第8話 不審音
クラリスが店を訪れてから数日。
あの日以降、彼女から新しい連絡が入ることもなく、《灯屋》では特に変わったことのない日々が続いていた。
俺は店の仕事を手伝いながら、時間を見つけてはこの世界について調べる。
リュシアは学校へ通い、エリゼはいつも通り、喫茶店の仕事と預かっている古書や古物の整理をしていた。
そんな、代わり映えのしない日の夕方だった。
「リュシアちゃん、知ってる? 最近、この辺りで夜になると不審な音がするって噂」
「不審な音ですか?」
店の奥で食器を片づけていた俺の耳に、常連客の女性とリュシアが話している声が届いた。
店内に残っている客は、その女性一人だけだ。
「そうなのよ。窓とか扉とか、屋根や壁なんかをね。誰かがペタペタ、ペタペタ触って回っているような音がするんですって」
「触って回っている……」
リュシアは想像がつかないのか、困惑したように首を傾げる。
「私は、まだ聞いたことがないですね」
「あら、そうなの? でも気をつけたほうがいいわよ。何かを盗もうとして、家の中を探っているのかもしれないし」
「泥棒ということですか?」
「分からないけど、物騒でしょう? リュシアちゃんも、ちゃんと夜は戸締まりするのよ」
「はい。気をつけます」
心配そうに念を押してから、女性は会計を済ませた。
「それじゃあ、また来るわね」
「ありがとうございました」
リュシアが扉を開けると、女性は小さく手を振りながら店を出ていく。
扉が閉まり、店内に静けさが戻る。
窓や扉を、誰かが触って回る音。
それだけなら、風や動物の仕業とも考えられる。
しかし、屋根や壁までとなると、少し妙な話だった。
◇
その日の閉店作業をしている時だった。
店の前から「警備隊です」と張りのある声が聞こえた。
扉を開けると、二人組の衛兵が立っていた。
一人は紙束を持っており、その中から一枚を取り出して俺へ差し出した。
「夜の巡回強化のお知らせです」
受け取った紙に目を通す。
―
夜間、不審音の報告が多数寄せられています。
戸締まりを徹底し、不審者を見かけても不用意に近づかないでください。
発見した場合は、最寄りの詰所までご連絡ください。
―
犯人像や目的、被害については何も書かれてはいない。
「結構大ごとになってるんですね。さっきも店内で噂になってましたよ。被害とかは出てるんですか?」
「被害などは出ておりません。念のため、巡回強化です。では、隣も回りますので我々はこれで」
そう言って、二人組の衛兵は隣へと向かった。
「さっきの噂、噂で済めばいいのですが……」
リュシアは手渡された紙を見つめながら、不安そうに小さく呟いた。
◇
警備隊が去った後もそれ以上の変わったことは起こらなかった。
日も沈み、《灯屋》も閉店する。
店の片づけを終えると、いつものように三人で夕食を囲んだ。
「今日は学校どうだった?」
俺がそう聞くと、リュシアは少しうれしそうに顔を上げた。
「今日は魔法実技があって、最高得点を取りました。先生たちにも褒めてもらえたんです」
「へえ、すごいじゃないか」
「えへへ……」
照れくさそうに笑うリュシアを見て、エリゼも穏やかに微笑む。
「その調子なら、今度の実技試験も問題ないわね」
「はい、頑張ります」
そんな他愛もない会話が続く。
こうして三人で食卓を囲む時間にも、すっかり慣れた。
「そういえば、夕方の話だけど」
俺がそう切り出すと、リュシアが「あっ」と思い出したかのように顔を上げた。
「不審な音の話ですね。エリゼさん、これを」
リュシアが折りたたんで持っていた紙をエリゼに渡す。
「不審音……私は聞いたことないわ。仮に聞いても飛び出したりしないようにね。特にリュシア」
名指しで釘を刺され、リュシアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「わ、わかりました」
恥ずかしそうに俯く姿を見る限り、どうやら心当たりがあるらしい。
考えてみれば、見ず知らずだった俺を見つけて、そのまま《灯屋》にまで連れてきたのもリュシアだ。
以前にも、似たような形で面倒ごとに首を突っ込んだことがあるのだろう。
困っている誰かを放っておけない。
優しいというだけでなく、たぶん、そういう性格なんだろう。
「さてと、さっさとやることやって、明日に備えなさい。リュシアもお風呂に入ってきな」
「わかりました」
リュシアは浴室へと向かい、エリゼと俺は食器を片付け始める。
食器を重ねながら、俺は昨晩読んでいた本の内容を思い返していた。
「そういえば、昨晩調べていて気になったんですけど」
「何かしら?」
「言葉を司る神と、文字を司る神が、別々でいるんですね」
俺の問いに、エリゼは濡れた皿を布で拭きながら頷いた。
「ええ。言語を司る神トコンバールと、文字を司る神モンジールね。もっとも、今の人間が普段使っている言葉には、言語の精霊の影響のほうが大きいけれど」
「神の力では、会話と読み書きは別物なんですね」
「神話上ではそうね。言語の精霊は、話し言葉だけでなく文字による意思疎通にも力を及ぼしているとされているわ」
「じゃあ、神の方は分野が狭い代わりに、もっと専門的なことまでできるんでしょうか」
「可能性はあるでしょうね。ただ、神の加護で実際に何ができるかなんて、加護を授かった本人にしかわからないことも多いの。神殿に残っている記録にもすべての加護を網羅しているわけではないでしょうし」
「なるほど……」
「実際、あなた自身の加護もあなたしか理解できないはず、確かにどの神からかというのは気になるでしょうけど、調べようがないとしか言いようがないわ。推測する程度ね」
「そうですか」
俺の身に働いているものが、本当に神の加護によるものなのかどうかさえ、精密検査でも確かめられなかった。
話せること。
読めること。
そして、文字ですらない、模様のような古い製品刻印にまで意味が伝わるこの力。
どういう加護なのかも、今の俺には判断できなかった。
やはり、わからないことだらけだ。
片づけを終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。




