第23話 今頃、気づいたのか?
十日目の夕方。
俺は、ハルベルの東門を、くぐった。
十四日の約束が、十日で済んだ。四日、早い。
「……早く帰りすぎたか」
いや、そんなことはない。期限は迫っている。一日でも早い方がいい。
俺は、荷馬を引いて、東地区の外れへ、歩いた。
クランハウスの窓に、灯りが点っている。夕暮れの中、その光が、やけに、暖かく見えた。
──なぜだろう。
十日、たった十日、離れていただけだ。それも、依頼のためだ。
なのに。
「……ただいま、か」
俺は、その言葉を、口の中で転がして、少しだけ、可笑しくなった。
前世でも、この世界でも。
俺には、そんな言葉を言う相手が、いなかったはずなのに。
◇
扉を開けた瞬間。
広間の空気が、止まった。
十数人の冒険者が、一斉に、こちらを見る。受付の職員が、書類を落とした。
そして。
「──レイジ!!」
一番奥のテーブルから、椅子が倒れる音。
ニックが、飛び上がった。
「お前、生きて──いや、早くねえか!? 十四日って言っただろ!」
「早く終わったので」
「終わったって、お前……」
ニックが、駆け寄ってきて、俺の全身を、上から下まで、無遠慮に眺め回した。
「怪我は? 五体満足か? どっか噛まれたりしてねえか?」
「してません」
「本当か? 見せてみろ」
「してませんって」
そのやりとりの背後で。
「レイジさん!」
セシリアが、両手で口を覆って、立ち上がっていた。
その目が、みるみる、潤んでいく。
「……よかった。本当に、よかった」
「ただいま戻りました。……大袈裟ですよ、セシリアさん。十日です」
「大袈裟ではありません」
彼女は、俺の前に来ると、両手で、俺の手を包んだ。
そして、そのまま、回復魔法を流し込んできた。
「あの、セシリアさん。怪我はしていません」
「疲労が、酷いです」
彼女は、微笑んだまま、静かに言った。
「──あなた、この十日、まともに寝ていませんね」
……相変わらず、この人には、敵わない。
◇
そして。
広間の隅に、紺のローブが、立っていた。
フィオナ。
彼女は、こちらへ、駆け寄ってこなかった。ただ、そこに立って、俺を、じっと見ていた。
紫の目が、いつもより、少しだけ、赤い気がした。
「……ただいま戻りました」
俺は、そちらへ、歩み寄った。
「四日、早く戻りました。約束通りです」
「…………」
フィオナは、答えなかった。
しばらく、俺の顔を、見ていた。
そして。
「──三日前」
彼女は、静かに言った。
「私は、迎えに行く準備を、していました」
「え?」
「十四日の期限まで、まだ四日ありましたが。……準備だけは、していました。荷物も、まとめて」
彼女は、俯いた。
「馬鹿みたいでしょう。まだ、期限も来ていないのに」
「……フィオナさん」
「勘違いしないでください」
彼女は、顔を上げて、いつもの、つんとした顔をした。
「あなたが死ねば、クランが困ります。これは、戦力の管理の話です」
「……はい」
「本当に、それだけです」
「はい」
「……なぜ、笑っているんですか」
「笑っていません」
「笑っています」
俺は、口元を押さえた。
──おかしいな。
自分では、いつも通りの顔をしているつもりだった。
◇
「──で。何があった」
ニックが、テーブルに、俺を座らせた。
セシリアが茶を淹れ、フィオナが向かいに座り、そして、バッセさんが資料を抱えて降りてきた。
奥の執務室から、ガルドも顔を出した。
「精霊の地。──どうだった」
俺は、鞄から、記録を取り出した。
十日ぶんの、全部。
「攻略法は、あります」
俺は、記録を、テーブルに広げた。
「霧は、音を食い、視界を奪う。だから誰も、盤面が見えない。──それが、あの森が『帰還者なし』の理由です」
「盤面が、見えない?」
「ええ。魔物が強いわけじゃない。むしろ、強い者ほど、死ぬ」
俺は、続けた。
「あそこの魔物は、魔力に反応します。だから、魔法使いを連れているパーティーほど、狙われる。──十七年前に消息を絶った『灰銀の翼』も、たぶん、そうです。あの編成には、魔法使いがいた」
広間が、静まり返った。
「なら、どうやって……」
俺の説明を聞いていた冒険者の一人が、呟いた。
「俺の付与品なら、魔力の消費が、極小です」
俺は、腕輪を見せた。
「暗視、聴覚、遠見、気配遮断。感覚強化の付与品は、ステータスが上がらない。だから誰も使わない。──でも、その代わり、消費が、ほとんどない」
「……」
「それに、俺の魔力は、この街で最低値だ。──あの森で、最も、暗い」
一瞬の沈黙。
そして。
「……はは」
ニックが、乾いた声で、笑い出した。
「そうか。──弱いから、生きて帰れたのか」
「……そうなりますね」
俺は、頷いた。
自分でも、少し、可笑しかった。
「行く前は、そこまで読んでいませんでした。俺が一人で行くと決めたのは、単に、戦えないからです。強い人間が行けば、戦ってしまう。俺なら、逃げることに専念できる。──それだけの理屈でした」
俺は、腕輪を、指で撫でた。
「ですが、結果として。あの森では、それが、唯一の正解だった」
「……」
「魔力が低いから、追われにくい。感覚強化の付与品しか持っていないから、消費が極小で済む。戦えないから、真っ先に逃げる。──俺の弱さが、全部、あの森の攻略条件と、噛み合っていた」
俺は、少しだけ、笑った。
「偶然です。読み切っていたわけじゃない」
「……いや」
ニックが、掠れた声で言った。
「偶然じゃねえだろ、それ」
「え?」
「お前、二年間、ずっとそうやって生きてきたんだろ」
彼は、俺を、見た。
「弱いから、逃げる前提で動く。弱いから、誰も欲しがらねえガラクタを拾う。弱いから、盤面を作る。──それが、たまたま、あの森で正解だった、なんて話じゃねえよ」
ニックは、乾いた笑いを、漏らした。
「お前が、二年かけて積み上げてきたもんが、全部、あそこで噛み合ったんだ」
◇
「──で、採掘は」
ガルドが、記録を覗き込んだ。
「鉱脈は、見つけました。位置も、周辺の地形も、退路も、全部、頭に入っています」
俺は、記録の頁を、めくった。
「問題は、採掘に、魔力の道具が要ることです。使えば、光る。魔物が来る」
「じゃあ、詰みじゃねえか」
「囮を、置きます」
俺は、答えた。
「ガルドさんから譲り受けた、二十三点のガラクタ。──あれを、全部、一箇所に集めて、一斉に発動させる」
ガルドの、動きが、止まった。
「あの、ガラクタを?」
「ええ。あの森で、最も明るく光る、魔力の塊になります。魔物は、必ず、そっちへ行く。──その間に、採掘班が、掘る」
俺は、記録に、指を置いた。
「囮の設置場所は、鉱脈から、南へ四百歩。魔物の巣とは、逆方向です。誘導経路も、計算済みです」
ガルドは、しばらく、その記録を、見下ろしていた。
そして。
「……レイジ」
「はい」
「あのガラクタはな」
彼の声が、掠れていた。
「俺が、お前から報酬を、値切るために押し付けた、ゴミだ。銅貨数十枚の価値もねえ」
「知ってます」
「それが──伯爵家の依頼を、達成する鍵に、なるってのか」
「なります」
俺は、静かに、答えた。
「誰も欲しがらないものほど、安く買える。──そう言ったでしょう」
ガルドは、両手で、顔を覆った。
そして、その手の下から、掠れた笑い声が、漏れた。
「……くそ。本当に、お前は」
◇
その夜。
依頼の割り振りが終わり、冒険者たちが引き上げた後。
広間には、五人が、残っていた。
ガルド、セシリア、ニック、フィオナ、そして、俺。
「──なあ、レイジ」
ニックが、切り出した。
妙に、改まった顔で。
「あー、その、なんだ。……聞きたいことが、あるんだけどよ」
「はい」
「……いや、聞きたいっつーか、確認、っつーか」
ニックは、頭を掻いて、それから、意を決したように、言った。
「お前がいねえ間、俺、よそのパーティーに入ってたじゃん」
「ええ」
「……やりにくかった」
彼は、テーブルに、突っ伏した。
「めちゃくちゃ、やりにくかった!! 俺が『敵は三体だ』つっても、誰も、それを使わねえんだよ! 情報を渡しても、そのまま突っ込んでいくんだ!」
「……」
「なあレイジ。俺、思ったんだけどよ」
ニックは、顔を上げた。
その目が、少しだけ、赤かった。
「お前、俺の報告に──意味を、持たせてくれてたんだな」
俺は、答えなかった。
というより、何を言われているのか、少し、分からなかった。
「俺、ずっと言ってただろ。『お前の指示、後から考えると全部意味あるんだよな』って。……違ったわ。俺の報告に、お前が、意味を持たせてたんだよ」
「……そんな大袈裟な話では」
「大袈裟じゃねえ!」
ニックが、テーブルを叩いた。
「俺は、四年、斥候をやってきた。報告なんて、当たり前にやってた。当たり前に、返ってくると思ってた。──違うんだよ、レイジ。あれは、当たり前じゃなかった」
「……」
「お前だけだ。俺の『三体だ』って一言を、勝ち筋に、変えられるのは」
◇
「──あら」
その隣で、セシリアが、静かに笑った。
「ニックさんも、そうでしたか」
ニックが、顔を上げる。
「……セシリアさんも?」
「ええ」
彼女は、微笑んだ。
いつもの、柔らかい笑み。だが、その目は、少しだけ、潤んでいた。
「私、この十日、走り回っていました」
「走り回る?」
「前衛の方が、私から離れすぎるんです。回復が、届かない。追いかけると、今度は私が、魔物の間合いに入ってしまう」
彼女は、俺を見た。
「祝福を使うタイミングも、誰も分かってくださらない。朝、出発前に使ってしまって、戦闘の頃には、とっくに切れている。──そして、それを誰も、気にしていないんです」
「……」
「私、毎日、魔力が空になりました。回復に、全部持っていかれて」
セシリアは、そこで、言葉を切った。
そして、静かに、続けた。
「──紅の盾では、そんなこと、一度もありませんでした」
広間が、静まり返った。
「私は、いつも、動きやすい場所にいました。前衛は、私の回復が届く距離を、決して離れなかった。祝福を使うタイミングは、いつも、誰かが教えてくれた」
彼女は、俺を、まっすぐに見た。
「『セシリアさん、あと四半刻で切れます』」
「『今、使ってください』」
「『その位置なら、全員に届きます』」
セシリアの声が、震えた。
「……あなたでしたね。全部」
「…………」
「私、ずっと、自分が優秀な僧侶なのだと、思っていました」
彼女は、目元を拭った。
「六年、一度も、魔力を切らしたことがなかったから。回復が届かなかったことも、なかったから。──私は、そういう僧侶なのだと、思っていました」
「セシリアさん」
「違ったんですね」
彼女は、微笑んだ。
「あなたが、私が動きやすい場所を──ずっと、作ってくださっていた」
◇
そして。
「──私も、です」
フィオナが、静かに、口を開いた。
いつもの、淡々とした声で。
だが、その手は、テーブルの上で、きつく握られていた。
「私は、この十日で、詠唱を、二十七回、潰されました」
「二十七回」
「数えていました」
彼女は、俯いた。
「私の魔法は、何も、変わっていません。射程も、威力も、詠唱速度も。──なのに、毎回、魔力が空になる。撃てるはずの一撃が、撃てない。狙えるはずの場所に、届かない」
彼女の声が、掠れた。
「なぜ、こんなに疲れるのだろう、と。……ずっと、考えていました」
彼女は、顔を上げた。
紫の目が、まっすぐに、俺を見ていた。
「答えは、簡単でした」
「……」
「あなたが、いなかったからです」
広間の空気が、止まった。
「紅の盾で、私は、一度も、詠唱を潰されたことがありませんでした。射線は、いつも、通っていました。魔物は、いつも、私が狙いやすい場所に、並んでいた」
彼女は、続けた。
「私は、それを──自分の腕だと、思っていました」
その声が、震えていた。
「歴代最高値の魔力。学院を首席で出た才能。私は、優秀な魔法使いなのだと。だから、こんなに、うまくいくのだと」
フィオナは、俯いた。
「……違いました」
「フィオナさん」
「あなたが、私に、撃たせてくれていた」
彼女は、握った拳を、見つめた。
「あなたが、射線を作って、魔物を並べて、詠唱の時間を稼いで。──私は、ただ、撃っていただけでした」
◇
沈黙が、落ちた。
俺は、どう答えていいか、分からなかった。
三人の言うことは、事実だ。
俺は確かに、ニックの報告を盤面に組み込んだ。セシリアの動線を作った。フィオナの射線を通した。
だが、それは。
「……それが、俺の仕事です」
俺は、そう答えた。
「俺は、戦えません。素の総合が、九十三だ。あなたたちが戦えるように、盤面を組む。──それしか、できることがない」
「それしか、って」
ニックが、掠れた声で言った。
「お前、それ、本気で言ってんのか」
「本気ですが」
「……あー、くそ」
ニックは、頭を抱えた。
「そうだよな。お前、そういう奴だよな。──分かってねえんだ、自分の異常さが」
「異常?」
「異常だよ!!」
◇
その時。
「──お前ら」
奥から、声がした。
ガルドだった。
彼は、腕を組んで、壁にもたれて、こちらを見ていた。
その顔に、なぜか、呆れたような笑みが、浮かんでいた。
「今頃、気づいたのか?」
三人が、一斉に、振り返った。
「……ガルド?」
「え、旦那、なんだよそれ」
「今頃、って」
ガルドは、テーブルの方へ、歩いてきた。
そして、椅子を引いて、腰を下ろした。
「俺はな」
彼は、静かに、言った。
「──とっくに、気づいてた」
◇
「……いつから」
セシリアが、掠れた声で、問うた。
「坑道だ」
ガルドは、即答した。
「グラウンドワームの、あの依頼。こいつが、フィオナに『十五を数えろ』って言った、あの日だ」
彼は、俺を見た。
「あの時な。俺は、思ったんだ。──こいつの見てる盤面は、俺の指揮とは、まるで別物だ、って」
「……」
「俺は、六年、パーティーの頭をやってきた。だから、分かっちまったんだよ」
ガルドは、乾いた声で、笑った。
「指揮ってのはな、普通、こうだ。『前衛は前、後衛は後ろ。魔物が来たら受け止めて、隙を見て魔法を撃て』。──それが、当たり前の指揮だ。誰でもやってる」
「……」
「だが、こいつは、違う」
彼は、俺を、指した。
「こいつは、戦う前に、勝ち筋を決めてる。地形、風向き、魔物の癖、味方の足の速さ、詠唱の秒数、祝福の残り時間。──全部を、頭ん中に並べて、その上で、『こう動けば勝てる』って盤面を、先に作っちまう」
ガルドの声が、低くなった。
「そんで、その盤面通りに、俺たちは、動く。動かされてることにも、気づかずにな」
三人が、絶句していた。
「フィオナ。お前が『詠唱を潰されたことがない』のはな。こいつが、お前の詠唱の秒数を、全部、頭に入れてるからだ。魔物がどこから来るか、何秒で届くか、それを計算した上で、お前を置く場所を、決めてる」
「……」
「セシリア。お前が『いつも動きやすい場所にいた』のもな。こいつが、お前の回復の射程と、前衛の突出する癖を、全部、計算に入れてるからだ。前衛が突っ込みすぎそうになったら、こいつが先回りして、そこに立つ。お前は気づかんかっただろうが、こいつは、お前と俺の間に、いつも、いた」
セシリアの目が、大きく、見開かれた。
「ニック。お前の報告が『盤面になった』ってのはな。こいつが、お前の言葉から、お前が言ってないことまで、読み取ってるからだ。『三体』って聞いた瞬間に、こいつの頭ん中じゃ、三体がどこに立ってて、どう動いて、どこで挟めるかまで、絵になってる」
ガルドは、椅子の背もたれに、身体を預けた。
「──それが、当たり前だと思ってたか?」
三人が、答えられずにいた。
「当たり前じゃねえよ」
ガルドは、静かに、言った。
「よそのパーティーが、下手なんじゃねえ。──あれが、普通なんだ」
彼は、俺を、見た。
「こいつが、異常なんだよ」
◇
広間が、静まり返っていた。
「……なあ、旦那」
ニックが、掠れた声で、聞いた。
「気づいてたなら、なんで、言わなかったんだよ」
「言って、どうする」
ガルドは、鼻を鳴らした。
「『お前らはレイジに動かされてる』って、俺が言ってやればよかったか? そんなもん、言われて分かるか」
「……」
「こういうのはな、失って初めて分かるんだよ」
彼は、目を細めた。
「俺だって、そうだった。──ワイバーンの時に、俺は、こいつを捨てようとした。『囮になれ』ってな。そんで、こいつは、五人全員を、生きて帰した」
ガルドの声が、掠れた。
「あの日、俺は、指揮官として、完敗したんだ」
彼は、両手を、組んだ。
「怖かったぜ。俺が『捨てろ』つった駒が、全員を救う一手だった。──俺の見てた盤面が、いかに、狭かったか。それを、思い知った」
「……ガルド」
「だから、看板を引き受けたんだよ」
ガルドは、俺を見て、少しだけ、笑った。
「こいつが『代表になってくれ』つった時、俺は、即答した。──とっくに、頭が誰かなんて、分かってたからだ」
◇
俺は、その話を、黙って、聞いていた。
そして、ようやく、口を開いた。
「……ガルドさん」
「なんだ」
「知っていたなら、なぜ、俺に言わなかったんですか」
「あ?」
「俺が、その──異常だと。あなたが気づいていたなら、俺に、そう言えばよかった」
ガルドが、目を丸くした。
そして。
「──はっはっは!!」
彼は、腹を抱えて、笑い出した。
「聞いたか、お前ら! こいつ、まだ分かってねえぞ!」
「な、なんですか」
「レイジ。お前な」
ガルドは、目尻を拭って、言った。
「俺が『お前は異常だ』って言ったらな。お前、なんて答えた?」
「……『そうですか』と」
「だろ?」
彼は、テーブルを、叩いた。
「お前は、自分の異常さを、異常だと思ってねえんだよ。当たり前だと思ってる。『盤面を組むのは、俺の仕事です』ってな。──だから、言っても、無駄なんだ」
「……」
「お前に、それを教えられるのは、俺じゃねえ」
ガルドは、三人を、指した。
「こいつらだ。お前がいない場所を経験して、初めて、分かる。──それを、お前は、狙ってたんだろ?」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
──あの三人に、気づいてほしいんです。
出立の朝、俺は、確かに、そう言った。
そして、この男は。
あの時、既に、全部、分かった上で。
含みのある顔で、笑っていたのだ。
「……敵いませんね」
俺は、そう呟いた。
「六年、頭をやってきた男を、舐めるなよ」
ガルドは、にやりと笑った。
◇
そして、その時。
「──毎度」
広間の扉が、開いた。
全員が、振り返る。
戸口に立っていたのは、痩せた、二十代後半の男だった。
仕立てはいいが、派手さのない服。手には、擦り切れた帳面。
そして──狐みたいに細い目が、薄く、笑っていた。
「おっ。えらい、ええ空気ですやん」
男は、ひょいと、頭を下げた。
「お邪魔でしたか?」
「……ケイル」
ガルドが、額を押さえた。
「お前、なんで毎日来るんだ」
「そら、待ってるからですわ」
男は、あっさりと言った。
そして、その狐目が、ゆっくりと、俺の方へ、動いた。
「──あんたが、レイジはん、ですな」
広間が、静まり返った。
俺は、この男を、初めて見た。
なのに。
この男は、俺の顔を見た瞬間、確信を持って、そう言った。
「……なぜ、俺だと」
「そら、分かりますわ」
ケイルは、狐目を、細めた。
「みんなが、あんたの方、向いてますもん」
彼は、広間を、指した。
冒険者はもう帰っている。残っているのは、五人だけ。
だが──ガルドも、セシリアも、ニックも、フィオナも。
全員が、俺の方を、向いていた。
「代表は、ガルドはん。せやけど、この部屋の中心は、あんたや」
ケイルは、帳面を、抱え直した。
「銭の流れが、そう言うてました。そんで、今、人の流れも、そう言うてます」
彼は、にっと、笑った。
「ケイル言います。しがない、商人ですわ」
そして。
「──あんたと、商売がしたい」




