第31話 岩を砕け
四日目の、朝だった。
霧の森の、奥へ。俺たちは、進んでいた。
昨日の一件から、ソラは、静かだった。
隊列の中央で、剣に、手をかけることもなく、ただ、俺の指示に、従って、歩いていた。
そして、時折──俺の、横を歩く、フィオナを、ちらちらと、見ていた。
フィオナは、気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。前だけを、見て、歩いていた。
「……レイジ」
ソラが、小声で、俺に、囁いた。
「昨日の、あれ。俺が、剣を、抜かなきゃ……七体、来なかったんだよな」
「ええ」
「……悪かった。フィオナも、危険に、晒しちまった」
「気にしなくて、いいです」
俺は、答えた。
「誰も、死ななかった。──それで、十分です」
「でも」
ソラは、俯いた。
「今日は……ちゃんと、やる。あんたの、言う通りに。──フィオナを、守れるように」
その声には、昨日までの、驕りは、なかった。
◇
昼過ぎ。
俺たちは、渓谷の、縁に、出た。
深い、切れ込み。底には、川が、流れている。ミサンガが、その水音を、拾っていた。
そして──向こう岸に、進むべき道が、続いていた。
「……渡れねえな」
ニックが、渓谷を、覗き込んだ。
「橋も、ねえ。降りて、川を、渡るか?」
「駄目だ」
俺は、腕輪の視界で、底を、読んだ。
「川が、速すぎる。それに──底に、いる。魔物だ。水中に、潜んでる。魔力を、使えば、一発で、食いつかれる」
俺は、渓谷の、縁を、歩いた。
地形を、読む。岩の、配置。傾斜。崩れやすい、場所。
そして──向こう岸との、間に、突き出した、巨大な岩を、見つけた。
渓谷の、中ほど。両岸から、せり出した岩が、あと少しで、届きそうな距離で、向き合っていた。
「……あれか」
俺は、呟いた。
◇
「フィオナ」
「はい」
「あの、向こう岸の、突き出した岩を、氷で、砕けるか」
フィオナは、その岩を、見て、少し、考えた。
「……無理です」
彼女は、首を、振った。
「あの大きさを、根元から、砕くには、私の魔力では、足りません。それに──ここで、大きな魔力を、使えば、川底の、魔物が、来ます」
「だと、思った」
俺は、頷いた。
「では、どうするんですか。あの岩を、落として、橋にしたいんですよね。──でも、私の氷では、砕けない。川を、渡る、別の道も、ない」
「一人、います」
俺は、答えた。
そして、ゆっくりと、振り返った。
隊列の、中央を、見た。
ソラを。
「……ソラ」
「え?」
彼は、きょとんと、俺を、見返した。
「一つ、頼みたいことが、あります」
◇
俺は、渓谷の、こちら側の、岩を、指した。
向こう岸の、突き出した岩と、向き合う、位置。
「ここに、立ってください。そして、向こう岸の、あの岩を──剣で、砕いてください」
ソラの、目が、丸くなった。
「……は? 剣を、抜いていいのか?」
「今は、いいです」
俺は、頷いた。
「ここは、渓谷です。魔物は、川の底にいる。あなたが、対岸の岩を、砕いても──川を、挟んでいるから、すぐには、来られない」
「え、いや、でも」
ソラは、困惑していた。
「なんで、岩を、砕くんだ? 意味、あるのか?」
「あります。ですが、今は、説明しません。──ただ、砕いてください。あの岩の、根元を」
「根元?」
「ええ。てっぺんじゃない。──向こう岸に、生えている、その、付け根を」
ソラは、しばらく、俺を、見ていた。
そして、ちらりと、フィオナを、見た。
フィオナは、腕を組んで、成り行きを、見ている。
ソラは、ごくり、と、唾を、飲んだ。
「……よく、分かんねえけど」
彼は、剣を、抜いた。
「あんたの言うこと、聞くって、約束したしな!」
◇
ソラが、渓谷の縁の岩に、立って、剣を、構えた。
その瞬間、彼の魔力が、青白く、迸った。
──ミサンガが、川底の、気配を、拾った。魔物が、ざわめく。だが、川の、向こう側。すぐには、来られない。
「──せぇい!!」
ソラが、剣を、振り下ろした。
対岸の、突き出した岩の、根元に。
轟音。
岩が、砕けた。付け根から。まるで、豆腐のように。
そして──
巨大な岩塊が、渓谷に、崩れ落ちた。
だが、真下には、落ちなかった。
砕けた根元の、角度。ソラが、砕いた、その一点。──岩は、こちら側へ、傾いて、倒れた。
ゆっくりと。
両岸の、間に。
橋のように。
どぉん、と。
岩塊が、両岸に、渡った。
完璧な、角度で。こちら側の岩と、向こう岸に、跨がるように。
渓谷を、渡る、一本の、石の橋が──できていた。
「……は?」
ソラが、剣を、握ったまま、呆然と、それを、見た。
「え……橋?」
隊列が、ざわめいた。
「……嘘だろ」ニックが、目を、丸くした。「岩が、橋に、なった」
そして、フィオナが。
腕組みを、解いて、その石橋を、じっと、見ていた。
「渡れます」
俺は、静かに、言った。
「全員、続いてください。急ぎます。──川底の魔物が、動く前に」
十人が、一斉に、その石橋を、駆け渡った。フィオナも、ニックも。
そして、最後に、ソラが──剣を、握ったまま、呆然と、立ち尽くしていた。
「ソラ! 渡れ!」
俺の声で、彼は、我に返り、慌てて、橋を、渡った。
◇
対岸に、着いて。
ソラは、渡ってきた、石橋を、振り返って、見ていた。
さっきまで、対岸に、突き出していた岩。それが、今、渓谷を、渡る、橋になっている。
自分が、砕いた、岩が。
「……なあ、レイジ」
彼は、掠れた声で、言った。
「今の、何だ? 俺、ただ、岩を、砕いただけだぞ。言われた、通りに。──なのに、なんで、橋に、なったんだ?」
俺は、足を、止めて、振り返った。
「あなたが、砕いた、根元の角度です」
「……角度?」
「岩は、重心と、砕けた面の、角度で、倒れる方向が、決まります。──俺は、あの岩を、こちら側へ、倒したかった。だから、あなたに、根元を、砕かせた。てっぺんを砕けば、崩れて、落ちるだけです。ですが、根元の、あの一点を砕けば──岩は、支えを失って、重心の方向へ、傾いて、倒れる」
俺は、石橋を、指した。
「その重心は、こちら側に、向いていた。──だから、橋に、なった」
◇
ソラは、その説明を、聞いて、しばらく、黙っていた。
そして。
「……計算してた、のか」
「ええ」
「岩が、どっちに、倒れるか。俺が、どこを、砕けば、いいか。──全部?」
「全部です」
俺は、頷いた。
「あなたの、一撃の、威力。岩の、大きさ。重心。砕ける、角度。倒れる、方向。──全部、計算した上で、『根元を砕け』と、言いました」
ソラは、自分の、剣を、見た。
そして、俺を、見た。
「……あんた、俺の、力を──使ったのか」
「はい」
俺は、答えた。
「俺には、あの岩は、砕けません。総合、九十七です。かすり傷一つ、つけられない。──ですが、あなたなら、砕ける。だから、あなたに、砕かせた。俺が、どこを、どう砕けばいいかを、決めて」
「……」
「あなたの、力と。俺の、盤面。──二つが、揃って、橋が、できた」
ソラは、呆然と、俺を、見ていた。
そして、掠れた声で、言った。
「……そんなこと、考えたこと、なかった」
彼は、剣を、握りしめた。
「俺、いつも、一人で、戦ってた。強いから、一人で、全部、やれると、思ってた。──でも、あんたと、組んだら……岩が、橋に、なるのか」
「なあ、レイジ!」
ソラが、俺の、前に、来た。
その目が、きらきらと、輝いていた。
昨日までの、しょげた目とは、違う。
「もっと、教えてくれよ! 盤面ってやつ! 俺の力を、どう使えば、こういう、すげえこと、できるのか!」
彼は、身を、乗り出した。
「俺、ずっと、思ってたんだ。強いだけじゃ、駄目なんじゃないかって。でも、他に、何をすればいいか、分かんなかった。──でも、あんたと組めば、俺の力、もっと、面白いことに、使えるんだろ?」
彼は、笑った。心の底から、楽しそうに。
その、はしゃぎっぷりに。
ニックが、噴き出した。
「はは、なんだよ、勇者様。すっかり、レイジに、懐いて。──なんか、弟みたいだな」
その言葉に。
ソラの、動きが、止まった。
「……弟?」
「おう。ちょろちょろ、後ろ、ついて回って。『レイジ、レイジ』ってな」
ニックが、からかうように、笑った。
だが──ソラは、からかわれたことを、怒らなかった。
それどころか。
「……弟、か」
彼は、その言葉を、噛みしめるように、繰り返した。
そして、じわじわと、顔を、赤くして。
「……へへ」
嬉しそうに、笑った。
「俺、弟か。……いいな、それ」
「え、そこ、喜ぶとこ?」ニックが、面食らった。
「だって、俺」
ソラは、頭を、掻いた。
「兄弟とか、いなかったからさ。……こっちの世界に、来てから、ずっと、一人だったし」
その言葉に、隊列が、少し、静かになった。
十四で、異界に、放り込まれて。「勇者」と、持ち上げられて。その実、ずっと、一人だった、少年。
「……なあ、レイジ」
ソラが、俺を、見た。少し、照れくさそうに。
「俺、あんたのこと……兄貴って、呼んでいいか?」
◇
俺は、その問いに。
すぐには、答えられなかった。
兄貴。──重い、言葉だった。
こいつは、王国の、駒だ。聖剣を取らせて、俺たちを潰させて、用が済んだら、使い捨てられる。そういう、盤面の上に、いる。そして、俺は、その盤面を、ひっくり返そうとしている。こいつを、取り戻すために。
そんな相手に、「兄貴」と、呼ばれて。いいのか。
──いや。
俺は、思い直した。
こいつは、まだ、どの盤面にも、乗っていない。王国の駒でも、俺たちの仲間でも、ない。ただ、強すぎて、一人だった、少年だ。
その少年が、初めて、「兄弟」を、欲しがっている。
なら。
「……好きにしろ」
俺は、答えた。
「兄貴でも、レイジでも。──呼びたいように、呼べ」
ソラの、顔が、ぱっと、輝いた。
「ほんとか!? じゃあ、兄貴な! 兄貴!」
「……ああ」
「兄貴! なあ、兄貴!」
「……うるさい。一回で、いい」
「へへっ」
ソラは、心底、嬉しそうに、笑った。
◇
そして、その時。
「……ふうん」
静かな、声が、した。
フィオナだった。
彼女は、石橋を、見て、それから、ソラを、見ていた。
「あなた、意外と……分かる人だったんですね」
ソラの、動きが、止まった。
「え?」
「レイジさんの、盤面の、価値」
フィオナは、腕を、組んだ。
「昨日まで、あなたは、自分の強さしか、見ていなかった。──でも、今日、自分の力が、レイジさんの盤面の、駒になって、橋を作った。……それを、『すげえ』と、思えた」
彼女は、少しだけ、目を、細めた。
「レイジさんの、価値を、分からない人は、嫌いです。──でも、あなたは、分かったみたいですね」
「フィ、フィオナ……!」
ソラの、顔が、ぱっと、明るくなった。
「じゃあ、俺のこと──」
「勘違いしないでください」
フィオナは、ぴしゃりと、言った。
「まだ、少しだけ、です。……本当に、少しだけ」
そして、つん、と、顎を、上げて、先へ、歩いていった。
だが──その、去り際。
彼女の、口元が、ほんの少し、緩んでいたのを。俺は、見た。
◇
ソラは、その後ろ姿を、見て。
ぼうっと、していた。
「……フィオナが、俺のこと、少し、認めてくれた……!」
彼は、拳を、握って、飛び跳ねた。
だが、すぐに、しゅんと、なった。
「……でも、『兄貴』は、俺だけど。フィオナは、まだ、レイジのこと、『さん』付けなんだよな」
「……は?」
ニックが、聞き返した。
「いや、なんでもねえ!」
ソラは、慌てて、首を、振った。
そして、俺は──その、やりとりを、聞きながら。
なんとも、言えない、気持ちに、なった。
──こいつ、本気で、フィオナのことが、好きなんだな。
そして、フィオナが、ソラを、認めた理由は。「レイジの価値を、分かったから」だ。
「……いや」
俺は、その思考を、止めた。
なぜ、俺が、そんなことを、考える。盤面には、関係ない。
「……関係ない」
俺は、小さく、呟いて、頭を、振った。
◇
その夜。
野営の、焚き火の、傍らで。
ソラが、俺の、隣に、座ってきた。
「なあ、兄貴」
「ん?」
「あんた、なんで、そんなに、いろいろ、見えるんだ? 岩が、どっちに倒れるとか。魔物が、どこから来るとか。誰が、どこに立てば、いいとか。──全部」
「観察と、計算だ」
俺は、答えた。
「特別な、力じゃない。ただ、見て、考えてるだけだ」
「俺にも、できるかな」
「できる」
俺は、即答した。
「昨日、あなたは、俺の隣で、盤面を、見てた。今日、あなたは、岩を、砕いた。──少しずつ、見えるようになる」
ソラは、嬉しそうに、笑った。
そして、ふと、真顔に、なった。
「……なあ、兄貴。あんた、なんで、俺に、こんなに、良くしてくれるんだ?」
俺の、手が、止まった。
「王国の、奴らは、みんな、俺を、『勇者様』って、持ち上げるけど……本当は、俺のこと、道具だと、思ってる。俺、知ってるんだ」
ソラは、膝を、抱えた。
「でも、あんたは、違う。俺のこと、道具じゃなくて……なんか、ちゃんと、人として、見てくれてる、気がする。──なんで?」
◇
俺は、その問いに、少し、考えた。
そして、答えた。
「──似てるからだ」
「似てる? 俺と、あんたが?」
「ああ」
俺は、火を、見つめた。
「俺は、弱すぎて、一人だった。あなたは、強すぎて、一人だった。──行き着く先は、同じだ」
「……」
「誰も、俺の力を、正しく使ってくれなかった。誰も、あなたの力を、正しく使ってくれなかった。──だから、俺は、自分で、盤面を、作った」
俺は、ソラを、見た。
「あなたにも、居場所が、いる。あなたの力を、正しく、置いてくれる、盤面が」
ソラは、しばらく、俺を、見ていた。
その目が、潤んでいた。
そして。
「……あんた、何なんだよ」
その言葉に、初対面の時の、棘は、なかった。
代わりに──憧れが、あった。
「弱いのに。俺より、ずっと、弱いのに。……なんで、あんたと、いると、こんなに、安心するんだ」
俺は、答えなかった。
代わりに、焚き火に、枝を、くべた。
火が、静かに、爆ぜた。
そして、俺は、心の中で、呟いた。
──神様。
あんたの頼み、思ったより、簡単かもしれません。
このバカ、案外、可愛いところが、あります。
◇
焚き火の、向こう。
フィオナが、毛布に、くるまって、こちらを、見ていた。
ソラと、俺が、並んで、話しているのを。
「……ずるいです」
彼女が、ぽつりと、呟いた。
「え?」
隣の、ニックが、聞き返した。
「なんでも、ありません」
フィオナは、つん、と、顔を、背けた。
だが、その頬が、少し、膨らんでいた。
「……あの人は、もう『兄貴』なのに。私は、まだ、『フィオナさん』」
「え? 何?」
「なんでも、ないと、言いました!」
「こわっ」
ニックが、首を、すくめた。
その、やりとりには、気づかず。
俺は、焚き火の、炎を、ただ、見つめていた。
──兄貴、か。
柄でもない。だが、悪い、気は、しなかった。
そして、その時。
霧の、奥から。
かすかに、何かが、聞こえたような、気が、した。
呼んでいる。──誰かを。
「……フィオナ」
「はい?」
「明日、聞きたいことが、ある」
「何、ですか」
「……いや。明日で、いい」
その、かすかな、呼び声の、正体を。
俺は、まだ、知らなかった。




