第46話 領主の天秤
ケイルが繋ぎをつけるのに、十日かかった。
「連れてくるわ」
そう言って、ケイルは狐目を細めた。
「あの領主、慎重な男でな。手紙のやり取りだけじゃ腹を割らん。──せやから、直接見せる。この街を、その目で」
「連れてこられるのか」
「商人の隊商に紛れ込ませる。ワイの荷馬車の一台に乗せてな。霧の回廊は、ワイの通行証で通れる。──御付きは家令が一人だけ。それが条件やと」
秘密裏の来訪だった。ハルベル領主が連邦を訪ねたと露見すれば、王国への反逆と見なされる。だから商隊に紛れて、こっそりと。
三日後。ケイルの隊商が霧の回廊を抜けて、街に入ってきた。
その荷馬車の一台から、上等な外套を着た初老の男が降り立った。
◇
ハルベル領主、モーリス。歳は五十絡み。装飾は控えめだが、身のこなしに品があった。連れているのは家令が一人きり。
だが街に降り立った瞬間から、モーリスは言葉を失っていた。
広場では、人族の子供と魔族の子供が一緒に駆け回っていた。角のある子と、ない子が、手を繋いで。市場では、人族の商人と魔族の職人が値の交渉をしている。かん、かん、と槌の音。魔族の女が焼いたパンを、人族の老人が買っていく。
「……これは」
モーリスが掠れた声で呟いた。
「人族と、魔族が……一緒に……?」
「そうや」
ケイルが隣で笑った。
「四十五年殺し合うてきた種族が、今、同じ街で飯を食うとる。──嘘やないで。あんたの目の前の光景や」
モーリスはしばらく、その光景を見つめていた。角のある子供が転んで泣いた。すると人族の母親が駆け寄って、抱き起こした。何のためらいもなく。
「……信じられん」
その声が震えていた。
◇
俺は街の中心で、モーリスを迎えた。
「お久しぶりです、領主様」
頭を下げて、姿勢を正して続けた。
「今日は一人のレイジとしてではなく。──ミストリア連邦を代表して、ご挨拶を申し上げます。連邦の長、レイジです」
モーリスの目に、わずかな緊張が走った。二年前のハルベルの若者としてではなく、一国の代表として、俺を見直したのだ。
「……久しいな。いや」
彼は姿勢を正した。
「連邦の長よ。ハルベル領主、モーリスだ。──此度は招きに感謝する」
対等な、国と国の挨拶だった。ケイルが後ろで満足そうに頷いている。名前が、看板が、こういう時に効いてくる。「反逆者の集まり」ではなく「ミストリア連邦」。その一言が、モーリスに俺を対等な相手として扱わせている。
◇
俺はモーリスを、街の一角に案内した。
そこでは人族と魔族が一緒に、家を建てていた。人族の大工が、魔族の職人に木組みを教わっている。魔族の技と人族の技が混ざり合って、一つの家が建っていく。
「……見事なものだ」
モーリスが呟いた。
「領主様」
俺は静かに切り出した。
「近頃、噂が流れているのをご存じですか。『魔物討伐は、実は村を焼いていた』という噂を」
モーリスの表情がこわばった。
「……知っている。王国は虚言だと御触れを出した。魔族が流した嘘だ、と」
「信じておられますか」
モーリスは答えなかった。長い沈黙。そして掠れた声で言った。
「……信じたい。だが私は四十年、この地の領主だ。魔物討伐の依頼が、いくつも出た。その回収品目録を、私は見てきた。──農具。鍋。子供の靴」
彼は目を閉じた。
「あれが魔物のものだと、ずっと自分に言い聞かせてきた」
◇
「見ていただきたいものが、あります」
俺はモーリスを執務室に通した。
机の上に、記録の写しを広げる。バッセさんが掘り出したものだ。
「王国の討伐依頼の原本。冒険者が王国に提出した報告書。そして、魔族側が四十五年書き続けた記録です」
三つを並べた。
「照らし合わせれば、わかります。依頼が出た日と、村が襲われた日。討伐された数と、死んだ村人の数。──すべて一致します」
一枚を示した。
「この報告書をご覧ください。討伐数の内訳。『成体、十九。幼体、八』──魔物に、幼体などという書き方はしません」
モーリスの手が震え始めた。
「幼体とは、子供のことです。書いた冒険者はわかっていた。自分が殺したのが、子供だと」
◇
モーリスはその記録を受け取った。
震える手で一枚ずつめくっていく。日付。場所。数。そのすべてが、彼の見てきた回収品目録と繋がっていく。四十年目を逸らしてきた真実が、そこに並んでいた。
「……ああ」
その口から掠れた声が漏れた。
「やはり、そうだったのか。──私は知っていて、見逃した。見ないようにしていた。魔物討伐だと書いてあるなら、それは魔物討伐だと。そう思い込むことで、楽になろうとした」
その目から涙がこぼれた。
「私の領地から出た依頼で。何人の村人が。何人の子供が──」
「領主様」
俺は静かに言った。
「それは、あなた一人の罪ではありません」
◇
モーリスが顔を上げた。
「これは王国が四十五年かけて作り上げた仕組みです。逆らえば潰される。だからみんな目を逸らす。──あなたもその一人だった。それは罪ではなく、無力です」
「だが私は、気づいていた」
「気づいていて、何もできなかった。──それも仕組みの力です」
俺は彼を見た。
「ハルベルの支部長を覚えておられますか。難度を偽装し、若い冒険者を使い潰していた男を。あの男に逆らえば、依頼が干された。だからみんな従うしかなかった。──王国の仕組みも同じです」
モーリスはしばらく俯いて、掠れた声で言った。
「……あなたは、私を責めに来たのか。それとも──」
「選んでいただきに来ました」
俺は答えた。
「過ぎた無力を責める気はありません。問題はこれからです」
◇
「王国はこれからも嘘をつき続けます。魔族を殺し続けます。ですが、その嘘は綻び始めている。噂が広まり、いずれこの記録も世に出る」
俺はモーリスを見た。
「その時、王国の側にいた者は、共犯者として裁かれます。四十五年の虐殺の片棒を担いだ者として」
モーリスの顔が青ざめた。
「……脅すのか」
「事実を申し上げているだけです。──ですが、もう一つ道があります」
「道?」
「今、真実を知り、正しい側に立つ道です」
俺はまっすぐ彼を見た。
「ハルベルから王国のギルドを追い出す。魔族との偽りの戦を拒む。そしてミストリア連邦の側につく。──そうすればあなたは共犯者ではなく、最初に真実に立った領主として、記録に残ります」
◇
モーリスは長い間、黙っていた。
天秤が揺れているのがわかった。片方に王国。長年の後ろ盾。逆らえば家が潰れる。もう片方に、真実と贖罪の道。
「……一つ、聞かせてくれ」
やがて彼は口を開いた。
「あなたたちに勝算はあるのか。──大義だけでは、家を賭けられん。負ける側につけば、共倒れだ」
領主として当然の問いだった。
「正直に申します」
俺は答えた。
「王国は強い。武力では正面から勝てないかもしれません。──ですが俺たちは、剣で王国を倒す気はありません」
「なに?」
「剣で国は殺せない。国を殺すのは、別の国です」
モーリスの目が細くなった。
「王国から領が一つ離れる。次が離れる。真実を知った領主が、次々と王国を見限る。──そうやって王国は内側から崩れていく。あなたが最初の一つになる」
◇
「私を、その最初の駒にするのか」
「駒ではありません」
俺は首を振った。
「最初に真実に立った、勇気ある領主です。──後の世がそう記録します」
モーリスは俺を見つめていた。その目に、恐れと希望がせめぎ合っていた。
「……勝算を聞いたな。あなたは武力では勝てないかもしれない、と言った。だが、策では勝てる、と」
「はい」
「その、あなたの手際を、私は二年前に見た」
モーリスの声が強くなった。
「ハルベルの支部長を。誰も手を出せなかったあの男を。あなたは一滴の血も流さずに追い詰めた。証拠を積み上げ、逃げ場を塞ぎ、王都査問へと追い込んだ。──あれを、この目で見ている」
彼は記録の束を握りしめた。
「あなたのあの手腕は本物だ。それは私が、一番知っている」
◇
モーリスは顔を上げた。その目に、もう迷いはなかった。
「連邦の長よ。──私は四十年、目を逸らしてきた。子供の靴を、見ないふりをしてきた。その罪は消えない。だが」
その声が震えた。
「残りの人生で、少しでも償いたい。もう、目を逸らしたくない」
モーリスは記録を胸に抱いた。
「ハルベルはミストリア連邦につく。王国のギルドを追い出す。魔族との戦を拒む。──このモーリスの名にかけて」
第一のドミノが、倒れた。
◇
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
「礼を言うのは、私の方だ」
モーリスが首を振った。
「あなたが来てくれなければ、私は死ぬまで目を逸らしたまま、共犯者として生きていた。──だがレイジ殿。覚悟はしておいてくれ。ハルベルが離反すれば、王国は討伐軍を送ってくるだろう」
「わかっています」
俺は頷いた。
「その時は連邦がハルベルを守ります。霧の回廊で繋がっている限り、ハルベルは孤立しません。通行証をお渡しします。何かあれば霧を抜けて連邦へ。連邦からハルベルへ。互いに行き来できる」
モーリスの顔に、初めて安堵が浮かんだ。
「……心強い限りだ」
◇
別れ際。
モーリスがふと、ずっと後ろで控えていたソラを見た。
「その若者は」
「勇者、ソラです」
俺は答えた。
モーリスの目が見開かれた。
「勇者……! 王国が召喚した、あの」
「元・勇者だよ」
ソラが口を開いた。
「今はただのソラだ。魔王と一緒に戦ってる」
「魔王と……!?」
「あいつ、いい奴なんだ」
ソラがあっけらかんと笑った。
「俺、魔族を殺しに来た。でも間違ってた。あいつらは悪くなかった。だから今は一緒に暮らしてる。それだけだよ」
モーリスはしばらくソラを見つめていた。勇者と魔王が共に戦う。四十五年の常識が覆る光景。──だがそのあっけらかんとした笑顔に、彼は何かを確信したようだった。
「……本当に変わるのだな。世界は」
彼は街の方を振り返った。人族と魔族が共に暮らす、その光景を。
「私も、その一部になろう」
◇
ケイルの隊商が、モーリスを乗せて霧の回廊へ消えていった。
見送った後。ニックがぽつりと言った。
「なあレイジ。うまくいったな」
「ああ」
「でも、これで後戻りはできねえぞ。ハルベルが離反した。王国は絶対、討伐軍を送ってくる」
「わかってる」
俺は答えた。
「だが、それでいい。ハルベルを守り切れば、次の領が動く。守れなければ、そこで終わる。──ここが正念場だ」
ソラが木剣を担ぎ直した。
「守ろうぜ、兄貴。ハルベルは俺たちが最初に灯を点した街だ。──あそこを守れなくて、なんの連邦だよ」
「ああ」
俺は頷いた。
霧の向こうに、ミストリアの灯りが見えてきた。人族と魔族の、無数の灯り。
その灯を一つ増やすために。そして、その灯を守るために。──俺はまた、盤面を組み始める。




