第41話 帳簿は嘘をつかない
ハルベルに戻ったのは、四日後の夜だった。
クランハウスの灯りが見えたとき、俺たちはほとんど無言だった。
ガルドは担架に乗せられていた。セシリアの光で傷は塞がっている。だが腹の奥は、まだ治っていない。フィオナの肩も同じだ。選抜組も、全員どこかを負傷していた。
死者はいない。
だがそれは、偶然に近かった。
「……戻ったぞ」
俺は扉を開けた。
そして。
広間の中央に、書類の山があった。
◇
「おお。帰ったか」
バッセさんが、その山の向こうから顔を上げた。丸眼鏡がずり落ちている。目の下に、深い隈があった。
「四日、寝ておらんでな。──おお、ガルド。生きとるか」
「……なんとかな」
担架の上でガルドが答えた。
「爺さん。あんたの勘は正しかった」
「そうか」
バッセさんは静かに頷いた。
「間に合ったなら、それでええ」
そして俺を見た。その目が、四十年分の何かを抱えていた。
「レイジ。見つけたぞ」
彼は書類の山を指した。
「王都本部の記録庫。いちばん奥の、埃をかぶった棚にな。四十五年分、全部あった」
◇
俺はその山に歩み寄った。
古い羊皮紙。虫食いの綴じ紐。何十年も誰にも開かれなかった記録。
「討伐依頼の原本じゃ」
バッセさんが言った。
「日付。場所。依頼主。受注したパーティー。報酬。──そして」
彼の指が震えた。
「回収品目録じゃ」
俺は一冊を手に取った。そして開いた。
【依頼番号 四七二一】
【種別:魔物討伐】
【場所:北西辺境 第三地区】
【受注:パーティー「銀翼」四名】
【報酬:金貨十八枚】
【成果:魔物二十七体 討伐】
その下に。
【回収品:鍬四本/鎌二本/鍋三個/織布十二反/銀の指輪一個】
◇
俺はその一行を、長いあいだ見つめていた。
「……鍬。鎌。鍋。織布。指輪」
「そうじゃ」
バッセさんの声が掠れていた。
「魔物が鍬を持つか?」
「持たない」
「鍋で煮炊きをするか?」
「しない」
「指輪をはめるか?」
「……しない」
俺はその書類を握りしめた。
「これは村じゃ」
バッセさんが答えた。
「魔物討伐と書かれた、村の記録じゃ」
広間が静まり返った。
俺は次の一冊を開いた。同じだった。
【回収品:農具一式/木桶/子供用の短靴 一足】
次も。
【回収品:塩壺/麻紐/櫛二本】
次も。
【回収品:銅貨二百三十枚/小刀/木彫りの人形】
「……木彫りの人形」
ニックが掠れた声で呟いた。
「魔物が人形なんか持ってるわけ、ねえだろ」
「そうじゃ」
バッセさんは静かに言った。
「そしてこれが四十五年分。七百件を超える」
俺は書類を机に置いた。そして深く息を吐いた。
「バッセさん。あなたは、これを──」
俺は彼を見た。
「知っていたんですね」
バッセさんの動きが止まった。
長い沈黙があった。
そして彼は、ゆっくりと丸眼鏡を外した。
「……ああ」
その声は、四十年分の重さを抱えていた。
「知っとった」
「わしはな。二十三の時、斥候としてパーティーに入っとった」
彼は天井を見上げた。
「B級のそこそこの腕でな。あちこちに貸し出されて、渡り歩いとった。その頃に来たんじゃ。あの依頼が」
「魔物討伐、ですか」
「そうじゃ」
彼は頷いた。
「『北西辺境、魔物の巣を討伐せよ』。報酬が破格でな。しかも条件があった。『王国の方針に疑問を持たぬ者に限る』」
バッセさんは乾いた笑いを漏らした。
「妙な条件じゃと思った。じゃがリーダーが言うたんじゃ。『金がいい。行こう』と。わしもそれに乗った」
彼は目を閉じた。
「霧の森の東を迂回して五日。着いた先にあったのは」
その声が震えた。
「村じゃった」
広間が静まり返った。
「畑があった。水路があった。家が四十ばかり。煙が上がっとった。朝餉の支度じゃ」
彼の拳が震えた。
「わしは斥候じゃ。先に偵察に出た。そして見た。角の生えた人間が、畑を耕しとった。子供が水を汲んどった。婆さんが日向で繕い物をしとった」
彼は俺を見た。その目が赤かった。
「わしは戻ってリーダーに言うた。『あれは魔物じゃない。人じゃ』と」
「リーダーは、なんと?」
俺は聞いた。
「『角が生えとるだろう』と」
バッセさんの声が掠れた。
「『角が生えとる者は魔族じゃ。魔族は魔物と同じじゃ。依頼書にそう書いてある』とな」
彼は頭を振った。
「わしは食い下がった。『武器も持っとらん』『子供もおる』と。じゃが、四人のうち三人がリーダーに賛成した。『依頼だ』『金が要る』『魔族なんだから、いいだろう』と」
彼の声が、いっそう掠れた。
「わしは斥候じゃ。前衛じゃない。剣も大して使えん。三人を力ずくで止めることは、できんかった」
◇
彼は両手で顔を覆った。
「わしは見とった」
その声が震えた。
「畑にいた男が斬られるのを。逃げようとした女が背中から刺されるのを。婆さんが繕い物を握ったまま倒れるのを」
「……」
「子供が」
彼の肩が震えた。
「子供が、母親の後ろに隠れて泣いとるのを」
誰も何も言えなかった。
「三十七人、殺した」
バッセさんは掠れた声で言った。
「わしらは一人も死ななんだ。当たり前じゃ。相手は農具しか持っとらん」
彼は顔を上げた。その目から涙が流れていた。
「帰り道、リーダーが言うた。『回収品を持って帰るぞ』と」
「……」
「鍬。鎌。鍋。織物。暮らしの道具じゃ」
彼は書類の山を指した。
「それをギルドに提出した。『魔物討伐、成功。回収品、これこれ』と。そして報酬を受け取った」
彼の手が震えた。
「金貨二十二枚。わしの取り分は、五枚じゃった」
「その金は」
俺は聞いた。
「使えんかった」
バッセさんは即答した。
「一枚も。ずっと持っとる。四十五年」
彼は懐から、小さな革袋を出した。そして机に置いた。
じゃらり、と音がした。
「これじゃ」
「……」
「三十七人の命の値段じゃ」
彼はその革袋を見つめた。
「金貨五枚。一人あたり、銀貨二枚にも満たん」
◇
俺はその革袋を見た。そして静かに聞いた。
「なぜ、告発しなかったんですか」
「した」
バッセさんは答えた。
「……え?」
「したんじゃ。ハルベル支部に戻ってすぐ。『あれは村じゃった』『魔物ではなかった』と」
彼は乾いた笑いを漏らした。
「そしたらな。当時の支部長が、こう言うた」
彼はその言葉を繰り返した。四十五年前の言葉を。
「『依頼書には魔物討伐と書いてある。ならば、それは魔物討伐だ』」
「……なんだ、それ」
ニックが呻いた。
「そういうことじゃ」
バッセさんは頷いた。
「記録がすべてじゃ。記録に『魔物』と書いてあれば、それは魔物なんじゃ。実際に何がいたかは、関係ない」
彼は書類の山を見た。
「わしはその日から分かってしもうた。この仕組みは、記録で動いとる、と」
彼は静かに言った。
「じゃから、わしは記録係になった」
「……え?」
俺は顔を上げた。
「斥候を辞めてな。ハルベル支部の資料室に入った」
バッセさんは答えた。
「四十年。ずっと記録をつけ続けた」
「なぜ」
「いつか誰かが、この記録を掘り返す日が来ると思ったからじゃ」
その目に、四十年分の光があった。
「わしには告発する力はなかった。じゃが、記録を残すことはできた」
彼は書類を撫でた。
「難度偽装も、中抜きも、上納も。全部、写しを取った。誰にも言わずに。四十年」
彼の声が震えた。
「そして、お前さんが来た」
◇
「レイジや。わしはな、お前さんがあの綴りを持って資料室に来た日、思うたんじゃ」
「何をです」
「『来たか』と」
彼は少し笑った。
「記録を武器にする男が、ついに来たか、と」
彼は書類の山を指した。
「じゃが、わしはこの件だけは言えんかった」
「なぜ」
「事が大きすぎる」
バッセさんは静かに言った。
「支部長を倒すのとはわけが違う。これは国じゃ」
彼は俺を見た。
「お前さんはまだ十九じゃ。ハルベルの膿を出すだけでも命懸けじゃった。それにこれ以上背負わせるのは、忍びなかった」
◇
俺はその言葉を聞いて、しばらく答えられなかった。
そして静かに言った。
「バッセさん。それは、あなたの優しさですね」
「……」
「ですが、もう遅い」
バッセさんの目が見開かれた。
「俺はもう巻き込まれてる。魔王に会った。魔族の村を見た。騎士団に殺されかけた。背負う背負わないの段階は、とっくに過ぎてます」
俺は彼を見た。
「だから隠さないでください。全部、出してください」
バッセさんはしばらく俺を見ていた。
そして深く頭を下げた。
「……すまん」
その白髪頭が震えていた。
「四十五年、抱えとった。重かった」
「頭を上げてください」
俺は言った。
「あなたは四十五年、記録を守った。それが今、武器になる」
俺は書類の山を見た。七百件を超える討伐依頼。四十五年分の嘘。
「これで半分だ」
「半分?」
「もう半分が要る」
俺は答えた。
「これは王国側の記録です。『いつ、どこに、討伐依頼が出されたか』。これだけではまだ弱い。『魔物討伐』と書かれた紙が七百枚あるだけだ。回収品がおかしいとは言えても」
俺は彼を見た。
「それが村だったという証明には、ならない」
「ほう」
バッセさんの目が細くなった。
「では、どうする」
「もう半分は、魔王が持ってる」
俺は答えた。
「魔族側の記録。『いつ、どの村が襲われ、何人が死んだか』」
俺は書類を指した。
「この二つを突き合わせる。日付が一致する。場所が一致する。死者の数と討伐数が一致する」
俺は静かに言った。
「そのとき初めて、『魔物討伐』は『村の虐殺』だったと証明される」
◇
バッセさんが椅子から立ち上がった。震えながら。
「お前さん、それをやるつもりか」
「やります」
俺は即答した。
「魔王に会いに行く。記録を突き合わせる。そして答えを出す」
俺は書類を持ち上げた。
「四十五年、誰も証明できなかったことを」
バッセさんの目から涙がこぼれた。
「……そうか」
彼は掠れた声で言った。
「そうか。やっと、か」
「バッセさん。一緒に来てください」
「わしが?」
「あなたは生き証人だ」
俺は静かに言った。
「記録は紙です。だがあなたは、あの村を見た人間だ。四十五年前、何があったのか。それを証言できるのは、あなただけです」
バッセさんはしばらく黙っていた。
そして頷いた。
「行こう」
だが、と彼は続けた。
「一つ聞いてくれ。わしは魔王の前に立つ。そして言う。『わしがあんたの民を殺した』と」
彼の声が震えた。その目が覚悟に満ちていた。
「殺されても、文句は言えん」
◇
俺はその言葉に何も言えなかった。
そのとき。
「レイジさん」
背後からフィオナの声がした。
「一つ、いいですか」
「なんだ」
「記録の突き合わせ。それだけで足りますか?」
彼女は書類の山を見た。
「日付と場所が一致した。それは確かに証拠です。でも王国はこう言うでしょう。『魔族側の記録が捏造だ』と」
「……ああ」
俺は頷いた。
「そこは、俺も考えてた」
俺は書類をめくった。
「だから、第三の記録が要る」
「第三の?」
「受注したパーティーの報告書だ」
俺は答えた。
「依頼書には『魔物討伐』と書いてある。回収品目録には農具が並んでる。だがその間に、もう一つ記録がある」
俺は一冊を開いた。
「冒険者自身が書いた、報告書だ」
そこには、こうあった。
【討伐報告:魔物二十七体】
【内訳:成体十九/幼体八】
「……幼体」
ニックが掠れた声で言った。
「それって」
「子供だ」
俺は答えた。
「魔物なら、『幼体』なんて書き方はしない。『小型』とか『未成熟個体』とか、そう書く。だがこの報告書には『幼体』とある」
俺はその一行を指した。
「書いた冒険者は分かってたんだ。それが子供だと」
◇
広間が静まり返った。
「……ひでえ」
ニックが呻いた。
「分かってて書いたのか。『幼体、八』って」
「そうだ」
俺は頷いた。
「そしてこの書き方が、四十五年分、七百件続いてる」
俺は書類の山を見た。
「成体と幼体を分けて数えてる。これは魔物の報告書じゃない」
俺は静かに言った。
「村の名簿だ」
その夜。俺は執務室で盤面を組んでいた。
三つの記録。
一つ、王国の依頼書。
二つ、冒険者の報告書。
三つ、魔族側の記録。
この三つが揃ったとき、四十五年の嘘が崩れる。
「レイジさん」
フィオナが入ってきた。肩に包帯を巻いている。
「まだ起きていたんですか。傷に障ります。あなたも無傷では、ないんですよ」
「分かってる」
俺はペンを置いた。そして彼女を見た。
「フィオナ。一つ、聞いていいか」
「なんでしょう」
俺は少し迷った。そして聞いた。
「怖くないか」
フィオナは少し驚いた顔をした。
「怖い、とは」
「これから、俺たちがやることだ」
俺は書類の山を見た。
「王国の四十五年分の嘘を暴く。一国を敵に回す。もう後戻りはできない。騎士団が王都に帰った。『勇者と盤上の灯が魔族側についた』と報告される」
俺は静かに言った。
「俺たちは反逆者だ。そしてこの先、たぶん、もっと大勢が傷つく」
俺は彼女の肩を見た。包帯の巻かれた、その肩を。
「今日みたいに」
◇
フィオナはしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「……怖いです」
「……」
「当たり前じゃないですか」
彼女は少し笑った。
「私、まだ十七ですよ。国と戦うなんて。怖いに決まっています」
「なら」
「でも」
彼女は俺の前に来た。そして机に手をついて、俺を覗き込んだ。
「あなたはどうなんですか。怖くないんですか」
彼女の紫の目が俺を射抜いた。
「あなただって、まだ十九でしょう」
俺は答えられなかった。
そして素直に言った。
「……怖い」
「でしょう」
フィオナは頷いた。
「では、一緒ですね。二人とも怖い。なら、二人でいればいい」
そして彼女は、俺の机の書類を一つ手に取った。
「これ、整理しましょうか。日付順に並べれば、突き合わせが楽になります」
「フィオナ」
「なんですか」
「肩が痛むだろう」
「痛みます」
彼女は即答した。
「でも、あなたが一人で徹夜するのを見ている方が、痛いです」
◇
俺はその言葉に、しばらく答えられなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
フィオナは俺の向かいに座った。そして書類を並べ始めた。
その横顔を、俺は見ていた。包帯の巻かれた肩。まだ青白い顔。それでも真剣に書類をめくる、その姿を。
「レイジさん」
「なんだ」
「見すぎです」
「……すまん」
「いえ」
彼女は書類から目を上げずに言った。その耳が、少し赤かった。
「別に、嫌ではありません」
◇
夜が更けていく。
書類の山が、少しずつ整理されていく。四十五年分の嘘が、日付順に、場所順に、並べられていく。
そしてその隣で、一人の少女が、痛む肩を押さえながら、黙々と紙をめくり続けていた。
「フィオナ」
「はい」
「終わったら、この記録を持って魔族領へ行く」
「はい」
「そして答えを出す」
俺は窓の外を見た。
北西の方角。
霧の森の向こうを。
「四十五年分の答えを」




