第26話 霧の中の盤面
三日後。
俺たちは、霧の壁の前に、立っていた。
十一人。
囮班、三人。採掘班、五人。護衛班、三人。
そして、俺と、フィオナ。
「──最後の確認をします」
俺は、地面に、地図を広げた。
十日前、この森で、俺が頭に叩き込んだ、全部が、そこにあった。
「霧に入ったら、音が消えます。声は、届きません。合図は、この笛です」
俺は、全員に、小さな骨笛を配った。
「短く一回、『了解』。短く二回、『警戒』。長く一回、『中断、撤退』」
「長い一回で、撤退……」
囮班のニックが、笛を見つめた。
「レイジ。それ、鳴らすの、誰だ」
「俺です」
俺は、答えた。
「俺の判断で、鳴らします。──鳴ったら、その瞬間に、全員、手を止めて、川へ走ってください。掘りかけでも、荷を置いても、構いません」
採掘班の、山岳三人組が、顔を見合わせた。
「そんなことしたら、依頼が」
「失敗します」
俺は、即答した。
「ですが、俺は、鳴らします。──必要なら」
俺は、全員を、見渡した。
「この森は、強い者から死にます。あなたたちは、全員、俺より強い。──だから、俺が、鳴らします」
◇
「──では、始めます」
俺は、腰の付与品に、順番に、魔力を通した。
梟の腕輪。狼のミサンガ。鷹の護符。静寂の耳飾り。
そして。
「【自己強化(小)】」
四つの砂時計が、頭の中で、走り始める。
その隣で。
「……レイジさん」
フィオナが、静かに、言った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「あなた、その付与品を、いくつ、同時に維持できるんですか」
「四つです」
「四つ」
彼女は、俺の腕を、見た。
腕輪。ミサンガ。護符。耳飾り。
「……変ですね」
「何がです」
「祝福を、受けていませんね」
俺の、思考が、止まった。
「セシリアさんが、いるのに。──なぜ、祝福を受けないんですか」
「……この森では、魔力が、光ります」
俺は、答えた。
「祝福も、魔力です。受ければ、俺が、光る」
「ええ。分かります」
フィオナは、頷いた。
「では、なぜ、付与品は、四つも使うんですか」
「…………」
「祝福一つ分の魔力より、付与品四つの方が、消費は多いはずです。──なのに、あなたは、祝福を捨てて、付与品を選んだ」
彼女の目が、細くなった。
「レイジさん。あなたの魔力は、十でしたね。この街の、最低値」
「……ええ」
「その魔力で、四つの付与品を、半日、維持し続ける。──それは、可能なんですか」
俺は、答えられなかった。
答えたくなかった、と言うべきかもしれない。
だが、この女は。
「──いえ」
フィオナは、そこで、言葉を、止めた。
「今は、いいです。依頼が、先ですから」
彼女は、杖を、握り直した。
「ですが、帰ったら。──全部、話してもらいます」
◇
霧に、入った。
音が、消えた。
いや、正確には、遠くなった。狼のミサンガが、拾っている。
十一人の足音が、すぐ隣にあるのに、まるで百歩先から届いているように、遅れて、薄く、聞こえる。
「……気味が悪い」
囮班の一人が、口を動かした。声は、ほとんど届かなかった。
俺は、手を挙げて、隊列を、止めた。
そして、地図を指して、順番に、方角を示した。
囮班は、南南西へ。
採掘班と護衛班は、北北東へ。
そして、俺とフィオナは、その中間へ。
『二刻後』
俺は、指で、そう示した。
ガラクタ二十三点が、時間差で、一斉に発動する時刻。
そこから、全部が、始まる。
◇
二刻。
俺とフィオナは、鉱脈から南へ二百歩の地点で、待機していた。
霧の中、彼女は、杖を抱えて、岩陰に、身を潜めている。
そして、俺は。
「……レイジさん」
フィオナが、口を動かした。
声は、届かない。だが、ミサンガが、拾った。
「一つ、確認します」
「はい」
「あなたは、なぜ、私と一緒に走るのですか」
俺は、答えた。
「あなたが、一人では、逃げ切れないからです」
「逃げ切れます」
「逃げ切れません」
俺は、即答した。
「この森は、音が消えます。あなたは、背後を取られても、気づけない。──俺のミサンガなら、拾えます」
「……」
「そして、視界。霧の中では、十歩先が見えない。──俺の腕輪なら、三十歩」
俺は、続けた。
「あなたは、走りながら、詠唱して、氷を撃つ。それだけで、精一杯です。周りを、見る余裕がない。──だから、俺が、見ます」
フィオナは、しばらく、黙っていた。
そして。
「……分かりました」
彼女は、頷いた。
「あなたが、私の目と、耳になる」
「はい」
「──では、私は」
彼女は、杖を、握りしめた。
「あなたの、光になります」
◇
その時。
ミサンガが、拾った。
南南西、四百歩。
──光った。
いや、音は、しない。だが、空気が、変わった。
魔力の、波。
二十三点のガラクタが、一斉に、発動したのだ。
「──来た」
俺は、呟いた。
そして、その瞬間。
地響き。
北北東から、南南西へ。三つの、巨大な質量が、動き始めた。
魔物が、囮に、食いついた。
「今です!」
俺は、笛を、短く一回、吹いた。
『了解』──採掘、開始。
北北東の岩壁で、魔力の刃が、光り始めた。
◇
「フィオナさん」
俺は、彼女の腕を、掴んだ。
「二刻です。二刻経ったら、ガラクタは、切れる。魔物は、そこに何もないと気づいて、戻ってくる」
「ええ」
「その前に──あなたが、光る」
俺は、彼女の目を、見た。
「魔物が、囮に辿り着く前に。俺たちが、次の光になる。そして、走る。半日、走り続ける」
「……分かりました」
フィオナは、杖を、掲げた。
「どこまで、光ればいいですか」
「──全力で」
俺は、答えた。
「この森で、誰も見たことのない光を、見せてください」
彼女は、少しだけ、笑った。
「……戦術的な、要求ですね」
「そうです」
「なら、応えましょう」
そして。
「『氷嵐槍』!!」
◇
世界が、白く、染まった。
霧の中に、青白い光が、爆発した。
無数の氷の槍が、空へ、放たれる。それは、何も貫かず、何も殺さず──ただ、空中で、砕けて、散った。
意味のない、一撃。
だが。
「──眩しいな」
俺は、思わず、そう呟いた。
この森は、霧が、光を食う。十歩先も見えない。
その霧の中で、彼女の魔力が、光っていた。
まるで、夜空に、星を撒いたように。
そして、その光は。
『地響きが、止まった。』
南南西の、三つの質量が。
止まって、そして──反転した。
「来ます!」
俺は、叫んだ。
「走ります! ついてきてください!」
◇
半日の、逃走が、始まった。
俺は、走りながら、頭の中の砂時計を、確認し続けた。
腕輪、残り四半刻。ミサンガ、残り半分。護符、切れかけ。耳飾り、切った。
「フィオナさん! 左です! そこに倒木があります!」
「見えません!」
「跳んでください! 三歩先!」
彼女は、俺の言葉だけを、頼りに、跳んだ。
見えない倒木を。
──信じて。
「後ろ、八十歩! 三体、揃ってます!」
「撃ちますか!」
「まだ! 引きつけてください!」
俺たちは、走った。
霧の中を。音の消えた世界を。
彼女は、走りながら、断続的に、氷を放つ。何も貫かない、意味のない一撃。ただ、光るためだけの。
そして、魔物は、その光を、追ってきた。
◇
四半刻ごとに、俺は、走りながら、付与品に、魔力を通し直した。
腕輪。ミサンガ。護符。
指先が、痺れる。
魔力の残量が、削れていく。
「レイジさん! 大丈夫ですか!」
「問題ありません!」
嘘だった。
俺の魔力は、この街で、最低値だ。
四つの付与品を、半日、維持し続ける。──それは、本来、不可能な計算だった。
だが。
「──行けます」
俺は、走りながら、そう答えた。
行かなければ、彼女が、死ぬ。
◇
二刻が、過ぎた。
三刻。
四刻。
俺たちは、走り続けていた。
計算通りの、逃走経路。俺が、十日前に、頭に叩き込んだ地形。
倒木を、跳ぶ。斜面を、駆け下りる。岩場を、迂回する。
「後ろ、六十歩! 詰められてます!」
「氷を、置きます!」
フィオナが、振り返らずに、杖を振った。
背後の地面が、凍りつく。
三つの質量が、滑って、体勢を崩す音が、ミサンガに、届いた。
「距離、九十歩! 稼げました!」
「まだ、走れます!」
彼女は、荒い息で、そう答えた。
その顔が、汗と、泥に、まみれていた。
──綺麗だな。
俺は、走りながら、そんなことを、思った。
そして、自分の思考に、驚いた。
「……何を、考えている」
盤面に、感情は、要らない。
そのはずだ。
だが──もう、乗ってしまっている。
とっくの昔から。
◇
五刻目。
異変が、起きた。
『二体』
ミサンガが、拾った。
「……フィオナさん、止まってください!」
俺は、彼女の腕を、掴んで、岩陰に、引き込んだ。
「どうしました!」
「──一体、減っています」
俺の背筋に、冷たいものが、走った。
三体、追ってきていた。
だが今、聞こえるのは、二体分の足音だけだ。
「一体、どこに」
俺は、必死に、ミサンガに、意識を集中した。
音は、遠い。霧が、食っている。
だが。
「……北北東」
俺は、その方角を、見た。
北北東。
──採掘班の、いる方角だ。
「まさか」
俺は、地図を、頭の中に、展開した。
そして、気づいた。
俺たちが、逃げすぎたのだ。
半日、走り続けた。計算通りに。だが、計算通りに走った結果──俺たちは、鉱脈から、遠く離れすぎていた。
そして、その距離が。
「囮の、光が、遠すぎる」
俺は、呟いた。
三体のうち、一体が、こう判断したのだ。
『あの光は、遠い。だが──近くに、別の光がある』
採掘班の、魔力の刃。
「……っ」
俺は、笛を、握った。
長く、一回。
──撤退の、合図。
指が、震えた。
◇
「レイジさん!」
フィオナが、俺の手を、掴んだ。
「まだです!」
「……!」
「採掘は、あとどれくらいですか!」
「……あと、一刻」
「なら、一刻、稼ぎましょう!」
「無理です!」
俺は、叫んだ。
「一体が、採掘班に向かってる! 護衛班は三人しかいない! あの魔物を、足止めできません!」
「だから!」
フィオナは、俺の手を、強く、握った。
「──もっと、光ればいい」
俺の、思考が、止まった。
「……何を」
「あの一体を、呼び戻すんです」
彼女は、杖を、握り直した。
「私が、もっと明るく光れば。採掘班の刃より、ずっと明るく光れば。──あの一体は、戻ってきます」
「そんなことをすれば、あなたの魔力が」
「空になります」
彼女は、あっさりと、言った。
「そして、空になったら、私は、逃げられません」
「──駄目だ!!」
俺は、叫んでいた。
自分でも、驚くほどの、大声だった。
「駄目だ、フィオナ! それは、駄目だ!」
◇
彼女が、目を、見開いた。
俺も、自分の言葉に、遅れて、気づいた。
──名前を、呼び捨てにした。
初めて、だった。
「……レイジ、さん」
フィオナの、頬が、染まった。
そして、彼女は。
笑った。
「──やっと、ですね」
「……何が」
「ずっと、待っていました」
彼女は、静かに、言った。
「あなたが、私を、駒じゃなく、私として、扱ってくれるのを」
俺は、答えられなかった。
「レイジさん。あなたは、さっき、言いましたね。『危ないと判断したら、中断する』と」
「……ええ」
「なら、判断してください」
彼女の紫の目が、まっすぐに、俺を、見ていた。
「私が、ここで光れば、十一人が、生きて帰れます。依頼も、達成できます。──私の生存率は、たぶん、五割」
「……」
「私が、光らなければ。採掘班の五人が、危ない。護衛班の三人も。──八人の生存率が、六割」
彼女は、静かに、続けた。
「盤面を、見てください。──どちらが、最善手ですか」
◇
俺は、その問いに。
答えられなかった。
盤面は、答えを、出している。
彼女が、光るべきだ。
一人の五割と、八人の六割。数字は、明白だ。──俺は、そう計算するべきだ。
だが。
「……違う」
俺は、呟いた。
「違う。──盤面は、そう言っていない」
俺は、頭の中の地図を、もう一度、展開した。
必死に。
猛烈な速度で。
──俺は、十日前、この森を、四日かけて、歩いた。
地形。傾斜。倒木。岩場。川。
全部、頭に、入っている。
そして。
「──あった」
俺は、顔を上げた。
「フィオナさん。あなたは、光らない」
「レイジさん、聞いてください、私は──」
「聞くのは、あなたです」
俺は、彼女の腕を、掴んだ。
「北北東へ、五十歩。そこに、崖があります。──俺が、飛び込んだ崖だ」
「崖?」
「その下に、川が流れている」
俺は、地図を、指した。
「川は、魔力の光を、遮る。──だから、俺は、あの日、あそこで、追跡を切った」
俺は、彼女の目を、見た。
「そして、その川は──北北東へ、流れている」
フィオナの、目が、見開かれた。
「……採掘班の、方角」
「そうです」
俺は、頷いた。
「川に飛び込んで、流されれば。俺たちは、採掘班のところへ、一気に、戻れる。──二刻の距離を、四半刻で」
「……!」
「そして、その途中で、水から出て、光ればいい」
俺は、続けた。
「採掘班の、近くで。──あの一体を、目の前で、引き剥がす」
俺は、笛を、握り直した。
「魔力を、全部使う必要は、ない。近くで光れば、少しの光で、済む。──あなたは、逃げ切れる」
◇
フィオナは、しばらく、俺を、見ていた。
そして。
「……あなたは」
彼女の声が、震えていた。
「あなたは、本当に」
「行きますよ」
俺は、彼女の手を、掴んだ。
「掴まってください。──落差、二十歩。水深は、たぶん、大丈夫です」
「たぶん!?」
「一度、飛び込みました」
「一度!?」
「行きます!」
俺は、走った。
彼女の手を、掴んだまま。
背後で、二体の質量が、迫っていた。
崖の縁。
霧の下は、白い、何も見えない虚空。
「──【自己強化】、維持!」
俺たちは、跳んだ。
◇
水は、冷たかった。
そして、深かった。
俺は、水中で、彼女の手を、放さなかった。
流れに、身を任せる。北北東へ。採掘班の、方角へ。
そして、四半刻後。
俺たちは、水から、顔を出した。
「──ここです!」
俺は、岸を、指した。
腕輪の視界が、その先を、捉えていた。
岩壁。魔力の刃の、光。
採掘班。
そして、その手前に。
一体の、巨大な質量が、迫っていた。
「フィオナさん!!」
「──『氷嵐槍』!!」
彼女の魔力が、水面で、爆発した。
至近距離の、光。
一体が、振り返る。
そして。
「──来ました!」
「走ります!」
俺たちは、再び、走り出した。
背後に、一体を、引き連れて。
そして、その先には。
「──掘り、終わってます!」
護衛班の、笛の音。短く、一回。
『了解』
採掘、完了。
俺は、笛を、握った。
そして。
長く、一回。
『撤退』
◇
森を出たのは、その日の、夜だった。
十一人。
全員、生きていた。
そして、荷馬の背には──精霊銀の、原石が、積まれていた。
「……はぁ、はぁ」
俺は、霧の壁の外で、膝をついた。
魔力が、空だった。
四つの付与品を、半日。──限界を、遥かに超えていた。指先の感覚が、ない。
「レイジさん!」
セシリアが、駆け寄ってきて、俺の背に、手を当てた。
回復魔法が、流れ込んでくる。
「無茶を、なさいましたね」
「……計算の、範囲です」
「その言葉、聞き飽きました」
彼女は、微笑んだまま、少しだけ、怒っていた。
そして。
「──レイジさん」
紺のローブが、俺の前に、立った。
フィオナ。
彼女も、ずぶ濡れで、泥だらけで、荒い息をついていた。
「……お疲れさまでした」
「あなたも」
「一つ、聞きます」
彼女は、俺を、見下ろした。
「あなた、なぜ、あの崖を、覚えていたんですか」
「……十日前に、飛び込んだので」
「違います」
彼女は、首を振った。
「あなたは、十日前、あの崖に、追い詰められた。読み違えて、行き止まりだった。──そう、言っていましたね」
「……ええ」
「なのに、あなたは、それを、覚えていた。失敗した場所を」
俺は、答えられなかった。
「普通の人は、失敗を、忘れます。恥ずかしいから。思い出したくないから」
フィオナは、静かに、言った。
「でも、あなたは、覚えていた。──失敗も、盤面の一部だから」
彼女は、俺の前に、しゃがみ込んだ。
そして、俺の目を、まっすぐに、見た。
「レイジさん。私、あなたのことを、知りたいと言いました」
「……ええ」
「今日、少しだけ、分かりました」
彼女は、微笑んだ。
「あなたは、盤面を、組んでいるのではありません」
「……」
「盤面に、なっている」
俺は、その言葉に、答えられなかった。
フィオナは、立ち上がった。
そして、去り際に、こう言った。
「──帰ったら、全部、話してもらいますからね!」
「……何をですか」
「あなたの、魔力のことです」
彼女は、振り返らずに、言った。
「魔力十で、付与品を四つ、半日。──そんなこと、できるはずが、ありません」
紺のローブが、闇に、消えた。
「あなたは、まだ、私に、隠し事をしている」




