第14話 まだ、詰んではない。
「囮になれ! 一体目を仕留める時間を作る!」
ガルドの怒声が、戦場に響く。
死ね、という意味の采配。
俺は、斜面の上に立っていた。
──ここが、分水嶺だ。
頭の中の盤面が、猛烈な速度で回転する。祝福の残り、四半刻。二体の飛竜。破損した盾。潰された長詠唱。挟まれた斥候。掛け直しに入った僧侶。
普通なら、詰み。
だが、俺は普通じゃない。俺は五ヶ月かけて、この四人の全部を記録してきた。射程、詠唱時間、走力、膂力、祝福の持続、癖、呼吸。全部、頭に入っている。
そして俺の身体には、誰にも上書きされない積み重ねが、まだ生きている。
詰み筋を、探す。
──あった。
ギリギリだが五人全員が生き残る手が、一本だけ。
俺は、息を吸った。そして、生まれて初めて、この言葉を、敬語の壁を捨てて、放った。
「──全員、俺の策通りに動け!!」
戦場が、一瞬、静止した。
「囮はやる。だが、死ぬためじゃない。全員生きて帰るためだ!」
「レイジ、貴様……!」ガルドが激昂する。「臨時の分際で、指揮権を奪う気か! この状況で世迷い言を──」
「ガルド」
俺は、初めてこの男を、呼び捨てにした。
「あんたの采配は、一人を捨てる前提だ。俺のは、誰も捨てない。──どっちに賭ける?」
ガルドの顔が、怒りで歪む。
「レイジさん、これ以上は……!」
セシリアが、掛け直しの手を止めて、悲痛な声を上げた。彼女には見えているのだろう。臨時メンバーが、リーダーに逆らってまで、無謀な策を口にする。十五人目が、壊れていく光景に。
しかし…
「──いや」
割って入ったのは、ニックだった。
二体の飛竜に挟まれ、動けないはずのニックが、乾いた笑みを浮かべて叫んだ。
「乗るぜ、レイジ! お前の言うこと、いっつも後から意味が分かんだよ! だったら今も、意味があんだろ!」
「ニック、貴様まで!」
「旦那、悪ぃ! 俺ぁ、こいつに賭ける!」
そして。
「レイジさん」
凛とした声が、戦場を貫いた。
フィオナだった。
杖を構え、まっすぐに俺を見上げている。その紫の目に、俺は、あの日の光景を見た。
初めて出会った、あの窪地。狼の群れに囲まれ、詠唱を三度潰された彼女に、俺が「三秒」を差し出した、あの時。
彼女は今、同じ目をしていた。
「策は、あるんでしょうね」
問い、ではなかった。確認だった。
俺の中に、嘘が混じっていれば、この女はその場で見抜く。だから俺は──嘘を、混ぜない。
「ある」
俺は、断言した。
「俺の言う通りに動けば、全員、生きて帰す。一人も、欠けさせない」
一瞬の沈黙。
フィオナは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。あの日と同じ、面白がるような、その表情で。
「なるほど。──では、数えます」
その一言が、盤面を、動かした。
◇
「ニック! 左だ、二体目の風の刃を軍鼓の間合いで受け流せ!」
俺は斜面を駆け下りながら、腰から軍鼓の短剣を抜いて、ニックへ放った。
「これ、お前が使え! 疲労と恐怖が消える! 三十を数える間、あの飛竜を挑発し続けろ! お前の足なら死なない!」
「っ、了解!!」
ニックが短剣を掴み、魔力を通す。恐怖の消えた顔で、二体目の飛竜へ、あえて飛び込んでいく。
「ガルド! 盾は捨てていい! あんたの膂力で、地上の一体目を今すぐ仕留めろ! 祝福が切れる前だ、四半刻以内に殺せば、二体を相手にせずに済む!」
「……くっ!」
ガルドが、迷いを振り切って、瀕死の一体目へ斬りかかる。膂力任せの一撃が、飛竜の首に食い込む。
「セシリア! 掛け直しはいい! 今は回復に全部回せ! ニックが傷を負う、必ず負う、その瞬間に間に合わせろ!」
「──はいっ!」
「フィオナ!」
俺は、斜面を駆け下りようとした。
その時だった。
「っ、だぁぁぁっ、レイジィ! 限界だぁっ!」
ニックの悲鳴。
見れば、軍鼓の短剣の恐怖耐性で無理を通していたニックが、とうとう体力の限界を迎えていた。二体目の飛竜が、その隙だらけの背へ、鉤爪を振り上げる。
矢を、つがえる。
放った一矢が、飛竜の眼前を掠め、その注意を、一瞬だけ逸らした。
「ニック、退け! 今度は俺が囮になる!」
「っ、レイジ……!」
「短剣はそのまま持ってろ! お前はもう十分やった! ──後は、任せろ!」
ニックが、よろめきながら戦線を離脱する。入れ替わりに、俺が、二体目の正面へ躍り出た。
「フィオナ!」
俺は叫んだ。
「二体目を、俺が旋回させる! 一体目と同じ、失速点を作る! だが今度は、俺の合図は無い! 音を出す暇はない!」
「では、どう合わせるのですか!」
「お前が、読め!!」
「──っ!」
「お前なら、俺の動きから、旋回の頂点が読める! 五ヶ月、俺の戦い方を見てきただろう! お前の目なら、できる!」
フィオナの目が、見開かれた。
そして──微笑んだ。
「……ええ。できます」
彼女の詠唱が、始まる。合図のない、俺の動きだけを頼りにした、二人の呼吸だけの同期。
俺は、走った。
彼女の詠唱が、始まる。合図のない、俺の動きだけを頼りにした、二人の呼吸だけの同期。
俺は、走った。
二体目の飛竜を、旋回に誘い込む。祝福と、腕輪と、ミサンガと、耳飾りと、俺のギフト。積み重ねた全部で、飛竜の初撃を躱し、二撃を逃し、風の刃を紙一重で潜り抜ける。
視界は鮮明。音は明瞭。風は肌で読める。
飛竜が、大きく弧を描く。旋回。片翼の、失速。
その一瞬を──合図もなく、フィオナが、読み切った。
「『氷嵐槍』!!」
空気が、凍る。
俺が誘導した失速点へ、寸分の狂いもなく、氷の槍衾が突き刺さった。
二体目の翼が、砕ける。
巨体が、地に落ちる。
そして落ちた飛竜の首を、一体目を仕留めたばかりのガルドの二撃目が、断ち切った。
◇
静寂が、戦場に降りた。
二体のワイバーンが、事切れて横たわっている。
ニックは軽い火傷を負ったが、セシリアの回復が間に合った。ガルドは盾を失ったが、無傷。フィオナは魔力を使い果たして膝をついているが、生きている。
そして俺は。
祝福が切れる、まさにその寸前で、斜面に座り込んでいた。
全員が、生きていた。
一人も、欠けなかった。
「……はぁ、はぁ」
呼吸が、焼ける。付与品の魔力も、ほとんど底をついている。頭の中で走らせ続けた六つの砂時計は、全部、砂を落としきる寸前だった。
ぎりぎりだった。何もかも、ぎりぎり。
だが、盤面は、最後まで崩れなかった。
俺は、荒い息のまま、天を仰いだ。二体の飛竜の骸の向こう、よく晴れた空が広がっている。
そして、静かに、呟いた。
誰に言うでもなく。ただ、五ヶ月かけて組み上げてきたものが、この一戦で、確かに実を結んだことを、自分自身に確かめるように。
「──盤上は、整った」
◇
誰も、しばらく口を利かなかった。
やがて、ニックが、火傷の手で顔を覆って、笑い出した。
「……はは。はははっ! 何だよ、それ! 生きてる! 全員、生きてるじゃねえか!」
フィオナが、膝をついたまま、俺を見ていた。
いつもの、計算の合わない異物を見る目じゃなかった。もっと別の、初めて見る種類の目だった。
セシリアは、両手で口を覆って、泣いていた。
十四人を見送ってきた人が、今日、誰も見送らずに済んだのだ。
ーそして、ガルドはー
破損した盾の傍らに立ち尽くして、俺を見下ろしていた。
その顔には、怒りも、安堵も、感謝もなかった。
ただ──怯えが、あった。
自分が「捨てろ」と言った駒が、五人全員を救う一手だったという事実。そして、その駒が、五ヶ月間、自分の掌の上で、ずっと牙を研いでいたという事実に。
「レイジ、お前……」
ガルドが、掠れた声で言いかけた。
「何者、なんだ」
俺は、荒い息を整えながら、その問いには答えず、ただ立ち上がった。
答えは、まだ、渡さない。
盤面は、整った。
だが、勝負は、ここからだ。




