第43話 灯を、この地に
魔族領との対峙から、季節が一つ巡った。
俺たちはハルベルを捨てた。王国の街に反逆者が本拠地を置き続けることはできない。騎士団が撤退し「勇者と盤上の灯が魔族側についた」と王都に報告された時点で、あの街はもう俺たちの居場所ではなくなっていた。
クラン員には選ばせた。残る者は残っていい、ついてくる者だけ来い、と。
百人の盤上の灯。そのほとんどが、ついてきた。
◇
新しい拠点は、精霊の地に作った。
聖剣を得たあの窪地より、さらに魔族側へ入った開けた土地だ。かつては魔物がひしめいて誰も足を踏み入れられなかった場所だが、今は違う。俺が聖剣を握れば、霧を操れる。
『霧を、ハルベル側に』
念じると七柱の精霊が応えた。窪地の向こう、王国へ通じる道に、白い霧がゆっくりと満ちていく。音を食い視界を奪う、あの霧が。
四十五年、王国が越えられなかった壁。それが今、俺たちを守る盾になった。
「……皮肉なもんだな」
隣でガルドが呟いた。腹の傷は塞がったが、もう長くは戦えない身体だ。それでもその目は穏やかだった。
「王国を四十五年阻んできた霧が、今度は王国から俺たちを守る」
「ああ。向こうはこの霧を越えられない。俺たちは霧の内側で暮らせる。──国境が、一つできた」
◇
街は驚くほどの速さで育っていった。理由は単純だ。行き場のない者が、多すぎた。
四十五年で魔族は三万から五千に削られた。生き残った村や集落は、いつ討伐が来るかも分からず怯えて暮らしていた。その民が、霧に守られたこの地に次々と移り住んでくる。南の集落から、東の谷から、北の岩場から。角の生えた民が荷を背負い、子の手を引いて、霧の内側へ入ってくる。
「……こんなに、いたのか」
ニックが呆然と呟いた。
「散らばって隠れて暮らしてたんだ」魔王が答えた。その目が遠くを見ていた。「一つの街に集まれば討伐の的になる。だからばらけて息を潜めていた。──だが、もう、その必要はない」
半年で、街の人口は五千を超えた。
◇
人族と魔族が一つの街で暮らす。最初はぎこちなかった。
魔族は人族を見ると身構えた。当然だ、四十五年殺されてきた相手なのだから。人族の側も、角の生えた民にどう接していいか分からず目を伏せた。
だが暮らしは少しずつ混ざっていった。盤上の灯の職人が家を建てる。そこに魔族の職人が加わる。精霊銀の加工、薬草の見分け方、鉱石の採り方──魔族はこの地に長く住んで、その技を代々受け継いできた。人族の職人がそれを教わり、人族の建築や金勘定の技を、魔族が教わる。
かん、かん、と槌の音が朝から響く。
「レイジ。見ろよ」
ガルドが街の広場を指した。人族の子供と魔族の子供が、一緒に駆け回っていた。角のあるなしなど、気にもせずに。
「子供は、早いな」
「ああ」
四十五年の憎しみが一番簡単に溶けるのは、たぶん、あの高さだ。
◇
街を回すのは盤上の灯の百人だった。
俺は一人ひとりの適性を見て持ち場を決めた。数字に強い者は財務へ、手先の器用な者は職人衆へ、人の話を聞くのが上手い者は移住者の受け入れへ。ハルベルでやってきたことを、今度はこの街の規模で、種族を越えてやる。才能を正しく測る。ランクでも出自でも、角のあるなしでもなく、その人間が何を得意とするかで。
「不思議なもんですわ」
ケイルがそろばんを弾きながら言った。いつの間にかこの街に商いの拠点を移していた。狐目の商人は、霧の内側に真っ先に金の匂いを嗅ぎつけた。
「王国じゃFランクは一生Fランクや。誰も値段をつけ直さへん。でもここは違う。あんたが一人ひとりに、ちゃんと値をつける」彼は薄く笑った。「銭は嘘つかん。この街は伸びるで。精霊銀に薬草に鉱石、よそにないもんがここにはある」
「売れるか」
「売れるも何も、王国のギルドが締め出した分こっちが独占や。流通ルートさえ確保すりゃ、この街は王国に頼らんでも食っていける」
◇
そのケイルがある夜、俺の執務室に来て声を潜めた。
「レイジさん。一つ提案がある。バッセの爺さんが持ってきた、あの記録。四十五年分の討伐の証拠や」
「ああ」
「あれ、今は金庫の奥で眠っとる。もったいない」
ケイルは狐目を細めた。
「いきなり公表しても、王国は『魔族の捏造だ』で押し切る。証拠として強すぎて、逆に潰される。せやから、まずは噂として流す」
「噂?」
「そう。『魔物討伐って実は村を焼いてたらしいで』『回収品が農具やったらしい』──こういうのを商人の口から、じわじわあちこちに撒く。噂は証拠やない。せやから王国も正面から否定できひん。『そんな事実はない』と言えば言うほど、逆に広まる。火消しに追われる」
「そして、証拠は」
「温存や」
彼は頷いた。
「噂が広まりきって、みんなが『もしかして』と思い始めた頃に、バッセの記録を決定打として出す。その時にはもう、誰も『捏造』とは言えん」
情報をいきなり叩きつけるんじゃない。じわじわと土壌を作る。相手が否定するほど疑いが濃くなるように。
「……ケイル。お前、性格が悪いな」
「褒め言葉として受け取っとくわ」
狐目の商人は、機嫌よく笑った。
◇
街に一人、若い魔族がいた。
ヴァイスという名で、歳は十九。ソラより二つ上だ。角は少し大きめで、髪は白銀。こいつが最初から、ソラに突っかかった。
「おい、勇者」
訓練場で、ヴァイスがソラの前に立ちはだかった。
「お前、元・勇者なんだってな。魔族を殺しに来た側だ」
「……ああ。そうだ」ソラは木剣を下ろした。
「俺の親はな」
ヴァイスの声が震えていた。
「討伐で殺された。お前らみたいな、勇者だの冒険者だのに。なのにお前は、なんでここにいる? なんで英雄面して、みんなに慕われてる?」
訓練場が静まり返った。
ソラはしばらく黙って、静かに言った。
「そうだよな。──俺、お前らを、殺しに来た」
◇
「あの村で、俺、子供に剣を向けた」
ソラはまっすぐにヴァイスを見た。
「角が生えてるってだけで、こいつは魔物だって思い込んでた。何も考えなかった。言われるがまま剣を振ろうとした。止められたよ、フィオナにぶん殴られて。『その子が何をしましたか』って。それで初めて気づいた。俺、とんでもないことしようとしてたって」
ヴァイスは答えなかった。
「言い訳はしない。俺は最低だった。お前が俺を許せないのも当然だ。殴りたきゃ殴れよ。それで少しでも気が済むなら」
ヴァイスの拳が震えた。だが、振り下ろされなかった。
「……なんで、そんなあっさり認めるんだよ。言い訳の一つもしないのかよ」
「したって意味ねえだろ」ソラは少し笑った。「お前の親は還ってこない、俺が何を言っても。なら言い訳するより、これからどうするかだ」
◇
ソラは腰の木剣を抜いた。粗末な、殺せない木剣。無属性の生まれたての精霊が宿った、折れない剣。
「俺、この剣で戦うって決めた。これ木だから、人なんか斬れねえ。殺せねえ。二度とあの村みたいなこと、起こさせねえって誓ったんだ」
ヴァイスはその木剣を見た。
「……刃もねえのかよ。そんなんで戦えるのか」
「戦えるさ。守るためだけなら、これで十分だ」
ソラは木剣を握り直した。
「なあヴァイス。お前、強くなりたいか」
「……あ?」
「俺、兄貴に教わったんだ。強さって力だけじゃねえって。お前にも教えてやるよ、俺が教わったこと」
ヴァイスはしばらくソラを睨んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「……勇者に教わることなんか、ねえ」
だがその声に、さっきまでの刺々しさは、なかった。
◇
それからヴァイスは、しょっちゅう訓練場に来るようになった。「勝負しろ」とソラに突っかかっては投げ飛ばされて、「もう一回だ」とまた突っかかって。
ソラはそのたびに、ヴァイスに問うた。
「お前、なんで今そこに踏み込んだ?」
「……勢いで」
「考えろよ。なんでその一手を選んだ。俺ならどう返すか読んだか?」
「うるせえな! ごちゃごちゃ考えてたら斬り込めねえだろ!」
「その『ごちゃごちゃ』が、お前を強くするんだよ」
ソラは笑った。かつて自分がレイジに言われたことを、今、自分がヴァイスに言っている。
俺はその光景を、遠くから見ていた。
──こいつ、成長したな。
教わる側だったソラが、教える側になっている。力任せだった少年が「考えろ」と後輩に説いている。
「レイジさん」
隣でフィオナが同じ光景を見ていた。
「ソラさん、いい兄貴分になりましたね。あなたがまいた種です」
俺は答えなかった。ただ、訓練場で白銀の髪の若者に「考えろ」と説く、かつての勇者を見ていた。
◇
街が形になってきた頃、連邦の仕組みを決めることになった。
広場に人族と魔族が集まった。誰が何を担うか、どう物事を決めるか。
「王を立てるべきだ」
魔族の一人が言った。
「レイジ殿を王に。この地を作ったのは、あの方だ」
だが俺は首を振った。
「王は、作らない」
広場がざわめいた。
「王国を見ろ」
俺は静かに言った。
「一人の王が全部を決める。だから腐った。『考えるのは王の仕事だ』と、民に考えさせなかった。その結果が、四十五年の虐殺だ」
俺は集まった民を見渡した。人族も、魔族も。
「ここはそうしない。みんなで決める。役職は種族で分けない。人族だろうが魔族だろうが、得意なことを得意な奴がやる」
「では、まとめ役は要る」
魔王が口を開いた。
「誰かが全体を見なければ、合議は回らない」
彼は俺を見た。
「レイジ。お前がやれ」
「……俺は」
「盤面を組むだけ、と言うんだろう」
魔王は微かに笑った。
「それでいい。この街全体が、お前の盤面だ。お前以外に、人族と魔族をまとめられる者がいるか?」
「いねえよ」
ガルドが割って入った。
「異論のある奴は?」
広場は静まり返った。誰も手を挙げなかった。人族も、魔族も。
「……決まりだな」ガルドがにやりと笑った。
◇
役職が決まっていった。
魔王は参謀。全体の戦略を担う。四十五年民を守ってきた為政者の知恵が、連邦を支える。
自衛団の総隊長は──俺はガルドを指名した。
「はぁ?」
ガルドが素っ頓狂な声を上げた。
「おい待て。俺は負傷引退の身だぞ。もう長くは戦えねえ。総隊長なんて──」
「あなたがいい」
俺は静かに言った。
「あなたは勝手に俺の盾になった。腹を貫かれてまで。おかげで俺は肝が冷えた」
「そりゃ悪かったな」
「その責任、取ってもらう。総隊長だ。逃がさない」
ガルドはぽかんと口を開けて、それから腹を抱えて笑い出した。
「がはは! なんだそれ! 報復かよ!」
「半分は」
「半分は?」
「もう半分は」
俺は少し間を置いた。
「──あなたを、一番、信頼してるからだ」
◇
ガルドの笑いが止まった。
「……レイジ、お前な。そういうとこだぞ」
彼は目元を乱暴に拭った。
「分かったよ。やってやる。この身体でどこまでやれるか分からねえが」
「大丈夫だよ、ガルドさん!」
ソラが駆け寄ってきた。
「あんたが総隊長なら、俺その下で働くからさ! 兄貴が言うんだ、あんたがやるしかねえだろ!」
「ソラ、お前まで……」
ガルドは溜め息をついた。だがその顔は、まんざらでもなかった。
こうしてソラは自衛団の隊長になった。ガルドの下で現場を率いる。ヴァイスたち魔族の若い戦士も、その隊に加わった。
魔族の戦士は、若手ばかりだった。四十五年の虐殺で古参の戦士はほとんど死に絶えていた。だからガルドと俺で、若い連中を育てる。
ハルベルでやったことを、またここで。
◇
セシリアは救護団の長。聖光の加護と高位覚醒した力で、街の病人や怪我人を診る。
ニックは斥候部隊の長。街の外の情報を集める。ケイルが外向きの情報と経済を担うのに対して、ニックは内向きの目だ。
そしてバッセさんは。
「わしは引退じゃ」
丸眼鏡の奥で笑った。
「もう六十八じゃ。無茶はせん。若い連中に記録の付け方を教えて、あとは隠居じゃ」
「顧問として、時々知恵を貸してください」
「まあ、それくらいはな」
彼は頷いて、ふと視線を街の一角に向けた。そこに一人、魔族の女性が立っていた。穏やかな顔の、角の生えた女性。バッセさんに小さく手を振っている。
「……バッセさん?」
「ん? ああ」
彼は少し照れたように頭を掻いた。
「隣に住んどるフィーネじゃ。飯を分けてもろうとるうちにな。歳を取ると、話し相手がおるとええもんじゃ」
「……いつのまに」
「なに」
バッセさんはしれっと笑った。
丸眼鏡の奥の目が穏やかだった。四十五年抱えてきた重荷を下ろした男の、静かな余生の始まりだった。
◇
フィオナだけは、役職がなかった。
「フィオナ。お前は何を担う?」
そう聞くと、彼女は平然と答えた。
「私はあなたの補佐です」
「補佐?」
「はい。あなたが盤面を組む。私がその隣で支える。役職は要りません」
彼女は当然のように言った。だがその目には、譲らない強さがあった。役職に縛られたら、俺と一緒にいる時間が減る。だからあえて役職を持たない。
周りはみんな気づいていた。フィオナが何を狙っているか。俺以外は。
「レイジさん。あなた、まだ気づいてないんですか」
「何にだ」
フィオナは深い溜め息をついた。
「……いえ。いいです」
彼女は諦めたように首を振って、ぽつりと呟いた。
「そういうところも、まあ……嫌いじゃ、ないんですけど」
◇
街は育った。霧に守られ、人族と魔族が混じり合い、五千の民が暮らす街。かつて誰も足を踏み入れられなかった精霊の地に。
連邦、と俺たちはそれを呼んだ。
王のいない、合議の連邦。ランクでも出自でも種族でもなく、一人ひとりの得意を正しく測って並べる場所。俺がずっと作りたかったもの。ハルベルの小さなクランでやろうとしていたことの、その先だ。
「レイジさん」
ある夜、フィオナが執務室に来た。
「もうすぐ、ガルドさんとセシリアさんの結婚式ですね。街を挙げてのお祝いになりそうです。人族も魔族も、みんな楽しみにしています」
彼女は窓の外を見た。街の灯りが霧の内側で、ぽつぽつと灯っている。人族の家にも、魔族の家にも。
「……綺麗ですね」
「ああ」
四十五年殺し合ってきた者たちが、今、同じ街で同じ夜を過ごしている。その無数の灯りを、俺も見た。
盤上の灯。俺が点した小さな灯が、今はこんなにも増えていた。




