第33話 霧晴れる
聖剣を、得て。
俺たちは、帰路を、急いでいた。
霧の森を、抜ければ、あとは、街道だ。二日で、ハルベルに、戻れる。
だが──俺の頭は、まだ、盤面の、先を、読んでいた。
聖剣が、揃った。王国の、切り札が、完成した。──次に、王国が、打つ手は、魔王討伐。そして、その先に、待つのは。
「……レイジさん」
隣を、歩く、フィオナが、ふと、足を、止めた。
「どうした」
「……霧が」
彼女が、前方を、見た。
「晴れて、いきます」
◇
霧が、晴れていく。
だが──それは、俺たちが、森を、抜けたからでは、なかった。
風も、ないのに。霧が、まるで、意志を持つように。左右に、割れていく。
道を、開けるように。
いや──違う。
何かを、迎えるように。
「……総員、止まれ」
俺は、手を、挙げた。
腕輪の視界を、フル回転させる。ミサンガで、気配を、探る。
そして──捉えた。
前方。晴れていく霧の、向こう。
一つの、影が、立っていた。
◇
それは、男だった。
背は、高い。黒い、外套を、纏っている。年の頃は──二十代の、後半か。
だが、その頭に。
二本の、角が、生えていた。
「……魔族」
ニックが、掠れた声で、呟いた。
「魔族が、なんで、こんなところに──」
「下がれ」
俺は、静かに、言った。
「全員、俺の、後ろへ。ゆっくりだ」
その男の、質量を、俺は、読んでいた。
ソラ、四百。聖剣込みで、五百。この街の、S級が、二百五十から、三百。
そして──目の前の、男。
「……ソラより、上か」
俺は、呟いた。
正確な数字は、読めない。だが、分かる。──ソラの、五百を、明らかに、超えている。まともに、やり合えば、勝ち目は、ない。
男が、こちらを、見た。
静かな、目だった。
怒りも、殺気も、ない。ただ、疲れた、目。──長く、重いものを、背負ってきた者の、目だった。
「……人族か」
男が、口を、開いた。
低く、落ち着いた、声。
「この森に、人が、来るのは、久しぶりだ。──いつも、そうだ。お前たちは、ここを、越えて、来る」
彼は、俺たちを、見渡した。
そして、ソラの、腰の、聖剣で、目を、止めた。
「……聖剣を、抜いたのか」
その声に、初めて、感情が、混じった。
哀しみのような、諦めのような。
「そうか。──ついに、抜かれたか。長い、間、誰にも、抜けなかった、あれが」
「あんた──」
ソラが、前に、出ようとした。
「魔王、か?」
男の、眉が、わずかに、動いた。
「……魔王」
彼は、静かに、繰り返した。
「そう、呼ばれているな。お前たちには」
「やっぱり!」
ソラが、聖剣を、抜いた。
五色の光が、刀身に、走る。
「魔王! お前を、倒すために、俺は──」
「ソラ、待て!」
俺は、叫んだ。
だが、ソラは、止まらなかった。
「俺は、勇者だ! 魔王を、倒すために、召喚された! ──これが、俺の、役目だ!」
彼は、聖剣を、構えて、踏み込んだ。
五百の、膂力で。
◇
魔王は、動かなかった。
ソラが、聖剣を、振り下ろす。
その、一撃を──魔王は、片手で、受け止めた。
素手で。
「……っ!?」
ソラの、顔が、こわばった。
聖剣の、刃が。魔王の、手のひらで、止まっていた。血の、一滴も、流れずに。
「……軽いな」
魔王が、呟いた。
「剣は、重い。だが、お前の、覚悟が、軽い。──なぜ、俺を、斬る? 答えられるか」
「そ、それは──魔王、だからだ! 魔族は、人族の、敵で──」
「なぜ、敵だ」
魔王の、声が、静かに、響いた。
「答えろ。──なぜ、俺たちは、お前たちの、敵なんだ」
ソラは、答えられなかった。
「……っ、そんなの、王様が──」
「王が、言ったから、か」
魔王は、聖剣を、握ったまま。
哀しそうに、笑った。
「やはり、そうか。──お前たちは、いつも、そうだ」
その、瞬間。
魔王が、聖剣を、押し返した。
軽く。ただ、手を、払っただけで。
ソラの、身体が、後ろへ、吹き飛んだ。
「うわっ!?」
「ソラ!」
俺は、腕輪の視界で、彼の、軌道を、読んだ。
「ニック! 受けろ! 右斜め後方!」
ニックが、韋駄天で、回り込み、ソラの、背を、支えた。二人が、もつれて、地面を、転がる。
「て、てめえ……!」
ソラが、立ち上がった。
「今の、なんだよ! 俺の、聖剣を──」
「ソラ。もう、いい」
俺は、彼の、前に、出た。
「え?」
「勝てない。──今のお前じゃ」
魔王が、俺を、見た。
そして──その、目が、細くなった。
「……お前」
彼は、俺を、見つめた。
「妙だな。力は、ある。──だが、戦う者の、気配がない。剣を、握る者の、殺気も。魔を、操る者の、流れも。何も、感じない」
彼の、目が、探るように、俺を、なぞった。
「力だけが、ある。なのに、戦士では、ない。──なのに、なぜ、お前が、この者たちの、前に、立つ」
俺は、答えなかった。
代わりに、魔王の、質量を、読み続けた。
ソラの、五百を、超える力。しかも──今の、動き。ソラの一撃を、片手で受けて、片手で返した。膂力だけじゃない。技も、ある。
勝てない。
まともに、やり合えば。ここにいる、全員が、死ぬ。
「……一つ、聞いていいか」
俺は、口を、開いた。
「なぜ、俺たちを、まだ、殺さない」
魔王の、動きが、止まった。
「お前は、強い」
俺は、続けた。
「その気に、なれば、今すぐ、俺たちを、皆殺しに、できる。──なのに、しない。なぜだ」
魔王は、しばらく、俺を、見ていた。
そして、静かに、言った。
「……殺して、何になる」
「え?」
「お前たちを、殺せば、また、次が、来る。王国は、いくらでも、人を、送ってくる。──殺しても、殺しても、終わらない」
彼の、声には、深い、疲れが、あった。
「四十五年、そうだった。──お前たちは、来る。俺たちの、土地に。そして、俺たちを、"魔物"と、呼んで、殺していく」
「……四十五年」
「お前たちの、王が、始めたことだ。──だが、お前たちは、知らないのだろう。何も」
魔王は、ソラを、見た。
「その、少年のように。──『魔族は、敵だ』と、教えられて。理由も、知らずに、剣を、振るう」
ソラが、その言葉に、たじろいだ。
「な、なんだよ、それ……俺たちが、悪いみたいに──」
「悪い、とは、言っていない」
魔王は、首を、振った。
「お前たちも、被害者だ。──知らされずに、駒に、されている。それだけは、分かる」
彼は、俺を、見た。
「そこの、戦士でない男。お前は、気づいているのだろう。──この戦の、本当の姿に」
俺は、答えなかった。
だが、魔王は、俺の、沈黙を、読んだように、頷いた。
「……やはり、な」
そして、彼は、ソラの、聖剣を、指した。
「その剣。──五色に、なっているな」
ソラが、はっと、聖剣を、見た。
「本来、あの剣は、七色に、輝く。だが、今は、五色。──二柱の、精霊が、抜けている」
魔王の、目が、俺と、フィオナを、順に、見た。
「一柱は、そこの、娘に。氷の、気配がする。──もう一柱は」
彼の、目が、俺で、止まった。
「お前か。──剣霊の、気配。まとめ役が、お前を、選んだのか」
◇
「……なるほど」
魔王は、深く、頷いた。
「戦士でないのに、剣霊に、選ばれた。──妙なわけだ」
そして、ソラを、見て、哀しそうに、笑った。
「勇者よ。──その剣は、お前を、選んでいない」
ソラの、顔が、こわばった。
「な……」
「剣霊は、そこの、男を、選んだ。氷は、あの娘を、選んだ。──だが、お前を、選んだ精霊は、一柱も、いない」
「う、嘘だ!」
ソラが、叫んだ。
「俺は、勇者だ! 聖剣を、抜いた! だから──」
「抜いた、だけだ」
魔王は、静かに、言った。
「剣霊が、抜けて、ただの、剣に、なったから、抜けた。──選ばれた、わけではない」
その言葉は。
俺が、窪地で、ソラに、言ったことと、同じだった。
ソラの、顔から、血の気が、引いていった。
「……なんで」
彼は、掠れた声で、呟いた。
「なんで、あんたに、そんなことが、分かるんだよ……!」
「俺も、かつて、聖剣に、触れたからだ」
魔王が、言った。
窪地の、静寂のような、声で。
「若い頃。──この、魔族領を、守るために、俺は、あの剣を、求めた。精霊の、力があれば、王国を、退けられると、思った」
彼は、自分の、手を、見た。
「だが──剣は、俺も、選ばなかった。『お前は、守るために、剣を、求めている。だが、その剣は、奪うためのものではない』と」
魔王は、哀しそうに、笑った。
「精霊は、正しく、使う者しか、選ばない。力で、ねじ伏せようとする者を、拒む。──俺も、お前も、同じだ、勇者よ」
ソラは、聖剣を、握りしめたまま。
立ち尽くしていた。
「俺は……」
その声が、震えていた。
「俺は、何のために……」
◇
俺は、その光景を、見ながら。
猛烈な速度で、盤面を、組んでいた。
まともに、戦えば、勝てない。
だが──この魔王は、殺す気がない。「殺しても終わらない」と、疲れている。今なら、戦わずに、退ける。
「魔王」
俺は、口を、開いた。
「俺たちは、あんたと、戦いに、来たわけじゃない。聖剣を、取りに、来ただけだ。──もう、用は、済んだ。退かせて、もらう」
魔王の、目が、俺を、見た。
「……逃げるのか」
「ああ」
俺は、即答した。
「勝てない相手と、戦うほど、無謀じゃない。──あんたには、まだ、遠く及ばない」
魔王が、少し、驚いた顔を、した。
そして──小さく、笑った。
「……面白い、男だ。強さを、誇らず、力の差を、認める。──お前のような、人族は、初めて見た」
彼は、道を、譲るように、一歩、下がった。
「行け。──今日は、見逃す」
「……いいのか?」
俺は、聞いた。
「聖剣を、持って、帰るぞ。あんたを、討つための、道具を」
「構わん」
魔王は、静かに、言った。
「その剣は、真の力を、出さない。剣霊が、抜けている。──ただの、よく斬れる剣だ。それで、俺を、討てると、思うなら、やってみるがいい」
彼は、俺を、見た。
「それに──お前は、気づいている。この戦の、本当の姿に。ならば、いつか」
魔王の、声が、低くなった。
「お前は、俺の、前に、また、立つ。──剣を、持ってではなく。答えを、持って」
その言葉に。
俺は、応えなかった。
だが──魔王の、言う通りだった。
◇
俺たちは、退いた。
魔王は、動かなかった。ただ、静かに、俺たちが、去るのを、見送っていた。
霧の森を、抜けるまで。
ソラは、一言も、喋らなかった。
聖剣を、握りしめて。俯いて。ただ、歩いていた。
そして、森を、抜けて。街道に、出たところで。
ソラが、ぽつりと、言った。
「……兄貴」
「ん?」
「あいつ……魔王。──悪い奴、なのか?」
俺は、答えなかった。
「俺、あいつを、倒すために、召喚された。魔族は、敵だって、教わった。──でも、あいつ」
ソラの、声が、震えていた。
「疲れてた。すげえ、疲れてた。……悪い奴の、目じゃ、なかった」
「……」
「なあ、兄貴。俺、何と、戦ってるんだ?」
俺は、その問いに。
すぐには、答えなかった。
──まだ、早い。
ソラは、今、揺れている。「魔族は敵」という、王国の教えが、初めて、ぐらついている。だが、まだ、答えを、渡す時では、ない。
答えは、ソラが、自分で、辿り着かなければ、意味がない。
俺が、教えれば、それは、王国が、「魔族は敵だ」と、教えたのと、同じことだ。また、誰かの、言葉で、ソラの、盤面が、決まってしまう。
そうじゃない。
ソラは、自分で、選ばなければ、ならない。
「……ソラ」
俺は、静かに、言った。
「その問いは、大事だ。──だが、答えは、俺が、渡すものじゃない。お前が、自分で、見て、考えて、辿り着け。──何と、戦っているのか。誰が、敵なのか。それを、自分の目で、確かめろ」
ソラは、しばらく、俺を、見ていた。
そして、聖剣を、握りしめて、頷いた。
「……分かった」
その声には。
初めて、自分の、意志が、宿っていた。
◇
その夜。
野営の、焚き火の、傍らで。
フィオナが、俺の、隣に、座った。
「……レイジさん。魔王、逃がして、よかったんですか」
「ああ」
「あの人、ソラさんの、聖剣込み五百でも、勝てない相手でしたよね。──あなたの、盤面でも、無理だった、と」
「今のソラじゃ無理だ」
俺は、即答した。
「戦闘力だけで言えば戦える。しかし覚悟の差が違いすぎる。盤面に、乗せられる相手じゃない。─盤面の、外にいる」
フィオナは、少し、考えた。
「では……もし、魔王が、本気で、私たちを、殺そうとしていたら」
「全滅、だった」
俺は、静かに、答えた。
「あいつが、殺す気が、なかったから、退けた。それだけだ。──運が、よかった」
フィオナが、身を、震わせた。
「……怖い、ですね」
「ああ」
「でも」
彼女は、焚き火を、見つめた。
「あの魔王……悪い人には、見えませんでした。疲れた、目をして。──『殺しても終わらない』って」
「……そうだな」
俺は、火を、見つめた。
民を、守るために、四十五年、戦い続けてきた、為政者。
「あいつは──今の俺と、同じ、目をしてた」
「え?」
「少ない、手札で。守るべきものを、守ろうと、必死な、目だ」
◇
そして、俺は、焚き火に、枝を、くべながら。
盤面を、最悪の形で、組み直した。
魔王。ソラ。──盤面の、外にいる、二つの、力。どちらも、俺には、倒せない。嵌められない。動かせない。
そして、その二つが、もし。
俺たちに、牙を、剥いたら。
「……最悪だな」
俺は、呟いた。
「え?」
フィオナが、俺を、見た。
俺は、答えずに、盤面を、進めた。
王国は、いずれ、盤上の灯を、潰しに来る。
用済みに、なれば。
──その時、ソラは、どうなる。
今は、懐いている。だが、あいつは、王国の、駒だ。王が『あのクランを、討て』と、命じれば。
あの、五百の膂力が、こちらに、向く。
そして、魔王。あいつから、見れば、俺たちも、"攻めてくる人族"だ。いつ、敵に、回っても、おかしくない。
──三方向。
王国。ソラ。魔王。
そのすべてが、敵に、なりうる位置に。盤上の灯は、いる。しかも、この中で、一番、弱い。
「……守れるか。これを」
俺は、焚き火を、見つめた。
まともに、考えれば、詰みだ。三つの、規格外に、挟まれて、潰される。
だが──詰みの盤面ほど、俺の、領分だ。
◇
どこかに、活路が、ある。
三つの力の、どれか一つでも、敵から、外せれば。二つでも、外せれば。──盤上の灯は、生き残れる。
王国は、動かせない。──構造そのものが、敵だ。腐った根から、生えている。
なら。
俺の、目が、焚き火の、向こうで、眠る、ソラを、捉えた。
聖剣を、抱いて。「何と、戦ってるんだ」と、問い始めた、少年を。
そして──魔王の、去り際の、言葉が、蘇った。
『お前は、俺の、前に、また、立つ。──剣を、持ってではなく。答えを、持って』
「……答えを、持って、か」
その言葉の、意味を。
俺は、まだ、掴めずにいた。
だが──その言葉は、なぜか、頭の隅に、残って、消えなかった。
まるで、詰みの盤面に、差し込まれた、一筋の、活路のように。
「レイジさん?」
フィオナが、俺の、顔を、覗き込んだ。
「……なんでも、ない」
俺は、答えた。
「ただ──少し、厄介な、盤面に、なった。それだけだ」
だが、その、厄介な盤面の、隅に。
小さな、光が、灯り始めているのを。
俺は、まだ、認めたくは、なかった。




