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第9話 遭遇

 その日の夜、俺は閉店後の《灯屋》で、この世界について書かれた本を読んでいた。


 店内に客の姿はなく、聞こえるのはページをめくる音と、壁際の時計が刻む規則正しい音だけだ。


 リュシアは風呂に入っており、エリゼさんも自室にいる。


 俺はカウンター席に腰掛け、借りた本を開きながら、気になった箇所を手元の紙へ書き写していた。


 この世界の歴史や地理について書かれた、ごく一般的な教養書だ。


 詳しい事情を調べようとしても、どうしても神話や伝承の域を出ない。


 それでも、何も知らないままでいるよりはいい。


 そう思いながら次のページをめくろうとした時だった。


 ――ガチャガチャ、ガンッ。


 店の外から、何かがぶつかるような音が聞こえた。


 手を止め、顔を上げる。


 音がしたのは店の正面ではない。


 建物の裏側――狭い裏路地の方だ。


 ――ガン、ガラガラッ。


 積まれていた木箱か何かが、派手に崩れるような音が響く。


 夜の静けさを無理やり引き裂くような、落ち着きのない音だった。


 野良猫にしては大きすぎる。


 酔っ払いが転んだにしても、何度も続いているのが不自然だ。


 俺は本を閉じ、椅子から立ち上がった。


 裏路地の音は、一度遠ざかったかと思うと、すぐにまた近づいてくる。


 ガチャガチャ、ガンガン。


 何かが木箱や壁にぶつかりながら、こちらへ走ってきている。


 そう聞こえた。


 次の瞬間、店の裏口が激しく鳴った。


 ガチャガチャ、ガチャガチャッ。


 外から取っ手を乱暴に動かしている。


 鍵が掛かっていると分かっても、諦める様子がない。


「あ、開けて! 開けてください!」


 若い女の声だった。


 息を切らし、声がわずかに裏返っている。

 ただ急いでいるというより、何かに追い詰められているような声だった。


「お願い! 早く!」


 扉がもう一度強く揺れる。


 俺はすぐに鍵へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 閉店後の店だ。

 しかも、数日前からこの辺りでは、夜になると正体不明の物音がするという話が出ている。


 不用意に開けるべきではない。

 俺は足音を立てないように扉へ近づき、脇に取り付けられたドアスコープから外を覗いた。


 小さく歪んだ視界の中央に、ひとりの女性が立っている。

 いや、立っているというより、扉へ身体を預け、どうにか倒れずにいるような状態だった。


 見覚えがある。

 たまに《灯屋》へ来る若い女性客だ。


 俺が店で働き始めてからも、何度か接客したことがある。

 いつもは一人で静かに本を眺め、紅茶を飲んで帰る大人しい客だったはずだ。


 今は、その面影がほとんどない。

 髪は大きく乱れ、肩で激しく息をしている。

 服の裾には汚れが付き、何かに引っ掛けたのか、袖口が少し裂けていた。


 彼女は何度も背後を振り返っている。


 ドアスコープ越しでは裏路地の奥まで見えない。

 だが、暗がりの向こうを恐れていることだけは分かった。


 閉店後に彼女が訪ねてきたことは、少なくとも俺が《灯屋》に来てから一度もない。


「どうかしましたか?」


 扉越しに声を掛ける。

 女性はびくりと肩を震わせ、こちらへ顔を向けた。


「て、店員さん……?」


 俺の声だと分かったのか、その表情が一瞬だけ緩む。


「良かった……いた。お願い、助けて!」


 最後の言葉は、ほとんど悲鳴だった。

 このまま外に置いておくわけにはいかない。


 俺は鍵を外し、できるだけ身体を扉の陰に置いたまま、外の様子を警戒しながら扉を開けた。


「中へ」


 女性は転がり込むように店内へ入った。

 敷居につまずきかけた身体を、俺は肩を支えて受け止める。


「大丈夫ですか?」


「閉めて……早く、閉めてください!」


 彼女は振り返る余裕もなく、怯えた顔でそう訴えた。


 何があったのか。

 誰かに追われているのか。


 聞きたいことはいくつもあったが、今は扉を閉める方が先だ。

 俺は彼女を背後へ下がらせ、裏路地へ視線を向けた。

 

 夜の路地は暗い。


 店内から漏れ出した明かりが、扉の周囲をわずかに照らしているだけだ。

 崩れた木箱が道を塞ぐように転がっている。

 その先には、誰の姿も見えなかった。


 だが、何もいないという安心感はなかった。


 むしろ、暗がりの中から見られているような、妙な気配が残っている。


 俺は扉の取っ手を掴み、急いで閉めようとした。

 重い木製の扉が動き、外の闇を切り取っていた隙間が狭くなっていく。


 あと少しで閉じきる。


 そう思った、その瞬間。

 扉の向こうから、何かが飛び出した。


 人の手に見えた。


 だが、店内の明かりに照らされたそれを認識するより先に、異様に冷たい指が俺の手首へ絡みつく。


 ――何かが、俺の腕を強く掴んだ。


「っ!?」


 尋常ではない力だった。


 このまま力任せに振りほどこうとしても勝てない。

 一瞬でそう判断した俺は、抵抗するのをやめた。

 引かれる力に逆らわず、一歩だけ踏み込む。


 身体をひねりながら重心を預け、相手の引く力をそのまま利用する。

 腕を支点に身体が大きく回転し、俺は相手の横をすり抜けるように路地へ躍り出た。


 着地と同時に勢いを逃がすように一度転がり、そのまま膝をついて体勢を立て直す。


「鍵を! 今すぐ閉めてください!」


 振り返らず店内へ叫ぶ。


 女性ははっと我に返ったように頷き、慌てて扉を引き寄せる。

 重い木の扉が閉まり、続いて鍵の掛かる音が裏路地に響いた。


 これで、少なくとも彼女は店の中へ避難できた。

 リュシアは風呂だ。

 エリゼも奥の部屋にいる。


 二人がこの騒ぎに気付いているかは分からない。


 ゆっくりと立ち上がり、目の前の”それ”へ視線を向ける。


 それは、人の形をしていた。

 二本の腕と二本の脚。

 胴体があり、その上には頭がある。


 だが違う。


 俺の知るどの人間とも違う。

 獣人でも、魔族でもない。


 この世界へ来てから読んだ図鑑や教本に載っていた、どの種族の特徴とも一致しなかった。


 角もない。

 牙もない。

 鱗も、獣耳も羽もない。


 目が二つ。

 鼻が一つ。

 口が一つ。


 顔の部品はすべて人間と同じ位置に収まっている。

 それなのに、視線を向けるだけで全身の毛穴が開いていく。


 胸の奥がざわつき、背筋を冷たいものが這い上がる。

 理屈ではない。

 本能が叫んでいた。


 —―それは同族ではない。

 ――逃げろ。

 ――目をそらすな。


 相反する警鐘が頭の中で鳴り響く。


 風が吹いた。

 厚い雲がゆっくりと流れ、月明かりが路地へと差し込む。


 闇に埋もれていたその姿、淡い光に照らし出された。


 見た目は、三十代ほどの男だった。

 どこにでもいそうな、ごく普通の男。

 町ですれ違っても、記憶には残らないような顔立ち。

 

 それでも、人間ではない。


 そう断言できるほどの違和感が、その全身から滲み出ていた。

 

 俺は右腕に視線を落とす。

 先ほど掴まれた手首が、僅かに濡れていた。


 汗ではない。

 水でもない。


 粘り気のある何かが、皮膚へまとわりついている。

 鼻を衝く、生臭い臭い。

 腐った木材と湿った土を混ぜ合わせたような、不快な臭気だった。


 男の手を見る。

 形は人間の手だ。

 五本指で、爪もある。


 だが、その皮膚だけが妙に滑らかだった。

 濡れた革を無理やり骨へ貼り付けたかのような質感。


 月明かりを受けるたび、不自然な光沢がゆらりと揺れる。

 

 目を凝らしたその時だった。


 男の皮膚の下で、何かが蠢いた。


 血管でもない。

 筋肉でもない。


 細長い何かが、生き物のように腕の内側を張っている。


 思わず息を呑んだ。


 男は瞬きをしなかった。

 ただ、じっと俺を見つめている。

 呼吸をしているようにも見えない。

 

 生きている人間を見ているというより、品定めでもしているような目だった。

 

 背後では、《灯屋》の扉越しに女性が荒い息を繰り返している。


 リュシアは風呂の最中だろう。

 エリゼは奥の部屋で本を読んだり、調べものをしているだろう。


 この異変に、まだ気づいていないだろう。


 だからこそ—―。


 中に、この”何か”を通すわけにはいかない。

 

 俺はゆっくりと腰を落とし、目の前の異形から視線を逸らさなかった。

 その姿は人間だった。

 だが、本能だけが理解していた。


 —―あれは人間ではない。

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