第20話 それぞれの、盤面
所属が八十人を超えた頃、俺は、割り振り表の前で、初めて手を止めた。
十六組。
盤上の灯が抱えるパーティーの数だ。この街の依頼の、三割近くを回せるようになった。
だが、その中身に、深刻な偏りがあった。
「魔術師が、八人か」
朝の広間。俺の呟きに、バッセさんが唸った。
「十六組に、八人。半分のパーティーには、魔法がないということじゃな」
「ええ。しかも──」
俺は、その八人の記録を、指でなぞった。
下級魔法しか使えない者が、五人。詠唱が遅い者が、六人。魔力量が並以下の者が、七人。
「数が足りないだけじゃない。質も、足りていません」
魔術師は、この世界で、慢性的に不足している。学院に通う金がある者か、田舎で偶然才能を見出された者か。──燻っている冒険者の中に、魔術師は、ほとんどいない。
そして、いたとしても。
「フィオナさん級は、この八十人の中に、一人もいません」
「そりゃそうじゃろ」
バッセさんが苦笑した。
「あの嬢ちゃんは、街の測定記録の歴代最高値じゃぞ」
「僧侶も、同じです」
俺は、次の頁をめくった。
「十人います。ですが、中位の祝福を戦場で回せるのは、セシリアさんだけだ。残る九人は、回復魔法が使える程度。それも、持続戦になれば、すぐに魔力が尽きる」
つまり、こういうことだった。
普通の依頼なら、回せる。だが──格上の依頼は、一件も受けられない。
◇
その日の午後。
クランハウスの扉を叩いたのは、これまでで、最も格の高い客だった。
「──ハルベル伯爵家の、家令を務めております」
老齢の男が、深く一礼した。
広間が、しんと静まり返る。冒険者たちが、慌てて背筋を伸ばした。
ハルベル伯爵。この街と、周辺一帯を治める領主だ。モーリス男爵をはじめとする周辺の下級貴族は、皆、この伯爵の家臣筋にあたる。
その、伯爵家の家令。
「ご依頼を、承っていただきたい」
家令は、書状を、机に置いた。
「北西の精霊の地より、精霊銀を、採取していただきたいのです」
◇
「精霊銀……」
バッセさんが、眉をひそめた。
「あの土地から、じゃと? 家令殿、あそこは──」
「存じております。危険な土地であることは」
家令は、静かに頷いた。
「ですが、代替が、ききません。精霊銀は、あの土地でしか採れないのです」
「なぜ、そこまで」
俺の問いに、家令は、少しだけ、言葉を選ぶように間を置いた。
「……王国への、献上品です」
広間の空気が、変わった。
「我が伯爵家は、三年に一度、王国へ、領内の産物を献上する慣わしがございます。今年の品目に、精霊銀の細工物が、指定されました」
「指定、ですか」
「はい。──断ることは、できません」
家令の顔に、疲れが滲んだ。
「期限は、二ヶ月後。細工師の作業に、ひと月かかります。つまり、ひと月以内に、精霊銀を、手に入れなければならない」
俺は、頭の中で、盤面を組み始めていた。
伯爵が、王国に納める。断れない。期限がある。失敗すれば、伯爵家の面子と、王国での立場に関わる。
──切実、どころではない。
「ギルドには、依頼されなかったのですか?」
俺の問いに、家令の表情が、はっきりと、苦くなった。
「……三度、依頼しました」
「三度…」
「三度とも、失敗です」
家令は、吐き捨てるように言った。
「一度目は、パーティーが半日で逃げ帰ってきた。『聞いていた難度と、まるで違う』と。二度目は、負傷者が三人。三度目は、そもそも誰も受注しなかった。──支部長は、そのたびに、こう言うのです。『難度の見立てが甘かった』『追加の報酬を』と」
俺は、静かに、頷いた。
難度偽装。
支部長は、伯爵家の依頼にすら、同じ手口を使った。安く見せて、安く手配して、失敗させて、追加を要求する。
だが、今回は、相手が悪かった。
「伯爵は、お怒りです」
家令は、深く、息を吐いた。
「三度失敗し、そのたびに金を毟られ、期限は迫っている。──もう、あのギルドは、信用できません」
彼は、俺を見た。いや、正確には、俺の隣に立つ、ガルドを。
「代表殿。あなた方のクランの噂は、伺っております。達成率、九割八分。死者ゼロ。──真実の難度を、正直に告げると」
ガルドが、頷いた。
「事実です」
「では、お願いいたします」
家令は、深く頭を下げた。
伯爵家の家令が。一介のクランに。
「精霊銀を。──どうか」
◇
家令が帰った後、広間は、しばらく、静まり返っていた。
「……おい、レイジ」
ニックが、掠れた声で言った。
「伯爵だぞ。伯爵家からの、直接依頼だ。──これ、とんでもねえことじゃねえか?」
「ええ」
「支部長、ブチ切れるぞ。自分とこの領主が、頭越しに、うちに頼んだんだ」
「そうでしょうね」
俺は、家令が置いていった書状を、静かに見下ろした。
支部長ジグムントは、この依頼を止められない。
なぜなら、相手は伯爵だからだ。
あの男は、ランク認定で冒険者を締め上げられる。小商人には「取引をやめろ」と圧力もかけられる。だが──領主には、何もできない。むしろ、逆だ。支部長の方が、伯爵の顔色を伺う立場にある。
十五年、この街を仕切ってきたと自惚れていた男の、本当の姿が、これだ。
格下にしか、強く出られない中間管理職。
「面子が、丸潰れになりますね」
俺は、言った。
「三度失敗したのは、支部の手配です。そして伯爵は、支部を飛び越えて、俺たちに頼んだ。──あの男に、打てる手は、もう、ほとんど残っていない」
◇
事実、支部長の反応は、俺の読み通りだった。
その日の夕方、支部の職員が、慌ただしく街を出ていくのを、ニックが目撃した。
「──早馬だ」
夜、クランハウスに戻ったニックが、報告した。
「支部長の名前で、王都のギルド本部宛に、書状が出た。かなりの急ぎだったらしい」
「本部に、泣きついたわけですか」
俺は、静かに笑った。
「何て書いたと思う?」
「想像はつきます」
俺は、答えた。
「『ハルベルに、ギルドの秩序を乱すクランがいる』『私設の斡旋組織が、支部の機能を侵している』『本部の権限で、取り締まってほしい』──そんなところでしょう」
「効くのか、それ」
「効きません」
俺は、断言した。
「盤上の灯は、正式に登録されたクランです。規約違反は、一つもない。本部が動く理由が、ありません」
そして、と、俺は続けた。
「むしろ、逆効果です。──本部は、報告書を読んで、まず、何を確認すると思いますか」
ニックが、首を傾げる。
「……何を?」
「支部の、業績です」
俺は、言った。
「ハルベル支部の依頼達成率は、七割を切っている。負傷者は二桁。そして、領主である伯爵家の依頼を、三度も失敗している。──本部の目には、どう映りますか」
ニックの顔が、ゆっくりと、理解に変わっていった。
「……あの狸、自分から、報告書出したのか。自分の支部が、めちゃくちゃだってことを」
「ええ」
俺は、頷いた。
「あの男は、俺たちを訴えたつもりでしょう。ですが本部にとっては、『支部長が管理できていない』という報告に、しか、読めない」
支部長ジグムントは、また一つ、自分の手で、自分の首を絞めた。
そして、その報告書は、本部の記録として、残る。
「ハルベルという街で、ギルドの秩序を乱す組織がある」
──その一行が、いつか、誰の目に留まるのか。
この時の俺は、まだ、知らなかった。
◇
「──では、精霊銀の依頼、どう受けます」
翌朝、俺は、五人を執務室に集めた。
ガルド、セシリア、ニック、フィオナ、バッセさん。
「まず、現状を整理します」
俺は、机に、二枚の紙を並べた。
一枚は、精霊の地の、断片的な記録。もう一枚は、割り振り表。
「精霊の地は、記録が、ほとんどありません。過去五十年で、確認できる報告は、四件。うち三件は、『帰還したが何も採れなかった』。残る一件は──」
俺は、その一行を、指した。
「『帰還者、なし』」
執務室が、静まり返った。
「支部が三度失敗したのも、当然です。難度が分からない。地形が分からない。何がいるかも、分からない。──盤面が、見えていない」
俺は、続けた。
「だから、まず、俺が調査に行きます。単独で」
「──は?」
ニックが、素っ頓狂な声を上げた。
「待て待て待て、お前が? 一人で?」
「はい」
「いやいやいや! お前、この街で一番弱いんだぞ! 総合九十三! 帰還者なしの土地に、一人で行くのか!?」
「だから、行くんです」
俺は、答えた。
「戦うつもりは、ありません。見て、記録して、帰ってくるだけです。──それが、俺の本業だ」
俺は、記録を、指でなぞった。
「強い人間が行けば、戦ってしまいます。『これなら勝てる』と判断して、踏み込む。──そして、帰ってこない。過去の四件が、たぶん、そうです」
「俺は、戦えない。だから、逃げることに、専念できる。──何か出たら、即座に、退く。それだけです」
◇
「二週間、留守にします」
俺は、割り振り表を、指した。
「その間に、片付けてほしいことが、あります。──溜まっている依頼を、全部」
十六組。魔術師八人、僧侶十人。
「精霊銀の調査に俺が入る間、他の依頼を止めるわけにはいきません。ですが、今の編成では、格上の依頼が受けられない」
俺は、四人を見た。
「だから、散ってください」
「散る?」
「フィオナさん。魔術師のいるパーティーに、入ってもらいたい」
フィオナの、眉が、動いた。
「……いる、パーティーに?」
「はい。いないパーティーではなく」
俺は、説明した。
「魔術師がいないパーティーには、そもそも、魔法を前提とした依頼を回しません。回せないからです。──問題は、魔術師がいるのに、格上の依頼を受けられないパーティーの方だ」
俺は、記録を示した。
「たとえば、この組。魔術師はいます。ですが、下級魔法しか使えない。だから、B上位の依頼は、受けられない。──ここに、あなたが入れば」
「……受けられる、ということですか」
「はい。あなた一人で、パーティーの格が、二段上がる」
フィオナは、しばらく、黙っていた。
「それが、四組あります。順番に、入ってもらいたい」
「セシリアさんも、同じです。僧侶は十人いますが、中位の祝福を戦場で回せるのは、あなただけだ。──格上の依頼を受けるパーティーには、あなたが要る」
「まあ」セシリアが、目を丸くした。
「ニック。あなたは、逆です。斥候は、数だけなら足りている。ですが、質が低い。──あなたには、教育に回ってもらいたい」
「教育!?」
「五組ほど、斥候の腕が明らかに足りないパーティーがあります。彼らと一緒に依頼をこなしながら、技を教えてください。索敵の精度、罠の見抜き方、報告の仕方」
ニックが、頭を掻いた。
「……俺が、教えるのか。人に」
「あなたの索敵と罠の技術は、この街でも上位です。──それを、独り占めしていても、意味がない」
◇
「──レイジさん」
フィオナが、静かに、口を開いた。
「一つ、確認します」
「はい」
「私たちを散らすのは、本当に、不足を埋めるためだけですか」
執務室が、静まり返った。
さすがだ、と、思った。この女は、いつも、計算の合わないところを、正確に突いてくる。
「……半分は、そうです」
俺は、答えた。
「もう半分は?」
「クランを、俺たち五人に、依存させたくない」
俺は、割り振り表を、閉じた。
「今の盤上の灯は、俺が全部の割り振りを組んで、俺たちが実働で穴を埋めています。──それは、脆い。俺が倒れたら、全部止まる」
「……」
「支部長を倒しても、次の支部長が来る。それと同じです。俺がいなくなっても、クランハウスが回るようにしておかなければ、意味がない」
俺は、続けた。
「だから、散らします。俺たちの技術を、彼らに移す。俺の見ている盤面を、彼らに、少しずつ、教える。──二週間、俺がいなくても、クランハウスが回るなら。それは、この盤面が、俺一人のものじゃなくなった証拠です」
◇
「──一人で、行くのですか」
フィオナの声が、わずかに、硬かった。
「はい」
「なぜ」
「3人とも、パーティーに入ってもらう必要があるからです。俺が誰かを連れて行けば、その分、依頼が回らなくなる」
「そうではなく」
フィオナが、遮った。
紫の目が、まっすぐに、俺を見ていた。
「あなたは、この街で一番弱いんですよ。総合戦闘力、九十三。──帰還者なしの土地に、一人で入るなど」
「だから、行くんです」
俺は、答えた。
「…………」
フィオナは、しばらく、黙っていた。
「……あなたは、いつも、そうです」
彼女は、俯いた。
「理屈が、通っている。反論の余地が、ない。……なのに」
その先を、彼女は、言わなかった。
代わりに、顔を上げて、いつもの、つんとした顔で、言った。
「──分かりました。貸し出し、引き受けます。二週間で戻ってこなければ、私が、迎えに行きますから」
「それは、心強いです」
「心強い、で済ませないでください!」
彼女は、そう言って、執務室を出ていった。
◇
出発は、三日後になった。
装備を整え、記録を頭に叩き込み、地図と、感覚強化の付与品を、いくつか。
「レイジ」
出立の朝、荷を積んでいた俺に、ガルドが声をかけた。
「……お前、俺たちを、散らしたよな」
「ええ」
「あれ、本当に、不足を埋めるためだけか?」
俺は、手を止めた。
この男は、時々、恐ろしく鋭い。六年、パーティーの頭をやってきただけのことは、ある。
「──フィオナさんにも、同じことを聞かれました」
「そりゃ、聞くだろ」
ガルドは、鼻を鳴らした。
「お前が、意味のない手を打つわけがねえ」
俺は、荷を縛りながら、答えた。
「クランを、俺たちに依存させたくない。そう答えました」
「それも、半分だろ」
俺は、手を止めて、この男を見た。
ガルドは、腕を組んで、こちらを見下ろしていた。その目に、六年前から変わらない、司令塔の光があった。
「もう半分は、なんだ」
「……」
「言えよ。俺は、看板だ。知る権利くらい、あるだろ」
俺は、少し考えて、答えた。
「あの三人に、気づいてほしいんです」
「何を」
「──さあ」
俺は、荷馬に、鞍を置いた。
「それは、あの三人が、自分で見つけることです」
ガルドは、しばらく、俺を見ていた。
そして、ふっと、笑った。
その笑い方が、どこか、含みのあるものだったことに。
この時の俺は、気づかなかった。
「……お前、そういうとこだよ」
「どういうとこです」
「自分がいなくても回る組織を作る奴が、頭でいられるはずが、ねえだろうが」
ガルドは、俺の肩を、乱暴に叩いた。
「──行ってこい。ここは、任せろ」
◇
そして、俺は、街を出た。
北西へ。精霊の地へ。
背後で、クランハウスが、朝日を浴びて、静かに佇んでいた。
その中で、八十人の冒険者たちが、動き始めている。
俺の組んだ盤面が、俺の手を離れて、動いていく。
──それが、どういう結果を生むのか。
この時の俺は、まだ、想像もしていなかった。
◇
その日の午後。
北の湿地帯で、フィオナは、泥に足を取られながら、詠唱の準備をしていた。
初めて組む、四人のパーティー。前衛が二人、斥候が一人、そして、魔術師が一人──ただし、下級魔法しか使えない、若い男だ。
「フィオナさん! 頼む、ぶっ放してくれ!」
前衛の男が、叫んだ。
泥の中から、ボグクロウラーが、三体。前衛の二人が、それぞれ一体ずつ相手にして、三体目が、こちらへ向かってくる。
フィオナは、詠唱を始めた。
──と、同時に。
「っ、フィオナさん、逃げて!」
斥候の声。
三体目が、彼女の詠唱の射程内に、まっすぐ、突っ込んできていた。
詠唱が、崩れる。
彼女は、慌てて後退し、泥に足を取られ、体勢を崩した。魔力が、霧散する。
「……っ」
なんとか、立ち上がる。もう一度、詠唱。
だが、また、別の個体が、こちらへ回り込んでくる。
前衛の二人は、自分の相手で手一杯。斥候は、警告を叫ぶことしかできない。若い魔術師は、下級の火球を撃つのが精一杯で、牽制にもならない。
誰も。
誰も、彼女の詠唱を、守ってくれない。
戦闘は、なんとか、終わった。
三体を、討伐。負傷者、なし。依頼は、達成。
だが。
「はぁ……はぁ……」
フィオナは、泥だらけの膝をついて、荒く息をついていた。
魔力が、空だった。
三体のボグクロウラー。本来なら、彼女の魔法で、一撃で片付く相手だ。
なのに、詠唱を四回、潰された。撃てたのは、五回目。それも、狙いを外して、二回撃ち直した。
「フィオナさん、すげえ! さすがBランク!」
前衛の男が、屈託なく、笑っている。
「あんたのおかげで、助かったよ! 俺たちだけじゃ、絶対無理だった!」
「……ええ」
彼女は、曖昧に、頷いた。
嬉しくは、なかった。
なぜか。
「──なぜ、こんなに、疲れるのでしょう」
彼女は、泥の上に座り込んで、自分の手を見た。
「私の魔法は、何も、変わっていないのに」
◇
…同じ頃。
東の街道で、セシリアは、困り果てていた。
「あの、皆さん。──祝福を、使うタイミングなのですが」
「え? もう使っちゃったよ、朝、出発前に」
「……朝、ですか」
セシリアは、目を丸くした。
「祝福の持続は、二刻です。街を出てから、もう三刻、経っています。──とっくに、切れていますよ」
パーティーの四人が、顔を見合わせた。
「え、そうなの? 切れてたの?」
「気づかなかった……」
セシリアは、思わず、額に手を当てた。
祝福は、切れる。当たり前だ。だから、戦闘の直前に使う。それが鉄則だ。
だが、この人たちは、それを知らない。──いや、知識としては知っていても、実戦で、それを管理する習慣がない。
「では、今から、もう一度──」
「あ、セシリアさん、その前に。ちょっと回復頼める? さっき転んで、足挫いちゃって」
「そのくらいなら、自然に治ります。魔力は、戦闘のために、取っておかないと」
「えー、でも痛いんだよ」
セシリアは、優しく微笑んだまま、内心で、深く、ため息をついた。
そして、戦闘が始まると。
彼女は、走り回る羽目になった。
前衛が、彼女から離れすぎる。回復が届かない位置まで、突っ込んでいく。慌てて追いかければ、今度は自分が、魔物の間合いに入ってしまう。
「あの、前衛の方! もう少し、下がってください! 回復が、届きません!」
「え、でも、下がったら攻撃が届かねえよ!」
「あなたが倒れたら、元も子もありませんっ!」
戦闘は、辛くも、勝った。
だが、彼女の魔力は、空になっていた。回復に、全部、持っていかれた。
「……あら」
引き上げの道すがら、セシリアは、ふと、足を止めた。
紅の盾での戦いを、思い出していた。
──あの時。
彼女は、いつも、動きやすい場所にいた。前衛は、彼女の回復が届く距離を、決して離れなかった。祝福を使うタイミングは、いつも、誰かが教えてくれた。
「セシリアさん、あと四半刻で切れます」
「今、使ってください」
「その位置なら、全員に届きます」
……誰が、言っていた?
セシリアの、微笑みが、消えた。
「──レイジ、さん」
彼女は、呟いた。
「あなた、いつも……」
私が、動きやすい場所を、作ってくださっていたんですね。
◇
そして、同じ頃。
南の丘陵で、ニックは、頭を抱えていた。
「だから! 敵は三体だっつってんだろ!!」
彼が、斥候として、先行して確認してきた情報。魔物の数、位置、進行方向。
だが。
「おう、分かった!」
そう言って、パーティーの三人は、あっさりと、丘を駆け上がっていった。
──三体の魔物が、待ち構えている、その方向へ。まっすぐ。
「待て待て待て! 正面から行くな! 三体が固まってるって言っただろ! 分断しろ、分断!」
「え? 分断?」
「囲まれるっつってんの!!」
案の定、三人は囲まれ、ニックが必死に投げナイフで撹乱して、なんとか一体を引き剥がして、辛くも勝った。
戦闘後。
「いやー、ニックさんの情報、正確だったな! ほんとに三体いたわ!」
「……いや、あの」
ニックは、額を押さえた。
「情報ってのは、当たってるかどうかじゃなくてさ。それを、どう使うかなんだよ。三体固まってるって分かったなら、正面から行くなって話で」
「え? そういうもんなの?」
そういうもんなの、と言われて。
ニックは、言葉に、詰まった。
──そういうもんだ、と、彼は思っていた。
斥候が情報を持ち帰る。それを、頭が読んで、盤面を組む。「三体固まってる」と聞けば、「なら、一体ずつ剥がす。地形はここが使える。お前が右から釣って、俺が左に回る」と、即座に返ってくる。
そういうもんだと、思っていた。
だが、違った。
「……あー、そうか」
ニックは、丘の上に、座り込んだ。
「そうだよな。──普通は、そうだよな」
普通のパーティーでは、斥候の報告は、「敵が何体いるか」を知るためのものでしかない。それを、盤面に組み込んで、勝ち筋に変える人間なんて、いない。
彼は、思い出していた。
自分が「三体だ」と報告するたびに、あの男が、即座に返してきた言葉を。
『三体か。なら、地形を使う。ニック、お前は右の岩場から音を出せ。一体だけ釣れる。残り二体は、俺が正面で足止めする』
『ニック、その報告、あと一つ足りない。──風向きは?』
『……なるほど。それなら、こう組める』
俺の報告が。
全部。
盤面に、なっていた。
「……レイジ」
ニックは、丘の上で、掠れた声で、呟いた。
「お前の指示、後から考えると全部意味あるんだよな、って──俺は、いつも、そう言ってた」
彼は、笑った。
自嘲するように。
「違うわ。……お前は、俺の報告に、意味を、持たせてくれてたんだ」
◇
そして。
北西の、精霊の地へ向かう山道で。
俺は、たった一人、荷馬を引いて歩いていた。
頭の中では、盤面が回っている。
八十人の割り振り。今日の依頼の進捗。誰が、どこで、何をしているか。
だが、それは、もう、俺の手の中にはない。
俺は、二週間、留守にする。
その間、クランハウスが、どうなるのか。
──回ってくれれば、いい。
俺がいなくても、あの盤面が、動いてくれれば。
山道の先に、古い森が、見え始めていた。
霧に沈んだ、誰も踏み込まない、精霊の地。
『帰還者、なし』
記録の、その一行を、俺は、頭の中で、もう一度読み返した。
俺は、まだ、知らない。
その森で、俺が、何に出会うのかを。
そして、街に残した三人が、俺の不在で、何に気づくのかを。




