第42話 帳簿を、魔王の前に
魔族領へ向かったのは、記録の整理を終えた三日後だった。
同行したのは、俺とフィオナ、ニック、そしてバッセさん。ガルドとセシリアはハルベルに残った。ガルドの傷はまだ癒えていないし、留守を守る者も要る。
ソラは、少し離れて後ろをついてきた。素手のままだった。聖剣は、俺の腰にある。あの日、こいつが俺に譲った、七色の剣が。
「兄貴。その剣、似合ってきたな」
ソラが、俺の腰を見て言った。
「そうか」
「うん。最初は変な感じだったけど。今は、あんたが持ってる方が、しっくりくる。俺は、俺の拳で戦うよ」
彼は、自分の手を握ったり開いたりした。あの日、聖剣を辞退したときより、その顔は穏やかだった。
四十五年分の記録を詰めた木箱を荷馬に積んで、俺たちは山を越えた。
バッセさんは、道中ずっと無言だった。丸眼鏡の奥の目が、遠くを見ている。四十五年前に一度だけ通った道を、今、逆向きに歩いていた。
魔王の街が見えてきたとき、彼はぽつりと言った。
「……変わっとらんな。あの頃と」
「来たこと、あるんですか」
「一度だけな。あの頃は、もっと家が多かった。煙も、もっと立っとった」
その声に、俺は何も返せなかった。
◇
街の入り口で、魔王が待っていた。
黒い外套、二本の角、相変わらずの疲れた目。だが今日は、その傍らに数人の魔族が立っていた。俺たちを警戒するように、あるいは守るように。
「来たか」
魔王が言った。
「答えを持って、と言ったな。持ってきたのか」
「ああ」
俺は荷馬の木箱を示した。
「四十五年分の、王国の嘘だ」
魔王の眉が動いた。彼は俺の後ろに視線を移し、ソラを見て、それからバッセさんを見た。
その瞬間、魔王の目の色が変わった。
「……お前」
彼の声が、低く沈んだ。
「その顔。その気配。どこかで、見た」
バッセさんは、荷馬からゆっくりと降りた。杖を手放し、丸眼鏡を外して懐にしまう。そして魔王の前へ、一歩ずつ歩いていった。
◇
「魔王どの」
バッセさんは、その前で足を止めた。
「わしは、バッセという。ハルベルの、記録係じゃ。今はな。だが四十五年前は――斥候じゃった」
魔王の目が、鋭くなった。
「四十五年前」
「そうじゃ」
バッセさんの声は、震えていなかった。もう腹を括った者の声だった。
「四十五年前。わしはパーティーの一員として、この地に来た。『魔物討伐』の依頼を受けてな。そして、この谷の南の村を襲った」
魔族たちが、ざわめいた。
「畑を耕しとった者を。水を汲んどった者を。日向で繕い物をしとった、婆さんを。三十七人、殺した」
彼は、まっすぐに魔王を見た。
「わしらの、手でな」
◇
静寂が落ちた。風の音だけが、谷を渡っていく。
魔族の一人が、震える声を上げた。
「……南の、村」
その目に、涙が滲んだ。
「四十五年前の、南の村。あそこには、俺の祖父母が」
「やめろ」
魔王が手で制した。だがその手も、かすかに震えていた。
「バッセ、と言ったな。なぜ、今さらそれを言いに来た。四十五年、黙っていて。今さら名乗り出て、何がしたい」
魔王の声には、抑えつけた怒りが滲んでいた。
バッセさんは、答えなかった。
代わりに、ゆっくりと地面に膝をつき、額を地につけた。
◇
「詫びて済むこととは、思うとらん」
彼の声が、地面に落ちた。
「わしは止められんかった。斥候じゃったから剣も使えん、と言い訳して。三対一じゃったから、と言い訳して。見ているだけじゃった」
「……」
「あの日から四十五年。一日も忘れたことはない。あの子供の泣き声を。母親の背中を。婆さんの、握りしめた繕い物を」
彼の肩が震えた。
「じゃが、忘れずにいることが償いになるとも思うとらん。わしがどれだけ苦しもうが、死んだ者は還らん」
彼は顔を上げた。その目から、涙が地面に落ちていた。
「じゃから、わしはあんたの前に来た。魔王どの。あんたの民を殺した男が、ここにおる」
両手を地についたまま、彼は言った。
「殺したければ、殺せ。文句は言わん。それが、筋というものじゃ」
◇
魔王は、動かなかった。
長い沈黙のあと、その手がゆっくりと持ち上がった。魔族たちが息を呑む。バッセさんは目を閉じた。俺は動かなかった。動いてはいけないと分かっていた。これは、この二人の間のことだった。
魔王の手が、バッセさんの頭上で止まった。
そして、下ろされなかった。
「……面を上げろ」
魔王が言った。
バッセさんが顔を上げる。魔王は、その顔をじっと見ていた。四十五年前、村を焼いた男の顔を。今、白髪になり、皺を刻み、涙を流している、その顔を。
「お前を殺すのは、簡単だ。今この手を下ろせば、それで終わる。四十五年分の恨みの、ほんの一欠片が晴れる」
彼の手が震えた。
「だが」
その手が、ゆっくりと下ろされた。バッセさんの頭ではなく、ただ自分の脇に。
「お前を殺したところで、南の村は還らん」
◇
魔王は、背を向けた。
「四十五年、俺は殺すことばかり考えてきた。人族を。俺の民を殺した、すべての者を。だが、殺しても殺しても、民は還らなかった。恨みは晴れなかった。ただ俺の中に、もっと殺したいという気持ちだけが、積もっていった」
彼は振り返った。
「お前を殺せば、俺はあの日の冒険者と同じになる。『魔族だから殺す』と、『人族だから殺す』は、同じことだ」
バッセさんの目が見開かれた。
「立て、老人。お前の膝は、もう地につくには年を取りすぎている」
その言葉に、バッセさんは声を上げて泣いた。四十五年分の嗚咽が、谷に響いた。
◇
俺は、その光景を見ていた。そして静かに木箱を開けた。
「魔王。詫びだけを持ってきたわけじゃない。証拠を持ってきた」
俺は記録の束を取り出した。
「あんたの側の記録を渡すと言ったな。持ってきてくれたか」
「ああ」
魔王が傍らの魔族に合図した。その魔族が、古い木簡の束を運んでくる。魔族の文字で、びっしりと書かれていた。
「四十五年分だ。いつ、どの村が襲われ、何人が死んだか。俺の父の代から、書き続けてきた」
俺はその木簡を受け取り、王国の記録と並べた。
◇
「照らし合わせる」
俺は地面に、両方の記録を広げた。フィオナが隣に膝をつき、ニックも覗き込む。ソラも少し離れて、じっと見ていた。
「王国の依頼書。ここに日付と場所がある。【北西辺境 第三地区】、依頼日はこの日だ」
俺は魔族の木簡を指した。
「魔族側の記録。南から三番目の村が襲われた日。同じだ」
魔族たちがざわめいた。
「もう一つ。【依頼番号 四七二一】、討伐数二十七。魔族側の記録では、この村の死者は」
俺は木簡の一行を指した。
「二十七人。一致する」
俺は次の束を取った。
「これが、七百件分ある。日付、場所、人数。全部、照らし合わせられる」
◇
「そして、これが決め手だ」
俺は三つ目の記録を広げた。冒険者自身が書いた、報告書。
「王国はこう言うだろう。『魔族側の記録は捏造だ』と。だが、これは違う。王国の依頼を受けた冒険者自身が、王国に提出した報告書だ」
俺は一行を指した。
【内訳:成体十九/幼体八】
「魔物には、こんな書き方はしない。だがここには『成体』と『幼体』が、分けて書かれている。殺した本人が、分かっていたんだ。それが大人と、子供だと」
魔王の手が、木簡を握りしめた。その指が、白くなるほどに。
「幼体、八。八人の……子供」
「そうだ。これが七百件分。四十五年分の、名簿だ」
◇
魔王は、しばらく記録を見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その目に、これまで見たことのない光があった。怒りでも、憎しみでもない。もっと深い、もっと静かな、何か。
「四十五年。俺たちはただ、殺されてきた。抗議しても届かなかった。人族は『魔族の戯言だ』と言った。俺たちには、証明する手立てがなかった」
彼は記録を撫でた。
「だが、これがあれば」
「証明できる」
俺は頷いた。
「王国が四十五年間、村を襲い続けたことを。それを『魔物討伐』と偽ってきたことを。これはあんたたちの言い分じゃない。王国自身が書き残した、証拠だ」
魔王の目から、一筋、涙が落ちた。
長い間、誰にも信じてもらえなかった男の、涙だった。
◇
その時、ずっと黙っていたソラが口を開いた。その声は震えていた。
「俺、分かんねえ」
みんなが彼を見た。ソラは記録を見て、魔王を見て、バッセさんを見て、それから自分の両手を見た。
「俺、魔王を倒すために召喚された。人族を守るために。でも、悪いのは王国だった。俺は人族だ。人族を守りたい。でも、魔族も悪くない。あの村の子も、悪くなかった。魔族も、守りたい」
彼は頭を抱えた。
「なら、俺は誰と戦えばいいんだよ! 人族が敵なのか? 俺も人族なのに! 俺は、何なんだよ!」
その叫びが、谷に響いた。
十四歳で異界に落とされ、勇者と持ち上げられ、三年間戦い、そして今、自分が何のために戦ってきたのか分からなくなった、少年の叫びだった。
◇
俺は、ソラの前に歩いていった。
「ソラ」
「兄貴……俺、どうすれば」
「敵は、人族でも、魔族でもない」
俺は静かに言った。ソラが顔を上げる。
「よく聞け。敵は王国だ。正確には、王国の王だ。土地が欲しかった。資源が欲しかった。だから魔族の村を襲った。それを正当化するために、『魔族は悪だ』という嘘を、四十五年広め続けた」
俺はソラを見た。
「その嘘に、人族も魔族も、みんなが振り回された。お前も。あの村の子も。バッセさんも。魔王も。全員が、王の嘘の被害者だ」
「……被害者」
「そうだ。お前が戦うべき相手は、人族じゃない。魔族でもない。お前を駒にして、村を焼かせようとした、その大元だ」
◇
ソラは、しばらく俺を見ていた。その目に、少しずつ光が戻ってくる。迷いの霧が、晴れていく。
「……王国」
彼は呟いた。
「俺を騙してた。先生も、騙してた。あの村を、焼こうとした。俺の三年間を。俺の居場所だと思ってたものを。全部、嘘で塗り固めてた」
彼は顔を上げた。もう、迷いはなかった。
「兄貴。俺、決めた」
彼はまっすぐに、俺を見た。
「俺は、王国と戦う。俺を駒にした、あいつらと。人族も、魔族も、これ以上あいつらの嘘で、殺させない」
その声には、もう、誰かに与えられた勇気はなかった。
自分で選んだ者の、声だった。
聖剣は、俺の腰にある。剣霊は俺を選んだ。ソラには、剣がない。精霊もいない。
だが、こいつは今、剣も精霊もなしに、立っている。
それでいい。こいつは力で立つんじゃない。自分の意志で、立つんだ。
◇
魔王が、ソラの前に立った。
「勇者」
「……もう、勇者じゃねえよ」
ソラが力なく笑った。
「勇者は、魔王を倒すもんだろ。俺は、あんたと組むんだから」
魔王は少し驚いた顔をして、それから微かに笑った。
「そうか」
彼は手を差し出した。
「俺を倒しに来た剣が、俺の隣に立つ、か。四十五年生きてきて、初めてだ」
ソラはその手を見て、それから握った。
「よろしくな、魔王」
「ああ」
人族の少年と、魔族の王の手が握られた。四十五年の憎しみを越えて。
◇
その夜、魔族の街で、俺たちはもてなしを受けた。
豪華なものではない。芋を煮たものと、硬いパンと、薄い酒。だがそれは、四十五年ぶりに人族を迎えた魔族たちの、精一杯だった。
「……不思議じゃな」
バッセさんが、芋を口に運びながら呟いた。その目は赤かった。だが四十五年抱えていた何かが、少しだけ軽くなったように見えた。
「わしが殺した者たちの、孫が。わしに飯をよそってくれる。償いにはならん。一生、ならん。じゃが……」
「バッセさん」
俺は言った。
「償いは、これからです。この記録を世に出す。四十五年の嘘を暴く。それが、あなたの償いだ」
バッセさんはしばらく黙って、それから深く頷いた。
「……そうじゃな。わしはまだ、死ねん。やることが、ある」
彼は涙を拭って、笑った。四十五年ぶりの笑いだったのかもしれない。
◇
宴の隅で、ソラが、一人の魔族の子供と話していた。
小さな子だった。頭に、小さな二本の角。あの村で、ソラが剣を止めた、あの子ではない。だが、同じくらいの年頃の子だった。
「お兄ちゃん、つよいの?」
子供が聞いた。
「……まあ、な」
ソラの声は、少し沈んでいた。かつて自分が、こういう子に剣を向けたことを、忘れていないのだろう。
「でも、お兄ちゃん、剣持ってないね」
子供が、ソラの腰を見て言った。
「あっちのお兄ちゃんは、剣持ってるのに」
子供は、俺の腰の聖剣を指した。
ソラは、少し笑った。
「俺のは、あっちの兄貴に、あげたんだ」
「じゃあ、お兄ちゃん、剣ないの?」
「ないな」
子供は、少し考えて、それから、自分が握っていた木剣を差し出した。
子供が遊びで振り回すような、粗末な木剣だった。
「これ、あげる」
◇
ソラの動きが、止まった。
「……いいのか?」
「うん。お兄ちゃん、剣ないと、こまるでしょ。ぼく、もういっこ持ってるから」
子供は、無邪気に笑った。
ソラは、その木剣を、両手で受け取った。粗末な、なんの変哲もない木剣を。かつて自分が剣を向けた側の、魔族の子供から。
その手が、震えていた。
「……ありがとな」
彼の声が、掠れた。
「大事に、するよ」
子供は、それで満足したのか、ぱたぱたと駆けていった。
ソラは、しばらくその木剣を見つめていた。そして、ぎゅっと、握りしめた。
「兄貴」
「ああ」
「俺、決めた。この剣で、戦う」
彼は、木剣を見つめたまま言った。
「これ、木だから、人なんか斬れねえ。殺せねえ。でも、それでいい。俺、もう、誰かを斬るための剣は、いらねえ」
彼は顔を上げた。
「守るためだけに、振るう。二度と、あの村みたいなこと、起こさせねえ。この剣に、誓う」
その声は、静かで、揺るがなかった。
◇
ハルベルへの帰り道。
俺たちは、精霊の地の縁を通った。霧の森が、遠くに白く沈んでいる。
そのとき。
ソラの腰で、木剣が、淡く光った。
「……え?」
ソラが、足を止めた。木剣を、腰から抜く。
粗末な木剣が、内側から、柔らかな光を放っていた。色のない、透明な光だった。
「なんだ、これ」
『……小さいのが、来たな』
俺の腰の聖剣から、剣霊の声がした。
「知ってるのか」
『生まれたばかりの精霊だ。この地で、たった今、生まれた。まだ属性も持たん。名もない。ただ――』
剣霊の声に、微かな笑みが混じった。
『あの少年の、誓いに、惹かれたらしい』
◇
光が、木剣に染み込んでいく。
ソラは、呆然と、それを見ていた。
「精霊が……俺の、剣に?」
「そうだ」
俺は言った。
「聖剣は、お前を拒んだ。まだ何も選んでいなかったからだ。だが、お前は選んだ。守るために、殺さないために、剣を握ると誓った」
俺はソラを見た。
「その誓いに、生まれたての精霊が応えた。古い精霊じゃない。属性もない。力もない。ただ――」
俺は、木剣を見た。
「試しに、それで、その岩を叩いてみろ」
ソラは、恐る恐る、傍らの岩に、木剣を振り下ろした。
かん、と乾いた音がした。
岩に、罅が入った。だが、木剣は――折れていなかった。傷ひとつ、ついていなかった。
「……折れ、ない」
ソラが、呟いた。
◇
『それが、その精霊の力だ』
剣霊が言った。
『斬れはせん。刃もない。人を殺すことは、決してできん。だが――決して、折れん』
俺は、その意味を、静かに理解した。
受け止める剣。守る剣。折れない剣。
殺せないからこそ、殺さないと誓った男に、ふさわしい剣だった。
「ソラ」
「兄貴」
「それが、お前の剣だ」
俺は言った。
「俺の聖剣は、七柱の古い精霊が宿ってる。力の剣だ。お前のは、生まれたての精霊が宿った、折れない木剣だ。守りの剣だ」
俺は、少し笑った。
「正反対だな。俺たち二人と、同じだ」
ソラは、その木剣を、胸に抱いた。
そして、泣きそうな顔で、笑った。
「……上等だよ」
彼は、木剣を握りしめた。
「兄貴の聖剣と、俺の木剣。二本で、あの国を、止めてやる」
精霊の光が、木剣の中で、静かに脈打っていた。
名もない、属性もない、生まれたばかりの光が。
守ると誓った少年の手の中で。
◇
ハルベルが見えてきた。
クランハウスの灯りが、夜の中に、ぽつりと灯っている。
第四部は、終わった。ソラは、自分の意志で立った。魔王とは、手を組んだ。バッセさんは、許された。そして、四十五年の嘘を暴く証拠が、揃った。
だが、ここからだ。
王国と、戦う。総騎士長がいる。Sランクの騎士たちがいる。そして、ソラの先生が、待っている。
盤面は、まだ続いている。
「レイジさん」
フィオナが、隣に来た。
「なんだか、長い旅でしたね」
「ああ」
「でも、みんな、生きて帰れました」
彼女は、灯りを見つめた。
「それが、一番です」
俺は、頷いた。
そして、腰の聖剣に、手を触れた。七色の光が、静かに応える。ソラの腰で、名もない木剣が、淡く光っている。
二本の剣が、並んで、ハルベルへ帰っていく。
盤面の外にいた男が、盤面に加わった。
次は――盤面の、外へ。




