第25話 指せない一手
その夜、俺は、眠れなかった。
執務室の机に、記録を広げて、盤面を、何度も、組み直した。
十一人の編成。囮の配置。誘導経路。採掘の手順。退路。
──全部、完璧だ。
一つを除いて。
「囮が、動かない」
俺は、記録の一点を、指で押さえた。
二十三点のガラクタ。一箇所に集めて、時間差で一斉発動させる。この森で、最も明るく光る、魔力の塊になる。
魔物は、確実に、そこへ向かう。
だが──そこに、何もないと分かれば。
戻ってくる。
「二刻」
俺は、呟いた。
それが、限界だ。魔物が「そこには何もいない」と気づくまでの、猶予。
そして、採掘に必要な時間は、半日。
「……足りない」
三度目の計算だった。
三度とも、同じ答えが出た。
足りない。
◇
必要なのは、動く囮だ。
光り続け、走り回り、魔物を引きつけ、注意を逸らし続ける、生きた囮。
条件は、三つ。
一つ、大量の魔力を持っていること。ガラクタ二十三点より、明るく光れること。
二つ、追われても逃げ切れること。足止めの手段を持ち、川まで走り抜けられること。
三つ、単独で、判断できること。俺の指示が届かない場所で、状況を読んで、自分で動けること。
「……一人しか、いない」
俺は、ペンを、置いた。
八十人の名簿。その全部が、頭に入っている。
魔力量。走力。判断力。度胸。
その三つを、同時に満たす人間は。
「フィオナさん、しか」
俺は、その名前を、口に出して。
そして、ペンを、握り直した。
「──他の手を、探す」
◇
四度目の計算を、始めた。
囮を、二箇所に分ける。片方が破られても、もう片方が引きつける。
──駄目だ。ガラクタは二十三点しかない。二箇所に分ければ、光が弱くなる。魔力の総量が足りない。
囮に、動く仕掛けを作る。荷車に載せて、坂を転がす。
──駄目だ。あの森は、倒木と斜面だらけだ。荷車は、十歩も転がらない。
採掘の時間を、短縮する。人数を増やして、一気に掘る。
──駄目だ。足場が狭い。五人以上は、立てない。
魔物を、倒す。
──駄目だ。四足、体重は俺の五倍以上、三体。あの森で、正面から戦って勝てる編成を組めば、その全員が、明るく光る。
「……くそ」
俺は、記録を、睨んだ。
五度目。六度目。七度目。
そのたびに、盤面が、同じ答えを、返してくる。
フィオナを、囮にしろ。
それが、最善手だ。
彼女なら、光る。彼女なら、逃げ切れる。彼女なら、判断できる。
成功率は、跳ね上がる。採掘の時間が、確保できる。十一人が、全員、生きて帰れる。
そして、彼女自身も。
「……逃げ切れる」
俺は、計算した。
追われた場合の、逃走経路。氷で足止めをしながら、川まで、およそ六百歩。彼女の脚力と、詠唱速度と、魔力量を、全部、頭に入れて、計算する。
生存率。
「……九割」
俺は、その数字を、見つめた。
九割。
八十人の駒を、俺は、平然と並べ替えてきた。この依頼は、この編成なら死なない。この地形なら、この人選が最適だ。そう判断して、彼らを、送り出してきた。
生存率、九割。
──それは、俺が「安全」と判断する、水準だ。
なのに。
「…………」
俺の手は、動かなかった。
『囮役:フィオナ』
たった、その一行が。
書けなかった。
◇
──なぜだ。
俺は、自分に、問うた。
計算は、合っている。生存率九割は、この森の依頼としては、破格に高い。俺自身が単独で入った時の生存率は、たぶん、五割もなかった。
彼女の方が、遥かに、安全だ。
なのに、なぜ。
「……感情が、混じっている」
俺は、静かに、その事実を、認めた。
盤面の計算に、感情が、混じっている。
だから、指せない。
「──なら、排除しろ」
俺は、自分に、言い聞かせた。
前世で、何百回も、やってきたことだ。
盤上に、感情は要らない。駒に、思い入れは、要らない。この駒が好きだから残す、この駒が嫌いだから捨てる。──そんな指し方をする奴は、必ず、負ける。
俺は、それを、知っている。
だから、排除しろ。
彼女を、駒として、見ろ。
魔力量、九十。総合、百九十二。走力、平均以上。判断力、極めて高い。生存率、九割。
──駒だ。
ただの、優秀な、駒だ。
俺は、ペンを、握った。
そして。
『囮役:フィオ…』
そこで、手が、止まった。
◇
──三日前。
『私は、迎えに行く準備を、していました』
俯いた、彼女の顔が、浮かんだ。
『十四日の期限まで、まだ四日ありましたが。……準備だけは、していました。荷物も、まとめて』
『馬鹿みたいでしょう。まだ、期限も来ていないのに』
俺は、ペンを、置いた。
「……関係ない」
そう、呟いた。
関係ないはずだ。彼女が何をしていようが、盤面の計算には、影響しない。
それは、数字じゃない。
数字じゃないものは、盤面に、乗らない。
──なのに。
俺の頭の中で、それは、確かに、盤面の上に、乗っていた。
重石のように。
◇
「……盤面を、組み直す」
俺は、新しい紙を、取り出した。
八度目。
前提を、変える。
「フィオナさんを使わずに、採掘の時間を確保する方法」
そう、書いた。
そして、その瞬間に、気づいた。
──これは、計算じゃない。
俺は、今、答えありきで、盤面を組もうとしている。
「フィオナを使わない」を、前提に。
それは、盤面を組むことじゃない。
盤面を、歪めることだ。
「…………」
俺は、その紙を、見つめた。
前世で、俺が、最も軽蔑していた指し方だった。
結論が先にあって、そこへ辿り着くために、理屈を、後から捏ねる。負ける奴が、必ずやることだ。
そして今、俺は、それを、やっている。
「……くそ」
俺は、紙を、握りつぶした。
◇
窓の外が、白み始めていた。
一晩、かかった。
結局、答えは、出なかった。
いや──答えは、出ている。
最初から、出ていた。帰り道の、三日間で。
俺は、それを、指せずにいるだけだ。
「……なぜだ」
俺は、机に、突っ伏した。
そして、その姿勢のまま、頭の中で、もう一度、問うた。
なぜ、指せない。
なぜ、彼女だけ。
八十人の駒を、平然と、並べ替えてきた。あの三人組を、山岳の依頼に送った。元漁師の斥候を、川沿いに配置した。誰も、死ななかった。俺の計算が、正しかったからだ。
彼らのことも、俺は、大事だと思っている。死なせたくない。そう、思っている。
なのに。
彼らは、指せる。
彼女だけが、指せない。
「……何が、違う」
俺は、目を閉じた。
そして、思い出した。
坑道の広間。詠唱の最終節を紡ぐ、紺のローブ。
俺は、その脇を、走り抜けた。振り返りもせずに。
『十五』
『ちょうど、十五でした』
『……計算、通りです』
『ええ。ええ、そうですね。計算通りでした』
あの時の、上ずった声。
窪地の、初めての出会い。三秒を差し出した俺を、値踏みするように見た、紫の目。
ワイバーンの戦場。
『策は、あるんでしょうね』
と、確認するように、問うた声。
湿地の帰り道。
『あなたの隠し事が、私の魔法の当たり方を変えるのなら。それは、私の領分です』
夕暮れの、ギルドの前。
『あなたのことを、もっと知りたいと思っています。……これは、戦術的な興味です』
つんと顎を上げて、頬を染めて、去っていった背中。
そして。
『今度は──私が、あなたの盤面の、駒になりたい』
『使ってください。私を』
まっすぐに、俺を見ていた、紫の目。
◇
俺は、机に突っ伏したまま、動けなかった。
心拍が、速い。
祝福も、付与品も、切っている。俺の身体は、素の、九十三だ。
なのに、なぜ。
「……この乱れは」
俺は、呟いた。
「何の、数字だ」
──夕暮れの、あの日と、同じ問いだった。
あの時、俺は、それを読み解くのを、やめた。
なぜか、それだけは、読み解いてしまうのが、惜しい気がしたからだ。
だが、今は。
読み解かなければ、盤面が、組めない。
「……分かって、いる」
俺は、静かに、言った。
分かっているのだ。
本当は。
最初から。
俺は、彼女を──
「…………」
俺は、そこで、思考を、止めた。
止めて、しまった。
◇
「──レイジさん」
扉が、開いた。
顔を上げると、セシリアが、立っていた。
朝日が、彼女の背後から、差し込んでいる。
「……セシリアさん」
「一晩中、灯りが点いていましたよ」
彼女は、微笑んで、部屋に入ってきた。
そして、机の上の、握りつぶされた紙の山を、見た。
「……盤面が、組めないのですね」
「……ええ」
俺は、正直に、答えた。
隠す気力が、なかった。
「答えは、出ています。最初から。──ですが、指せない」
「フィオナさんのことですね」
俺は、答えなかった。
セシリアは、静かに、俺の向かいに、腰を下ろした。
「レイジさん。一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「あなたは、なぜ、指せないのだと、思っていますか」
俺は、少し、考えた。
そして、答えた。
「……感情が、混じっているからです」
「なるほど」
「盤面に、感情は、要らない。駒に、思い入れは、要らない。──そんな指し方をする奴は、必ず、負ける。俺は、それを、知っています」
「ええ」
「だから、排除しようとしました。──できませんでした」
俺は、握りつぶした紙を、見た。
「それどころか。俺は、『彼女を使わない』を前提に、盤面を組もうとしていた。……最悪です。結論が先にあって、理屈を後から捏ねる。俺が、最も軽蔑してきた指し方だ」
セシリアは、しばらく、黙っていた。
そして。
「……ふふ」
彼女は、小さく、笑った。
「何が、可笑しいんですか」
「いえ」
彼女は、首を振った。
「あなたは、本当に、賢い方ですね」
「……皮肉ですか」
「いいえ。褒めています」
セシリアは、微笑んだ。
「賢い方は、答えの出ない問いに、答えを出そうとします。……でもね、レイジさん」
彼女の声は、柔らかかった。
「その問いは、盤面の問いでは、ありません」
俺は、顔を上げた。
「……え?」
「あなたは、『なぜ指せないのか』を、盤面の言葉で、解こうとしています。感情が混じっている。だから排除しよう。排除できない。だから、自分は間違っている。──そうやって」
セシリアは、俺の目を、見た。
「でも、それは、盤面の問いでは、ないんです」
「……」
「あなたが、答えられないのは、あなたが間違っているからでは、ありません」
彼女は、静かに、言った。
「──答えを、知っているからです」
◇
俺は、動けなかった。
セシリアは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、立ち上がって、扉の方へ、歩いた。
そして、振り返らずに、こう言った。
「レイジさん。……私、六年間、ガルドさんを、見てきました」
「……」
「あの人は、答えを知っていました。自分のやり方が、間違っていることを。──でも、認めたら、送金が途絶える。だから、認めなかった」
彼女の声が、掠れた。
「認めないために、理屈を捏ねて、盤面を歪めて、六年、間違え続けました」
セシリアは、扉に、手をかけた。
「あなたは、あの人とは、違います」
「……」
「あなたは、盤面を歪めた自分に、気づいて、その紙を、握りつぶした。──気づける人は、間違え続けません」
彼女は、扉を、開けた。
「答えを、認めてください。……それだけで、盤面は、組めるようになります」
◇
一人になった執務室で。
俺は、長い間、動けなかった。
そして、ゆっくりと、新しい紙を、取り出した。
ペンを、握る。
『囮役:フィオナ』
書いた。
たった、六文字。
書いた瞬間に、胸の奥が、締め付けられた。
心拍が、跳ねた。
「……ああ」
俺は、その紙を、見下ろした。
そして、ようやく。
認めた。
「──俺は、こいつを」
その先を、俺は、口に出さなかった。
だが、頭の中では、はっきりと、言葉になっていた。
盤面に、感情は、要らない。
そんなことは、知っている。
だが。
──俺の盤面には、もう、それが、乗っている。
乗ってしまっている。
とっくの昔から。
俺は、紙を、机に置いた。
そして、その下に、こう書き足した。
『生存率、九割』
『──残り一割を、俺が、埋める』
◇
朝。
俺は、広間に、降りた。
十一人が、既に、集まっていた。
そして、その中に、紺のローブが、立っていた。
「──フィオナさん」
俺は、彼女の前に、立った。
紫の目が、まっすぐに、俺を見返していた。
その目には、既に、答えが、書いてあった。彼女は、俺が、何を言うか、分かっている。分かった上で、待っている。
「……囮役を、お願いします」
俺は、言った。
「あなたの魔力で、魔物を引きつけ、走りながら、注意を逸らし続けてほしい。──採掘の、半日の間」
フィオナは、静かに、頷いた。
「はい」
「条件が、三つあります」
俺は、続けた。
「一つ。俺が、あなたと、一緒に走ります」
広間が、ざわめいた。
「……レイジさん?」
「二つ。逃走経路は、俺が決めます。あなたは、走りながら、俺の指示を聞いてください」
「三つ」
俺は、彼女の目を、見た。
「危ないと判断したら、俺の判断で、囮を、中断します。──採掘が終わっていなくても、です」
フィオナの、目が、見開かれた。
「それは……依頼が、失敗します」
「ええ」
「期限が、あります。二度目は、ありません」
「知っています」
「なぜ、そんな」
「あなたが、死ぬからです」
広間が、静まり返った。
俺は、言った。
自分でも、驚くほど、静かな声で。
「──それだけは、盤面に、乗せられない」
フィオナは、しばらく、俺を、見ていた。
その頬が、ゆっくりと、染まっていくのを。
俺は、見てしまった。
「……戦術的な、判断ですか?」
彼女は、掠れた声で、そう聞いた。
俺は、答えられなかった。
答えられずに、ただ。
「……分かりません」
そう、言った。
フィオナは、俯いた。
そして、小さく、本当に小さく、笑った。
「……そうですか」
彼女は、顔を上げた。
「なら、それで、結構です」




