小僧です。なに、私にお任せを。あの小僧の始末など、造作もありません。手柄は、私が」
ヴィントは、しばらく、その男を、冷たく見下ろした。
◇
「──ソラ坊が、兄貴と慕う男だ」
ヴィントが静かに言った。
「一軍を率い、勇者を変え、あのハルベルを丸ごと連邦へ引き込んだ。その男が、剣も魔も使えぬ、ただのFランク?」
彼は鼻で笑った。
「馬鹿を言え。そんな男が、Fランクのわけがない。何か、からくりがあるに決まっている。貴様のような男に、見抜けるものか」
ジグムントの顔がこわばった。
「い、いえ、しかし、事実、あの小僧は──」
「下がっていろ」
ヴィントは馬首を返した。
「貴様には任せられん。ギルド部隊は後方で待機していろ。正規軍の足を引っ張るな」
そう言い捨てて、ヴィントは去っていった。ジグムントを、一顧だにせず。
◇
丘の上に取り残されたジグムントの顔が、ぎりぎりと歪んでいった。
「……なんだ、あの態度は」
彼は拳を握りしめた。
「Fランク如きを庇いおって。あの騎士も、しょせん剣しか能のない脳筋だ。私の頭脳が、わからんのだ」
ジグムントの目がぎらついた。レイジへの二年越しの恨み。そして今、ヴィントにまで格下扱いされた屈辱。二つが腹の底で煮えたぎっていた。
「私の方が上だ。私の方が賢い。あの脳筋の騎士にも、あのFランクの小僧にも」
彼は双眼鏡を握りしめ、戦場を見た。連邦の軍。その後方に立つ、一人の男。レイジ。
「見ていろ。私が、あの小僧の首を獲ってやる。そうすれば、あの騎士も私を見直すはずだ」
ジグムントの盤面は、もう憎悪と劣等感で塗り潰されていた。
◇
その頃。俺は退いていく王国正規軍を見ていた。
「……見事な退き際だ」
崩れず、乱れず。あのSランク上位の指揮官。ソラと互角に打ち合い、しかも魔王の不在を読んで深追いを避けた。
(厄介だな)
王都には、ああいう騎士がまだ何人もいるのか。だとしたら、王都決戦は生易しくない。あの男の底も、まだ見えていない。
だが、その一方で。俺の目が戦場の別の一角を捉えた。正規軍が退いていく、そのすぐ後ろ。取り残されたギルドの精鋭部隊。五十人ほど。その後方の丘に、一人の男。
腕輪の視界が、その顔を捉えた。
「……ジグムント」
思わず、声が漏れた。
◇
「あの男……」
隣のフィオナが、眉をひそめた。その声に、隠しきれない嫌悪が滲んでいた。
「ハルベル支部の、支部長。まだ生きていたんですね。尻尾切りで逃げ延びたと思っていましたが」
フィオナは冷たい目で、丘の上の男を見た。
「忘れるものですか。紅の盾にいた頃、嫌というほど見ました。若い冒険者を使い潰して。難度を偽装して、報酬を中抜きして。──あの男のせいで、何人が無理な依頼で死んだか」
その声に、静かな怒りがあった。
「そして、その支部長を、あなたが盤面で詰めていった。私も、あの場にいました。同じ、紅の盾の一員として」
「一緒に、戦ったな」
「はい」フィオナは、俺を見た。「だから──今度も、お手伝いします。喜んで」
◇
俺は、状況を読んだ。
正規軍は、ヴィントの判断で退いていく。だが、ギルド部隊は、その指揮下にない。別系統だ。そして今、ヴィントは、あのギルドを置いて退いた。
つまり、戦場に残るのは、統率を欠いたギルド部隊と、ジグムントだけ。
「フィオナ。あの男に、火を点けてやる」
「喜んで」
フィオナが、静かに笑った。その目に、紅の盾時代の因縁を晴らす、冷たい炎があった。
「どうやりますか」
「あいつは、感情で動く。プライドを、へし折れば、盤面が見えなくなる。──ニック!」
俺はニックを呼んだ。
「丘の麓まで走って、伝令として、俺の言葉を、ジグムントに叩きつけろ」
◇
ニックが韋駄天で丘の麓まで駆けた。そして声を張り上げる。
「連邦の長、レイジからの伝言だ! ──『よぉ、ジグムント。久しぶりだな』!」
丘の上のジグムントが、びくりと身を震わせた。
「『ガルドを覚えてるか。お前が道連れにしようとした、あのガルドだ。あいつは今、連邦の自衛団総隊長だ。一軍を率いる将だ。出世したぞ。お前と違ってな』!」
ジグムントの顔が真っ赤に染まった。
「『二年経って、ガルドは上がった。お前は落ちた。ギルドの捨て駒で辺境まで駆り出された挙句、正規軍に見捨てられて置き去りだ。その差が答えだよ、ジグムント』!」
「黙れ……黙れ、黙れ、黙れぇ!」
ジグムントの手が震えた。
◇
「私が! この私が、あんな脳筋のガルド如きに劣ると!?」
ジグムントが絶叫した。理性が、音を立てて崩れ始める。
「ふざけるな……ふざけるな! 私は頭脳でのし上がった男だ! あんな剣しか能のない男とも、あのFランクの小僧とも、格が違う!」
彼は双眼鏡を握り潰し、戦場のレイジを睨みつけた。その目は、もう、憎悪でぎらついていた。
俺は、その様子を、腕輪の視界で捉えていた。
「……火は、点いた」
隣で、フィオナが聞いた。
「突っ込んでくると?」
「ああ。あいつは、もう、盤面が見えていない。──あとは、勝手に、自滅する」
だが、丘の反対側。
退いていく正規軍の中で、ヴィントが、馬を止めていた。ギルド部隊の、不穏な動きに気づいたように。その横顔が、険しくなる。
戦場に、嫌な、静けさが、満ちていた。
嵐の、前の。




