第22話 誰も帰らない森
三日目の朝、俺は、霧の壁に、辿り着いた。
北西へ、馬で三日。険しい山を越えた、その先。
そこには──文字通り、壁があった。
「……なるほど」
俺は、荷馬を木に繋いで、その光景を見上げた。
森の入り口から、白い霧が、垂直に立ち上がっている。地を這うのではない。壁のように、立っている。境界が、はっきりと見える。ここから先は霧、ここまでは晴天。そんな不自然な線が、森の縁に沿って、どこまでも伸びていた。
記録には、こう書かれていた。
『霧、深し』
たった、四文字。
過去五十年で、この土地へ向かった記録は、四件。うち三件の報告が、この一行だけだ。──つまり、彼らは、ここで引き返した。
賢明だ、と、俺は思った。
そして、四件目には。
報告が、ない。
受注の記録だけが残っていて、その後の頁が、白紙のままだった。
『十七年前、三月。パーティー「灰銀の翼」、精霊の地の調査を受注。編成四名』
そして、その先に、後日、別の筆跡で書き足された、たった一行。
『以後、消息不明』
「──四日だ」
俺は、自分に、言い聞かせた。
期限は、ひと月。今日で、三日を使った。往復に六日。つまり、この森に割ける時間は、長くても四日。
四日で、この森の骨格を掴んで、帰る。
それ以上長引けば、採掘の日程が、消える。
「……行くか」
俺は、腰の付与品に、順番に、魔力を通した。
梟の腕輪──暗視。
狼のミサンガ──聴覚と嗅覚。
鷹の護符──遠見。
静寂の耳飾り──足音と気配の遮断。
そして。
「──【自己強化(小)】」
全部が、同時に、生きた。
頭の中で、四つの砂時計が、走り始める。腕輪は一刻。ミサンガは半刻。護符は半刻。耳飾りは四半刻。
俺の魔力では、これが限界だ。維持できるのは、この四つまで。
俺は、霧の壁に、足を踏み入れた。
◇
音が、消えた。
それが、最初の異変だった。
霧に入った瞬間、外界の音が、すべて、途絶えた。風の音も、鳥の声も、木の葉の擦れる音も。
──いや、違う。
「聞こえて、いる」
狼のミサンガが、拾っていた。
音は、ある。だが、遠い。すぐ隣で葉が擦れているのに、その音が、まるで百歩先から届いているように、遅れて、薄く、届く。
霧が、音を、食っている。
「……これは」
俺は、その場に、立ち止まった。
ミサンガがなければ、この森は、完全な無音の世界だ。
そして、無音の世界では──背後を取られても、気づけない。
「一件目の記録。『霧、深し』」
俺は、頭の中で、記録を反芻した。
「二件目。『霧、深し』」
「三件目。『霧、深し』」
同じ、四文字。
彼らは、この霧に入って、音が消えたことに気づいて、そして、恐怖した。何も聞こえない。何も見えない。どこから何が来るか、分からない。
だから、引き返した。
「──正しい判断だ」
俺は、呟いた。
「俺なら、ミサンガがなければ、ここで帰る」
そして、四件目のパーティーは。
引き返さ、なかった。
◇
視界も、同じだった。
霧は、白く、濃い。十歩先が、もう、見えない。
だが、梟の腕輪を通した俺の目には、それが──うっすらと、透けていた。
暗所の視界を強化する腕輪。本来、霧に効く道具ではない。
だが、暗視というのは、要するに「わずかな光を拾う」技術だ。そして霧の中でも、光は、届いている。散乱して、拡散して、弱まっているだけだ。
腕輪は、その弱い光を、拾い集める。
「二十歩……いや、三十歩先まで、見える」
十歩と、三十歩。
その差が、生死を分ける。
「──なるほど。この森は」
俺は、理解した。
この森が「帰還者なし」なのは、魔物が強いからじゃない。
盤面が、見えないからだ。
音が消え、視界が奪われる。どこに何がいるか、分からない。地形も読めない。退路も分からない。
その状態で、何かに出会えば──どんな実力者でも、死ぬ。
そして、この霧は。
「……俺の得意分野だ」
俺は、静かに、笑った。
誰も欲しがらなかった、二束三文のガラクタ。
祝福を潰すから、誰も使わない。ステータスが上がらないから、誰も買わない。
その全部を、俺だけが、同時に、積める。
「行こう」
俺は、霧の奥へ、歩き出した。
◇
四半刻ごとに、俺は、立ち止まった。
耳飾りの効果が切れる。魔力を通し直す。
半刻ごとに、ミサンガと護符。
一刻ごとに、腕輪。
頭の中の砂時計を、常に、走らせ続ける。一つでも切らせば、盤面が欠ける。欠けた瞬間、俺は、この森で最も無力な生き物になる。
そして、歩きながら、記録を、取り続けた。
地形。傾斜。土の質。木の種類。倒木の位置。水音の方向。
──退路。
常に、二本以上。塞がれたら、即座に、三本目を探す。
彷徨うつもりは、ない。四日しかないのだ。
俺は、最初の半日で、この森の「骨格」を掴むと決めていた。地形の傾斜。水の流れ。──それさえ分かれば、鉱脈の当たりはつく。
精霊銀は、岩壁の裂け目に露出する。ならば、水が岩を削る場所を探せばいい。
「……水音は、北」
俺は、方角を、頭に刻んだ。
◇
最初の異変は、その日の午後だった。
ミサンガが、拾った。
──何かが、いる。
北北東、およそ八十歩。
俺は、足を止めて、その場に、しゃがみ込んだ。
音は、遅れて届く。だが、方向と距離は、掴める。
「……大きい」
足音の、間隔。踏み込みの、重さ。
四足。体重は、おそらく、俺の五倍以上。
そして──
「二体、いや、三体」
俺は、鷹の護符に、意識を集中した。
遠見。霧越しに、三十歩。──足りない。八十歩先は、見えない。
だが。
「……近づいて、くる」
音が、こちらへ、動いている。
俺は、即座に、退路を確認した。
南南西へ、下り斜面。倒木が二本。その先に、岩場。──行ける。
俺は、静かに、後退を始めた。
耳飾りが、足音を消している。気配を、遮断している。
三体は、俺の位置を、掴んでいない。
──ように、思えた。
だが。
「……っ」
音が、追ってきた。
俺の後退に、正確に、合わせて。
「気配を、消してるのに」
俺は、走りながら、頭を回転させた。
耳飾りは、生きている。足音も、匂いも、消えている。なのに、追われている。
──なぜ。
「音でも、匂いでもない」
俺は、走りながら、答えを探した。
視覚? この霧の中で? ありえない。
熱? 振動? 魔力?
「──魔力か」
俺は、走りながら、自分の腕を見た。
腕輪。ミサンガ。護符。耳飾り。
全部、発動している。
魔力を、通し続けている。
「そういう、ことか」
この森の魔物は、魔力を、感知する。
そして俺は、常に、四つの付与品に魔力を流し続けている。
──この霧の中で、俺だけが、光り輝いているようなものだ。
そして、その事実は。
一つの、答えを、示していた。
「四件目のパーティー。──編成に、魔法使いがいた」
俺は、走りながら、受注記録を、思い出していた。
『パーティー「灰銀の翼」、編成四名』
その編成の内訳も、記録には、残っていた。前衛二、斥候一、そして──魔法使い。
「この視界だ。灯りの魔法くらい、使うに決まってる」
俺は、乾いた笑いを、漏らした。
十歩先も見えない霧の中。魔法使いが同行しているなら、明かりを灯さない理由が、ない。むしろ、それが正解だと、誰もが思う。
そして、その瞬間に。
──光った、のだ。
「……だから、帰れなかったのか」
戦力としては、あのパーティーの方が、遥かに上だっただろう。
前衛が二人、魔法使いまでいる。
だが、彼らは、この森で、最も、明るく光った。
「魔法使いがいる方が、危ない、か」
この森は、そういう場所だ。
強い者から、死ぬ。
◇
俺は、走りながら、砂時計を確認した。
腕輪、残り半刻。ミサンガ、残り四半刻。護符、残り四半刻。耳飾り、残り、わずか。
「選べ」
俺は、自分に、言い聞かせた。
全部を切れば、魔力の光は消える。追跡は、止まる。
だが、その瞬間、俺は──音も、視界も、失う。
無音、無明の森に、たった一人。素の総合、九十三。
「それは、死だ」
かといって、全部を維持すれば、追われ続ける。魔力が尽きるまで。
そして俺の魔力は──最低値だ。
「……なら」
俺は、走りながら、盤面を組んだ。
三体。八十歩。追ってくる速度は、俺と同等かやや速い。地形は下り斜面。倒木が二本。その先に、岩場。
そして、俺が持っている手札は、四つ。
「──捨てる順番を、決める」
まず、護符。
遠見は、今、要らない。霧の中で、三十歩先を見る価値はあるが、追われている状況では、優先度が低い。
魔力を、切った。
「一つ」
次。
「耳飾り」
気配の遮断。もう、意味がない。魔力で追われているなら、足音を消しても無駄だ。
切った。
「二つ」
残るは、腕輪と、ミサンガ。
視界と、聴覚。
──この二つは、切れない。切った瞬間、俺は盲目になる。
「二つで、逃げ切る」
俺は、斜面を、駆け下りた。
◇
倒木を、跳び越える。
一本目。二本目。
背後の音が、近い。四十歩。三十歩。
「岩場まで、あと──」
腕輪の視界が、その先を、捉えた。
岩場。だが、その先が、切り立った崖になっている。
「──行き止まりか」
読み違えた。
俺は、足を止めかけて──ミサンガが、拾った。
水の音。
崖の下。かなり深いが、水がある。川だ。
「距離は」
俺は、崖に走りながら、鷹の護符を──切ったことを、思い出した。
見えない。深さが、分からない。
背後、二十歩。
「……賭けか」
俺は、崖の縁に、立った。
霧の下は、白い、何も見えない虚空。
水音は、聞こえる。ミサンガが、拾っている。──だが、深さは。
音の反響。壁の距離。落差。
頭の中で、計算する。水音の届く時間。反射の角度。
「……およそ、二十歩の落差。水深は──」
分からない。
「──【自己強化】、維持」
俺は、跳んだ。
◇
水は、冷たかった。
そして、浅くはなかった。
俺は、水中で、身体を丸めて、衝撃を逃した。肺が、悲鳴を上げる。だが、骨は、折れていない。
浮上して、息を吸う。
崖の上を、見上げた。
霧の中、三つの影が、縁に立っている。
──追ってこない。
「水は、追えないのか」
あるいは、俺の魔力の光が、水に遮られたのか。
俺は、流れに身を任せながら、腕輪の視界で、川の先を見た。
上流へ。──いや。
「……待て」
俺は、水を掻きながら、頭を回転させた。
川。
水が、岩を削る場所。
「──こっちが、正解か」
俺は、流れに逆らって、上流へ、泳ぎ始めた。
◇
夜。
俺は、川辺の岩陰で、震えながら、記録を書いていた。
ずぶ濡れの服。魔力は、ほぼ、空。付与品は、全部、切っている。
だが、生きている。
『霧。音を食う。視界十歩。魔力感知の魔物、三体以上。四足、大型』
『魔力を使えば、追われる。──強い者ほど、光る』
『川あり。水は追跡を切る』
俺は、ペンを止めた。
そして、この森の「盤面」を、頭の中で、組み直した。
──魔力を使えば、追われる。
──だが、魔力を使わなければ、何も見えず、何も聞こえない。
これが、この森の詰み筋だ。
だから、誰も、帰らなかった。
「……だが」
俺は、静かに、呟いた。
「詰みには、必ず、抜け道がある」
魔力を使わずに、盤面を見る方法。
──あるいは。
魔力の光を、囮に使う方法。
俺は、記録に、新しい一行を、書き足した。
『三体の魔物は、魔力に反応する。──ならば、魔力を"置いて"おけば、そちらへ行く』
◇
二日目。
俺は、川を遡り続けた。
朝から、日暮れまで。付与品は、最低限。腕輪と、ミサンガだけ。
魔力の消費を、極限まで、切り詰める。
そして、日が暮れる直前。
「──あった」
切り立った岩壁の、裂け目。
霧の中で、うっすらと、銀色に光るものが、そこにあった。
精霊銀の、鉱脈。
「……綺麗だな」
思わず、そう呟いていた。
だが、感傷に浸る余裕はない。俺は、即座に、記録を取った。
位置。岩壁の高さ。裂け目の幅。鉱脈の露出範囲。周辺の地形。退路。そして──魔物の巣の位置との、距離。
「……近いな」
鉱脈から、東へ、およそ二百歩。
そこに、三体の魔物の巣がある。俺が追われた、あの個体たちだ。
◇
三日目。
俺は、鉱脈の周辺を、徹底的に、調べた。
採掘に必要な作業量。足場の確保。荷を運び出す経路。魔物の巣からの距離と、その移動速度。
そして、致命的な事実に、行き当たった。
「採掘には、道具が要る。人数も。時間も」
俺は、計算した。
鉱脈を掘り出すには、少なくとも、半日。人数は、五人以上。その間、ずっと、魔物の注意を、逸らし続けなければならない。
そして、採掘には──魔力を使う道具が、要る。
岩を砕くには、鶴嘴だけでは、足りない。硬い岩壁に、魔力の刃を通す道具が必要になる。
「……つまり、掘り始めた瞬間、光る」
俺は、岩壁を見上げた。
「詰み、か」
──いや。
俺は、記録に、書き足した。
『採掘には魔力道具が必要。使えば魔物が来る』
『ゆえに、囮が要る。それも、確実に注意を引き続ける、大きな囮が』
『──付与品の"山"を、遠くで、一斉に発動させる』
俺の手元には、ガルドから譲り受けた、二十三点のガラクタがある。
倉庫に眠っていた、誰も欲しがらない、感覚強化の付与品の山。
「あれを、全部、囮に使う」
一箇所に集めて、発動させれば。
この森で、最も明るく光る、魔力の塊になる。
魔物は、必ず、そちらへ行く。
「──盤面が、見えた」
俺は、記録を閉じた。
◇
四日目の朝。
俺は、霧の壁を、抜けた。
久しぶりの、陽の光。音のある世界。
繋いでおいた荷馬が、俺を見て、鼻を鳴らした。
「……悪かったな。長かった」
俺は、荷馬の首を撫でて、それから、指を折った。
出発から、七日。
期限は、ひと月。
「──残り、二十三日」
帰路に、三日。
ハルベルに着いた時点で、残り二十日。
そこから、準備と、人選と、道具の手配。移動に三日。採掘に、二日。帰路に、三日。
「……予備が、十二日」
俺は、荷馬に跨がりながら、計算を続けた。
十二日。
一見、余裕がある。
だが──この森は、そういう場所じゃない。
一度失敗すれば、その一度で、往復六日が消える。二度失敗すれば、予備は尽きる。
そして、三度目は、ない。
「──一発で、決める」
俺は、荷馬の腹を、軽く蹴った。
◇
帰り道、俺の頭の中では、既に、次の盤面が回っていた。
採掘に必要な人数。日数。道具。囮の配置。魔物の誘導経路。退路の確保。──そして、それを、誰にやらせるか。
八十人の顔と記録が、頭の中で、並び替わっていく。
山岳の三人組。──岩場に強い。採掘班の中核に。
元漁師の斥候。──水音を読める。川沿いの退路確保に。
暗視の付与品を使いこなす男。──囮の設置役に。
そして。
「……フィオナさん」
俺は、呟いた。
魔物が魔力に反応するなら。
あの女の魔力は──この森で、最も、危険で、最も、強力な囮になる。
八十人の中で、最も明るく光る、魔力の塊。三体の魔物を、確実に、引きつけられる。
そして、彼女なら、追われても、逃げ切れる。氷で足止めしながら、川まで走れば。
「……いや」
俺は、頭を振った。
「危険すぎるな」
──なぜだろう。
八十人の駒を、頭の中で、平然と並べ替えていたのに。
その一手だけは、指すのを、躊躇った。
俺は、自分の胸に、手を当てた。
盤面に、感情は、要らない。
そのはずだ。
「……早く、帰るか」
俺は、荷馬の腹を、蹴った。
ハルベルまで、三日。
俺は、まだ、知らない。
クランハウスで、三人が、何に気づいたのかを。
そして、狐目の商人が、俺を待っていることを。




