第44話 世界より、大事なもの
ガルドとセシリアの結婚式は、街を挙げての祝いになった。
広場に、人族と魔族が入り混じって集まった。誰かが樽を割り、誰かが果実酒を注いで回る。魔族の楽師が、聞いたことのない旋律を奏でる。その音に合わせて、人族の子供と魔族の子供が、手を繋いで踊った。
祭壇の前に、ガルドが立っていた。柄にもなく髪を撫でつけて、居心地悪そうにしている。その隣に、セシリアが並んだ。いつもの僧衣ではなく、白い衣を纏っていた。街の女たちが、人族も魔族も一緒になって縫い上げたものだ。
「……六年、待ったんですよ」
セシリアが、小さく笑った。
「知ってる」
ガルドが、掠れた声で答えた。
「悪かったな。ずいぶん、長く待たせた」
「本当に」
「……返す言葉もねえ」
セシリアは、そっとガルドの手を取った。その手が震えているのに気づいて、彼女はもう一度笑った。
「でも、待った甲斐は、ありました」
◇
誓いの言葉は、短かった。
ガルドは口下手だ。飾った言葉なんて、一つも出てこない。だから彼は、ただ一言だけ言った。
「もう、二度と、お前を一人にしない」
その一言に、セシリアの目から涙がこぼれた。
六年間、彼女はずっと一人だった。壊れていくガルドを見捨てられずに、それでも隣にはいられずに。その孤独を誰よりも知る男の、一番の詫びだった。
広場が沸いた。人族も魔族も、みんなが手を叩き、口笛を鳴らした。ニックが泣きながら樽を叩き、ソラが拳を突き上げた。
俺は、その光景を少し離れて見ていた。
四十五年殺し合ってきた種族が、今、一組の夫婦を一緒に祝っている。こんな日が来るとは、誰が思っただろう。
◇
「……いいですね」
隣で、フィオナがぽつりと言った。
「ああ」
「あの二人、ずっと遠回りして。それでも、やっと」
彼女は祭壇の二人を見つめていた。その横顔が、祭りの灯りに柔らかく照らされている。
そして、ふと、彼女がこちらを見た。
「レイジさん」
「なんだ」
「……何か、言うことはないんですか」
「何がだ」
フィオナの片方の頬が、わずかに膨らんだ。
「……いえ。なんでもありません」
彼女はぷいと顔を背けた。
俺は、その横顔を見ていた。膨れた頬。逸らされた視線。何か怒らせたらしい。だが、何にだ。盤面なら何手も先まで読めるのに、この少女の機嫌の理由だけは、いつも読み損なう。
◇
祭りは夜まで続いた。
酔ったガルドがニックに絡み、ソラが魔族の若者たちと肩を組んで歌い、ヴァイスが「うるせえ」と言いながらその輪にいた。バッセさんは、フィーネと並んで静かに酒を舐めていた。
俺は喧騒を離れて、街の外れに出た。
小高い丘の上だ。そこから街全体が見渡せた。霧の内側に、無数の灯りが瞬いている。人族の家にも、魔族の家にも。四十五年前には誰も想像できなかった光景だ。
「……ここにいたんですか」
フィオナが追ってきた。
「ああ」
「探しました」
彼女は俺の隣に腰を下ろした。まだ、少し頬が膨れている。
俺は無意識に、脚の位置を直した。彼女が座りやすいように。フィオナは当然のように、俺の膝の間に背を向けて座った。背中を俺の胸に預けて。もう、いつものことだった。
二人で、街の灯りを見ていた。
◇
風が丘を渡っていく。祭りの音が、遠くで小さく響いている。
膝の上のフィオナは軽かった。髪から、ほのかに花のような匂いがした。その温もりが、背中越しに伝わってくる。
俺はその灯りを見ていた。
自分が点した、小さな灯。それがこんなにも増えて、こんなにも多くの人を照らしている。人族も、魔族も。ここで暮らして、笑って、恋をして、家庭を持って。
守りたい、と思った。この灯を。この街を。ここにいるみんなを。
そして、その時。
ふと、気づいた。
──俺は、この膝の上のこいつを、誰よりも守りたい。
いつからだろう。いつの間に、こいつは俺の中で、こんなにも大きくなっていた。街のどの灯よりも。守りたいみんなの、その誰よりも。
気づいたら、言葉がこぼれていた。
「……俺、フィオナが、世界より大事なんだ」
◇
フィオナの身体が、びくりと跳ねた。
しばらく、動かなかった。風の音だけが、二人の間を通り過ぎていく。
やがて、彼女がゆっくりと口を開いた。
「……今頃、気づいたんですか」
その声は、少し震えていた。
「え?」
「私は、そうですよ」
彼女は俺の胸に、こつん、と頭を預けた。
「ずっと、前から。──ずっと、そうでした」
その後頭部が、俺の胸に押し当てられて、動かなくなった。まるで、顔を見られたくないみたいに。
◇
俺は、しばらく何も言えなかった。
「ずっと前からって」
「言葉のとおりです」
「いつから」
「……教えません」
彼女は頑固に、顔を伏せたまま答えた。
「そんなの、いちいち言ったら恥ずかしいじゃないですか。あなたが、鈍すぎるのが悪いんです」
「……悪かった」
「はい。すごく悪いです」
でも、と彼女は続けた。声が、少しだけ柔らかくなった。
「……気づいてくれて、よかった」
俺は、その小さな身体をそっと支えた。落ちないように、というより、ただそうしたくて。
フィオナは逃げなかった。むしろ、少し身を寄せた。祭りの灯りが、街を温かく照らしていた。
◇
どれくらい、そうしていただろう。
フィオナが、急にもぞもぞと動き始めた。
「……あの」
「なんだ」
「一つ、言っておきたいことがあって」
その声が、さっきと違った。上ずって、落ち着かない。
「なんだ」
「その……」
彼女の耳が、見る間に赤くなっていく。首まで、真っ赤に。
「私、いつも『戦術的な判断です』って、言ってましたよね」
「ああ」
「膝に座るのも。氷であなたを守るのも。ぜんぶ戦術だって」
「言ってたな」
「あれ……その、嘘、なんです」
◇
「嘘?」
「戦術とか、そんなの関係なくて」
フィオナは俺の胸に顔を埋めた。もう、完全にこちらを向かない。声が、くぐもって聞こえる。
「ただ……あなたと、くっついていたかっただけ、で」
「……」
「膝に座ったのも、あなたのそばにいたかったから。氷で守ったのも、あなたが傷つくのが嫌だったから。ぜんぶ、そうなんです」
彼女の身体が、小さく震えていた。恥ずかしさで。
「私、あなたの前でだけ……こう、なるんです。普段は、ちゃんとしてるのに。あなたといると、甘えたくなって。理屈とか戦術とか、ぜんぶ言い訳で。ほんとは、ただ甘えたいだけ、で」
彼女はぎゅっと、俺の服を握った。
「……こんな私、幻滅、しましたか」
◇
俺は、その震える背中を見ていた。
いつもクールで、理屈で武装して、「戦術的な判断です」と平然と言ってのける、あのフィオナが。今、こんなにも小さくなって。真っ赤になって。震えながら、素を見せている。
──守りたい、とまた思った。この隠された柔らかいところを。誰にも見せない、こいつの本当のところを。
「幻滅なんて、しない」
俺は静かに言った。
「むしろ」
「むしろ?」
「……嬉しい」
フィオナの動きが、止まった。
「お前が、俺にだけそういう顔を見せてくれるのが。──たぶん、それが嬉しいんだと思う」
彼女はしばらく動かなかった。
そして、俺の胸からゆっくりと顔を上げた。目の縁が赤い。泣きそうな、笑いそうな、変な顔をしていた。
「……ずるいです」
「なにが」
「そういうことを、さらっと言うところが。だから、私は」
彼女はまた、俺の胸に顔を埋めた。
「だから、私は、あなたから離れられないんです」
◇
その時だった。
俺の腰の聖剣が、淡く光った。
七色の光が、刀身を静かに巡っている。まるで、俺たちを見ているみたいに。そして、その光の中から声が聞こえた。
『……やっと、か』
剣霊の声だった。だが、いつもと違う。どこか、温かい。
『長かったな。この娘は、ずっと待っていた。お前が気づくのを』
「……聞いてたのか」
『聞こえてしまうんだ。すぐ隣だからな』
剣霊が笑った気配がした。
そして、七色の光の中から、もう一つ、別の光がそっと抜け出してきた。水色の、柔らかな光。それはふわりと、フィオナの頬に触れた。
◇
「……あ」
フィオナが、目を見開いた。
「この、感触……」
『ひさしぶり』
その水色の光から、声がした。澄んだ、若い女の声。フィオナだけが、ずっと夢の中で聞いていた声。彼女の、初めての友達。
「氷の……精霊」
『そう。少し見ないうちに、ずいぶん大きくなったじゃない』
フィオナの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「会いたかった。ずっと、あなたがいなくなって、寂しくて」
『ごめんね。一人にして悪かったわ』
氷の精霊の声は、姉ぶるでも、諭すでもなく、ただ隣に並ぶ友達の声だった。
『でも私、ちゃんと見てたのよ。この剣の中から、あなたのこと。──ずいぶん、あの男に、ぞっこんじゃない』
「なっ……!」
フィオナの顔が、また真っ赤になった。
『ふふ。隠さなくていいわよ。ずっと、あなたの夢の中で、聞かされてたんだから。「レイジさんが」「レイジさんが」って』
「言わないでください!」
『はいはい』
水色の光が、くすくすと笑いながら、俺とフィオナの間をゆっくり巡った。
『でも、よかった。やっと繋がったのね。──なら、私たちも、力を貸せる』
◇
『聞きなさい、盤面士』
今度は剣霊の声が、俺に向けられた。
『七柱は、お前を認めた。だがこれまでは、剣を握った時だけの力だった。今日から違う』
七色の光が、俺の身体に流れ込んでくる。剣を握っていないのに。
『お前が、この娘と繋がったからだ。守るべきものを、はっきりと自分で選んだ。ならば、その力を、常に貸そう』
俺の中で、何かが変わる感覚があった。ずっと俺を支えてきた【自己強化(小)】。その芯が熱を帯びて、大きくなっていく。
『お前のその小さな力。もう、借り物ではない。──お前自身の力になった』
【自己強化(小)】が、【自己強化(大)】へと書き換わっていく。十分の一が、三割へ。俺の全部の力の、外側で。相変わらず、何にでも積める形で。
「これは……」
『祝いだ』
剣霊が静かに言った。
『二人が繋がった、祝いだ』
◇
水色の光は、フィオナを包んでいた。
『あなたにも、贈り物よ』
氷の精霊が言った。
『あなたは、氷だけの子だったでしょ。でも、この剣の中には七柱いるの。水も、風も、地も、火も、聖も。──私たちと繋がれば、あなたはそれを、扱えるようになる』
フィオナの指先に、霜が戻ってきた。だが、それだけではなかった。指先に小さな水の珠が生まれ、風がそよぎ、火花が散り、淡い光が灯った。
「全部の、属性が……」
『あなたの器は、もともと歴代最高よ。氷に偏ってただけ。──今は、そのぜんぶを活かせる』
フィオナの魔力が、内側から膨れ上がるのを俺は感じた。魔力の値が、三十、跳ね上がる。氷特化だった少女が、万能の魔導士へと変わっていく。
「……信じられません」
フィオナが、自分の手を見つめて呟いた。
『繋がったからよ』
氷の精霊が、優しく言った。
『一人なら、氷だけ。でも、二人なら。──あなたたちは、もっと強くなれる』
◇
光が、静かに収まっていった。
聖剣はまた、ただ腰で七色に揺れるだけになった。氷の精霊の声も、剣霊の声も、遠のいていく。だが確かに、何かが変わっていた。
俺の中の力は大きくなり、フィオナの手には、すべての属性が宿っていた。二人が繋がった、その証として。
「……レイジさん」
フィオナが俺を見上げた。まだ、少し涙で潤んでいる。
「なんだ」
「私たち、強くなりましたね」
「ああ」
「一緒に、なったから」
彼女はそう言って、また俺の胸に頭を預けた。今度は、恥ずかしがらずに。ごく自然に。
「これからも、あなたの隣で、盤面を支えます。──いえ」
彼女は、少し言い直した。
「あなたと一緒に、この街を守ります」
俺は、その小さな身体を抱き寄せた。
丘の下では、まだ祭りが続いていた。無数の灯りが、霧の内側で、温かく瞬いていた。
◇
夜が更けていく。
俺たちはしばらく、丘の上で街を見下ろしていた。
「レイジさん」
「なんだ」
「一つ、お願いがあります」
「なんだ」
フィオナは俺の胸の中で、もぞもぞと身じろぎした。
「……この、甘えん坊なところ。誰にも言わないでください。特に、ニックさんとか、絶対からかうので」
「言わない」
「本当ですよ」
「言わないって」
「……あと」
彼女の声が、また小さくなった。
「二人きりの時は、その……もっと、甘えてもいいですか」
俺は、思わず笑った。
「好きにしろ」
「……はい」
フィオナは満足そうに、俺の胸に顔を埋めた。その耳が、また少し赤かった。だが、もう隠そうとはしなかった。
盤上の灯が、街を照らしていた。そしてその盤面の隅で、最弱の戦略家は、たぶん生まれて初めて、盤面以外の何かを、心から大切だと思っていた。




