第10話 器
「お前は何なんだ」
自分でも驚くほど、低い声だった。
俺が問いかけると”それ”は、まるで人間が考え事をしているかのように首を傾げた。
仕草だけを見れば、人間と大差ない。
だからこそ、その動きがひどく不気味に感じられた。
「み、みつけた」
複数の音を無理やり重ね合わせ、継ぎ接ぎにしたような声だった。
一つの喉から発せられているとは思えない。
男とも女とも、老人とも子供とも、判別できない声が僅かにずれ同時に響いている。
本来ならば、言葉として認識できるはずのない音。
それを言語の精霊の力か、与えられた加護か―—何かが意味のある言葉として理解させてくる。
理解できないはずの声を、理解できてしまう。
普段の翻訳では、一度も感じたことのない不快感が、耳の奥に、頭蓋の内側に、粘つくように纏わりついて離れない。
「何を見つけたんだ?」
”それ”から目を離さないまま、俺はゆっくりと後ずさった。
一歩ではない。
刺激しないように、半歩ずつ。
右足を引き、それに合わせて左足を滑らせる。
背中を向けず、いつでも動けるように重心を低く保つ。
「GUGA...うつ、わ」
獣の唸り声に似た音に交じって、再び不快な声が発せられた。
器。
確かにそう聞こえた。
その瞬間だった。
”それ”が地面を蹴った。
予備動作らしい動きはほとんどなかった。
一気に距離を詰め、襲いかかってきた。
左腕を振り回すような、大振りの一撃。
「っ!」
俺は寸前で身をよじり、腕の軌道から逃れた。
太い風切り音が耳元を通過する。
”それ”の腕が空をきったが、勢いをまるで制御できていない。
上半身が腕に引っ張られて、背骨が折れたのではないかと思うほど、不自然な角度に捻じれた。
隙ができた。
考えるより先に、体が動いていた。
一歩踏み込み、”それ”の膝の外側へ蹴りを叩きこむ。
肉を打つには硬すぎる、鈍い音が、夜の路地に響いた。
手応えはあった。
間違いなく、まともに入った。
そんなことを考える余裕などなかったはずなのに、長年染みついた感覚が、無意識に攻撃の結果を測っていた。
人間なら、膝が内側へ崩れる。
靭帯を痛めなくとも、体勢くらいは大きく傾く。
だが、”それ”は体勢を崩されなかった。
膝をけられたことなど理解していないかのように、捻じれた上半身を起こし、俺へ顔を向ける。
痛がる素振りもない。
怯む様子さえ、なかった。
呼吸が乱れた気配すらなかった。
「嫌な手応えだ」
蹴った足に、まだ感触が残っている。
ぎっしりと中身が詰まった蒟蒻の様な弾力の肉質。
そして、その奥にある骨は、人体のものと思えないほど硬かった。
骨というより、鋼材か鋼管。
足首がじんと痺れていた。
見た目だけなら、ほとんど人間。
手足があり、頭があり、服らしきものも身に着けている。
だが、今の一撃で確信した。
こいつは、間違いなく人間ではない。
「機械か何かか?お前は」
自分でも、驚くほど、苛だった声が出た。
だが、それが強がりであることも、自分ではわかっていた。
勝てない。
理屈ではなく、経験がそう告げていた。
技術が通じないわけではない。
攻撃で、肉体に何らかの影響を与えることはできる。
しかし、痛みも恐怖も感じず、関節や急所を無視して襲ってくる相手を素手で制圧することなど、不可能だ。
最初から制圧目的だったわけではない。
それでも、目の前の存在を俺一人でどうにかするのは無理だと悟ったことで、取るべき行動ははっきりとした。
詰所に向かう。
夕方の警備隊のビラを思い出した。
不審音と、警備強化。
何かあれば詰所にまでと言っていた。
あそこなら、武器を持ち、戦う訓練を受けた人間がいるはずだ。
逃げ込むなら、そこしかない。
「う、つわ」
「また、器か」
こいつは、器を探しているらしい。
だが、先ほど店へ逃げ込んだ女性が、何か特別な物をを持っていた様には見えなかった。
なにより、”それ”は女性が逃げ込んだ店内ではなく、ゆっくりと離れつつある俺を見つめている。
標的は俺に切り替わっている。
理由は分からない。
俺が話したからか。
攻撃を加えたからか。
あるいは、こいつの言う器が——。
「考えるのは後だ」
俺は”それ”に背を向け、走り出した。
石畳を蹴る音に重なって、後ろから湿った足音が追いかけてくる。
ぺた、ぺた、と。
裸足で濡れた床を歩くような音。
街で噂になっていた、不審な音。
間違いない。
こいつが原因だ。
走る速度そのものは、それほど速くない。
全力で走れば、俺の方が速い。
しかし、後ろの足音は一切乱れなかった。
曲がり角でも減速しない。
建物の角に肩をぶつけても、お構いなしに最短距離で追ってくる。
呼吸も乱れている様子もなく、疲労している様子もない。
一定の速度を保ったまま、少しずつ、確実に距離を詰めてくる。
俺は路地を曲がり、詰所のある大通りへ向かった。
左右には、夜空を切り取るように建物が立ち並んでいる。
この商業区では、五階、六階建ての建物も珍しくない。
そのなかで、《灯屋》のような低層で、一階に店舗、奥や上階に住居を備えた建物は少数だ。
三軒程度だったろうか。
だから、あの女性は《灯屋》に逃げ込んだのかもしれない。
普段から客として訪れていたのなら、夜でも誰かいる可能性が高いと考えて――。
「っ!!!」
雑念だった。
ほんの一瞬、意識が後方からそれた。
気づいた時には、湿った足音がすぐ背後に迫っていた。
俺は反射的に前へ飛ぶ。
その直後、左脇腹を何かが掠めた。
衝撃は軽かった。
爪や指先で深くえぐられたわけでもない。
腕の先端ががほんのわずかに掠った。
それだけで、服は引き裂け、遅れて鋭い痛みが脇腹に走った。
「ぐっ……」
体勢を立て直し、再び走り出す。
脇腹へ手を当てると、嫌なぬめりが掌に広がった。
暗くて傷は見えない。
だが、血が出ている。
皮膚を浅く裂かれただけだ。
そう理解しても、安堵はできなかった。
掠っただけで、これだ。
まともに直撃していたら、肉を引き裂かれるだけでは済まない。
肋骨ごと砕かれるか、体そのものを引きちぎられていたかもしれない。
人間ではない。
本能が警告し、理性もそう判断していた。
「くそっ!」
背後で空気が鳴った。
左腕の大振り。
続いて、右腕を突きだすような一撃。
もう一度、左腕を上から振り下ろす。
攻撃に技術らしいものはない。
単調で、大きく、軌道も読みやすい。
だが、掠っただけで致命傷になりかねない攻撃を、何度も避け続けなければならない。
いつまでもつ?
自分の呼吸が急速に荒くなっていく。
胸が痛い。
喉が焼けるように熱い。
最後に、これほど全速で走ったのはいつだったろうか。
大学の頃か。
あるいは、それより前かもしれない。
現場では歩き回っていた。
階段を駆け上がるように上り下りすることも非常に多い。
体力には、それなりに自信があるつもりだった。
だが、それは全速力で走りながら、背後からの攻撃を避け続けるための体力ではない。
そもそも、体は自分が思っていたよりも明らかに鈍っている。
いつまでも全盛期のままでいられるはずがない。
「み、つけた、う、つわ」
「だから、器ってなんなんだよ」
怒鳴り返した直後、進行方向に積まれた木箱が見えた。
路地の片側から崩れ、道の半分ほどを塞いでいる。
飛び越えられない高さではない。
だが、今の呼吸と足の状態で飛べば、着地を失敗する。
迷った一瞬が命取りになった。
背後の足音が迫る。
飛び越えることをあきらめ、木箱をの手前で振り返った。
逃げ道は狭い。
このまま背中を殴られるよりは迎え撃つ方がましか。
「う、つわ」
「会話をするつもりは成立しないらしいな」
”それ”は速度を落とさないまま、再び左腕を振り回した。
大振り。
先ほどと同じ軌道。
俺は寸前で上半身を沈め、腕の下を潜る。
振りぬかれ、伸びきった左腕。
その手首を両手で掴み、脇へ抱え込むようにして体を回した。
手首から前腕にかけて、薄い粘液のようなものがまとわりついている。
生温かく、ぬめっていた。
思わず手を離したくなるような感触を無視して、肘を固定する。
体重をかけ、肩関節が逆方向へ向くように捻り上げた。
人間相手ならば、この時点で抵抗は止まる。
肩が外れるか、肘が壊れる。
いや、その前に痛みで力が抜ける。
だが”それ”は止まらない。
関節を極められていることなど意に介していさず、俺を振り払おうと左腕へ力を込める。
「な、力を入れたら——」
腕の内部から、みし、みし、と乾いた音が鳴った。
骨と関節が、限界を迎えている音。
それでも、”それ”は力を緩めない。
さらに強く腕を引こうとした瞬間。
べきり、と。
太い枝をへし折ったような音が、狭い路地に響いた。
左腕が、肘の近くから不自然な方向へ折れ曲がる。
俺は即座に手を離し、距離を取った。
「……ダメージ自体がないわけじゃないんだな」
”それ”の左腕が、力なく垂れ下がった。
鋼材とすら思えた骨が折れた。
関節も壊れているかもしれない。
少なくとも、左腕はもう使えない。
そう考えた。
その一瞬の判断が、油断だった。
”それ”は痛がる様子もなく、一歩踏み込んだ。
そして、折れた左腕を再び振り回した。
「なっ!!」
先ほどまでとは違い、腕の軌道は大きくブレていた。
折れた部分を中心に、前腕が鞭のように遅れてついてくる。
そんな攻撃を想定できるはずがない。
反応が一瞬遅れた。
俺は両腕を上げ、頭と胸を守る。
直後、丸太で叩かれたような強烈な衝撃が腕を襲った。
視界が揺れる。
足が地面から離れた。
体が後方へ弾き飛ばされ、そのまま積まれていた木箱へ突っ込む。
木板が割れ、箱が連鎖するように崩れた。
がしゃがしゃと、けたたましい音が路地に響く。
「っ……ぐ」
背中が熱い。
打ち付けられた腕も激しく痛んだ。
指を動かす。
動く。
肘も曲がる。
骨は折れていない。
運がよかった。
そう思った直後、湿った足音が近づいてくる。
立たなくては。
もう一度、距離を取らなくては。
「っ、ぐ……!」
痛む体に鞭打ち、木箱の残骸を押しのけて立ち上がる。
そのまま再び走った。
呼吸は酷く荒くなっている。
肺に空気を入れているはずなのに、まるで足りない。
足が重い。
石畳を蹴る度、膝から下が自分のものではないように感じる。
それでも、前方には大通りの灯りが見えていた。
もう少し、もう少し。
あそこまで出たら、詰所はすぐだ。
人がいるかもしれない。
助かる。
助かるかも知れない。
その思いが、僅かに緊張を緩めた。
直後。
背後で、空気が大きく唸った。
振り返る暇はなかった。
折れた左腕が、俺の背中から脇腹にかけて直撃する。
「がはっ……!」
体が、軽い球のように弾き飛ばされた。
視界の中で、空と建物と地面が激しく入れ替わる。
体が浮いている。
次に起きる衝撃に備え、反射的に顎を引く。
腕を畳み、背中から地面へ落ちる直前に体を丸めた。
辛うじて、受け身を取ることはできた。
だが、石畳に落ちた衝撃が全身を突き抜ける。
「がっ……!!!」
一瞬、息が止まった。
肺の中の空気を、すべて押し出されたような感覚。
声も出ない。
背中が痛い。
肩が痛い。
腕も、腰も、脇腹も熱い。
脇腹の傷が開いたのか、服の内側を生温かいものが伝っていく。
立たないと。
立たないと。
頭では、わかっている。わかっている。
足に力が入らない。
膝が震え、石畳へ手をついたまま立ち上がれない。
足が笑っている。
視界の端が明滅するように暗くなる。
立てない。
湿った足音が、ゆっくりと近づいてきた。
ぺた。
ぺた。
もう走る必要はないと判断したのか、”それ”は急ぐ様子もなく歩いている。
獲物はもう逃げられない。
そういわんばかりに。
俺は何とか上半身を起こし、近づいてくる怪物を見上げた。
折れた左腕は、体の横で不自然に揺れている。
それでも、動きに迷いはない。
右腕は無事だ。
「……はぁ」
息を吐くと、喉の奥で乾いた笑いが漏れた。
「せめて魔法でも使えたらなぁ」
こんな時に出た言葉が、それだった。
魔力が無いことなど気にしていない。
そういったばかりだったのに。
都合のいい話だ。
藁にも縋るって事かな。
”それ”は俺の言葉に反応しなかった。
ゆっくりと右腕を持ち上げる。
頭上まで掲げ、叩き潰すために大きく振りかぶる。
俺は動かない足を引きずり、少しでも後ろに下がろうとした。
間に合わない。
避けられない。
「危ない!」
女の声が響いた。
その声を認識するよりも早く、路地の奥から眩い光が走った。
一本ではない。
細く鋭い光が幾筋も夜闇を切り裂き、瞬きすら許さない速度で怪物の四肢と胴体へまとわりつく。
振り上げられていた右腕が、空中で止まった。
光はそのまま鎖のように絡み合い、”それ”の体を強引に締め上げる。
「G――」
怪物の声が途切れた。
次の瞬間、光が地面へ向かって一斉に引かれる。
”それ”の体は抵抗する間もなく石畳へと叩きつけられた。
重い音とともに、路地全体が僅かに震えた。
怪物は尚も、折れていない右腕を地面へ突き、立ち上がろうともがいた。
しかし、光の鎖は一切緩まない。
腕がきしみ、足が石畳を引っ搔いても、その体は地面へ縫い付けられたままだった。
その向こうから、見覚えのある少女が駆けてくる。
淡い光をまとったような金色の髪。
見開かれた瞳。
息を切らし、顔を青ざめたリュシアが、倒れている俺をまっすぐに見ていた。




