第11話 応急手当て
「だ、大丈夫なんですか?」
リュシアが悲鳴にも近い声を上げ、俺の元へ駆け寄ってきた。
風呂から出て、そのまま飛び出してきたのだろう。
結びきれていない髪の先から、まだ小さな雫が落ちている。
「足は……骨は大丈夫だと思う。」
心配させまいと、左足に慎重に体重をかける。
鈍い痛みが走ったものの、立っていられない程ののものでもない。
骨が折れたとか、骨にひびが入ったとかいうよりも、強く打ちつけた痛みに近い。
問題は、脇腹だ。
逃げていた最中は、ほとんど気にならなかった痛みが、今になって急速に存在感を増している。
体の奥で脈打つ度に、焼けるような痛みが広がっていく。
緊張が解け、痛みを鈍らせていたものが一気に引いているのだろう。
初めての経験だったが、これがアドレナリンによるものかもしれない。
服の上から脇腹を押さえる。
掌に、ぬるりとした生温かい感触が伝わった。
「……思ったより出ているな」
手を離してみると、掌が赤く染まっていた。
最初に負った傷が、地面へ何度も倒された衝撃で大きく開いたらしい。
シャツや上着にも、黒ずんだ血が広く染み込んでいる。
「脇腹から血が出てるくらいかな」
「その怪我を、くらいで済ませるのはやめなさい」
路地の向こうから聞こえた声に、俺は顔を上げた。
リュシアの拘束している光に照らされて、声の主の姿が現れる。
「エリゼさん……」
エリゼは、二人の警備隊員を連れてこちらに歩いてくる。
その後ろには、《灯屋》に逃げ込んだ女性の姿もあった。
彼女は、エリゼのものらしい上着を肩から掛け、青ざめた顔で警備隊員の背後を歩いている。
そして、エリゼには、革張りの大きな箱が提げられていた。
金具の付いた頑丈そうな箱だが、見た目からして何を入れているのかは想像がつく。
地球でいう救急箱のようなものだろう。
警備隊だけでなく、手当の道具まで用意している。
随分と段取りいいな。
エリゼは俺のかを見ると、ほんの一瞬だけ足を止めた。
その視線が、俺の顔から血に染まった脇腹、泥で汚れた腕や足へと移っていく。
僅かに眉が動いた。
だが、何かを尋ねるより先に、彼女は警備隊員たちへ向き直った。
「警備隊の方々は、そちらで拘束されている方をお願いします。見た目は人に近いですが、人間だと決めつけないでください。腕が折れていても、まだ動く可能性を考慮してください」
その言葉に、俺はわずかに目を瞬かせた。
後ろにいる女性に聞いたのだろうか。
だが、今は問いかけている場合じゃない。
「わかりました。おい、頭と足を押さえろ」
二人の警備隊員が、リュシアの光の鎖に拘束された人型の怪物へ近づく。
一人が経過気しながら頭部へ金属製の覆いをかぶせ、もう一人が両腕と両足首へ黒い拘束具を取り付ける。
表面に刻まれた文字が淡く光り、拘束具同士が太い鎖で繋がった。
それでも怪物は、体を動かす。
「まだ動くのか……」
警備隊員の一人が、呻くように呟いた。
折れた腕が不自然な方向に曲がっているにもかかわらず、怪物は痛がる様子を見せない。
金属の覆いの奥から濁った声を漏らし、何度もこちらへ這い寄ろうとしている。
「リュシア」
「は、はい」
「警備隊の方が合図をしたら、拘束を少しずつ弱めて。一度に全部消したりしてはダメよ」
「わかりました」
リュシアが、警備隊の人の合図に合わせ、光の鎖を慎重に緩める。
警備隊員たちは怪物の動きを確認しながら、拘束具を締めなおした。
そのまま、二人がかりで怪物を引き起こし、路地の外へと引きずっていく。
連行される間も、金属の覆いの内側から、葉の鳴るような音が聞こえた。
その姿が路地の向こうに消えるまで、俺は目を逸らすことができなかった。
「ソウイチロウ」
普段よりも低い声で呼ばれ、振り向く。
エリゼは救急箱を地面に置き、近くにあった木箱を指さした。
「そこに座って。脇腹を押さえたまま、できるだけ身体を動かさないで」
「これくらいなら、まd」
「掌が血で染まるほど出ているのよ。今は自分の判断で動かないで」
俺の返事を途中で遮るほど、有無を言わせない口調だった。
「……わかりました」
言われたとおり、脇腹を押さえながら木箱へ腰を下ろす。
座った途端、緊張が更に抜けたのか、脇腹の痛みが一段と強くなった。
「リュシア。灯りをお願い。白くて、強すぎないものをいくつか」
「はい」
リュシアが慌てて、光を出す。
俺の周囲に小さな光の玉が現れ、路地全体を柔らかく照らした。
エリゼは俺の正面へ片膝をつくと、まず顔を覗き込んできた。
「私の指何本に見える?」
「二本です」
「あなたの名前は?」
「高嶺総一郎」
「ここがどこかは?」
「《灯屋》近くの路地…?」
「吐き気やめまいは?」
「ありません」
「頭を強く打った記憶は?」
「倒されたとき何度か地面にぶつけましたけど、頭を直接強く打った覚えはないです」
「覚えがないだけも知れないから、後で改めて確認するわ。息苦しさは?」
「少し息を吸うと、脇腹が痛みます」
「わかった。しばらく浅く呼吸して」
エリゼは迷いなく救急箱を開いた。
中から清潔な布を何枚か取り出すと、そのうち一枚を熱く折りたたむ。
「手を退けるわ。代わりにこれで傷を押さえるから」
「はい」
俺はゆっくりと手を離す。
同時にエリゼが布越しに傷口を押さえた。
「っ……!!」
「痛いでしょうけど、我慢して。まずは止血よ」
傷口を直接押され、脇腹に鋭い痛みが走る。
思わず体を捩りそうになったが、エリゼが空いている手で俺の肩を押さえた。
「動かないで」
「すみません」
「謝らなくていいから」
一定の力で傷口を圧迫しながら、エリゼは脇腹の布を確かめる。
上着だけでなく、その下のシャツにも血が染み込んでいた。
傷口周辺で布がさけ、一部が血で肌に張り付いている。
「服を脱げる?」
「多分腕を上げれば……」
「駄目ね」
俺が腕を動かそうとするより先に、エリゼに止められた。
「この状態で無理やり脱いだら、張り付いた布ごと傷口を開くかもしれない。それに、腕を上げれば出血がまた出るかもしれない」
エリゼは救急箱から、先端の丸い小さな鋏を取り出した。
「服を切るわよ。かまわない?」
「大丈夫です」
「上着も、シャツも、もう着れないと思って」
「もとからかなり破れてるので、大丈夫です」
エリゼは圧迫している布をずらさないようにしながらまず上着の脇を縫い目に沿って切り開いていく。
刃先が肌へ触れないよう、指を布と身体の間に入れ、少しずつ切り進める。
上着を開いた後も、そのまま無理やり引きはがされることはなかった。
シャツも傷周辺を大きく残し、身体の側面から慎重に切り開いていく。
「リュシア、も少し明るくして。傷の正面だけじゃなくて、横からも見れるようにして」
「わかりました」
「ええ、いい感じよ」
切り開かれた服の下から、血に染まった脇腹が露わになる。
傷の上には、避けたシャツの一部が張り付いたままる。
「やっぱり癒着しているわ」
「癒着?」
「乾き切った地で布が傷口に張り付いてるの。このまま引っ張ると、塞がりかけた傷まで一緒に剥がれたり、傷が広がったりするわ」
エリゼは小瓶を一本取り出し、中の透明な液体を清潔な布に染み込ませる。
傷口を押さえる布を好感しながら、張り付いた布地にも少しずつ液体を垂らしていった。
「しみるわよ」
「もう痛いので大丈夫です。多分」
「そういう強がりは、痛くなくなってから言いなさい」
冷たい液体が傷へ触れた瞬間、予想以上の痛みが走った。
「っ……!」
「だから言ったでしょう」
エリゼは急ぐことはなかった。
布地が十分湿るまで待ち、端から少しずつ浮かしていく。
抵抗がまだあるところには液体を含ませ、決して無理には引っ張らなない。
ようやく張り付いていた布が外れると、細長い切り傷が現れた。
初めに受けた傷の中央が大きく開き、その周辺にも擦れた痕や内出血が広がっている。
エリゼは表情が僅かに険しくなった。
「思ったより酷いわね」
「あはは……ご迷惑をおかけします」
「笑って誤魔化せる状態かどうかは、私が決めるわ」
いつもと変わらない落ち着いた声だった。
だが、普段よりも僅かに低い。
怒っているというより、何かを堪えているようにも感じた。
「傷は深くないけど、かなり開いているわ。まだ、出血が止まっていないわね」
「地面に何度か倒れたので」
「……そう」
エリゼの指が切り開いた服の端に触れる。
一瞬だけ、彼女の指の動きが止まった。
視線は、裂けた布地と泥の痕へ向けられる。
何か気になることがあるようにも見えたが、エリゼは何も口にしなかった。
すぐに血の付いた布を内側へ折りこみ、傷へ触れない場所へ避ける。
「もう一度押さえるわ。今度は少し強くするから」
「はい」
清潔な布を重ね、傷口へ圧迫を加える。
そのまましばらく待つと、先ほどまで布へ広がっていた血が徐々に少なくなっていった。
エリゼは止血を続けながら、空いた手で脇腹の周囲を慎重に確認する。
「今から骨の周りを触るわ。強く痛むところがあれば、すぐに言って」
「わかりました」
肋骨に沿うように、指先がゆっくりと動いていく。
「ここは?」
「大丈夫です」
「こっちは?」
「少し痛いです」
「刺すような痛み? それとも、押されたところが痛いだけ?」
「押されたときに痛む感じです」
「息を吸ったときは?」
「傷の周りが引っ張られて痛む感じです」
「骨が折れてるとか、大きくずれている感じではないわね。ただ、ひびまではここではわからない」
次に肩、腕、背中とエリゼは傷の状態を順番に確認していく。
泥で汚れた腕は擦り傷がいくつもあり、肩から背中には赤黒い痣が浮かんでいた。
「腕を前に出せる?」
「はい」
「指を一本ずつ動かして」
言われたとおりに指を動かす。
「痺れは?」
「ありません」
「握って。次に開いて」
何度か動かしてみたが、痛みはわずかにあるが、動かせないという程ではない。
「腕や肩は打撲が中心みたいね。足もあとで確認するけど、先に傷を洗うわ」
「お願いします」
出血が落ち着いたのを確認すると、エリゼは傷の周囲を清潔な布で拭い始めた。
いきなり傷口を擦るのではなく、まず周囲の泥や汚れを外側へ拭き取っていく。
そのあと、 別の小瓶から液体を少しずつ長し、傷の中へ入りこんだ汚れを洗い出した。
「随分と手馴れているというか…すごいですね」
「昔、多少習ったことがあるのよ。魔獣だっているし、治療師や回復術師がすぐに来られないこともあるでしょう」
「学校で習うんですか?」
「それもあるけど……まぁ、色々よ」
エリゼは曖昧に答え、傷の洗浄を続けた。
「ただ、私は治療師ではないわ。できるのは、血を止めて、悪化しないようにするところまで。傷を完全に治せるわけじゃないから」
「わかりました」
「わかっている人は、この量の出血で『くらい』とは言わないと思うけど?」
「それは……すみません」
リュシアは俺のすぐ横にしゃがみ込み、治療の邪魔にならないよう両手を膝の上で握っている。
先ほどから、傷口と俺の顔を交互に見ていた。
「本当に、大丈夫なんですか?」
「これくらいなら大丈夫だよ」
「あなたの『大丈夫』はもう信用ならないわね」
エリゼが即座に言う。
「私も、そう思います」
「リュシアまで……」
「だって、手が全部血で赤くなっていたじゃないですか」
反論はできなかった。
エリゼは傷へ薬を塗り、厚く重ねた布をあてる。
その上から包帯を回し、息苦しくならない程度の強さで固定していった。
「苦しくない?」
「大丈夫です」
「深く息を吸ってみて」
言われたとおり、慎重に息を吸う。
傷の痛みはあったが、包帯で胸が締め付けられる感覚はない。
「平気です」
「今の大丈夫は、少しだけ信用してあげる」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
脇腹の処置を終えると、エリゼは腕や肩の擦り傷も荒い、薬を塗っていく。
最後に足首から膝まで触り、はれや動きを確認した。
「足は、今のところ大丈夫そうね。立てても、しばらく無理に歩かないこと。脇腹も、今夜また出血が止まらないようなら、すぐに回復術師を呼ぶわ」
「救急で呼ぶほどではないと思いますけど……」
「今すぐ呼ばないといけない程危険、という状態ではないけど。私の判断だけで終わらせるつもりはないわ」
エリゼは包帯の端を留め、俺の顔を真っすぐ見た。
「明日、治療院へ行ってもらうわ。肋骨や傷の深さを、きちんと診てもらいます」
「あの、明日なら」
「行ってもらうわ」
「……わかりました」
僅かに強められた口調に押され、俺は頷いた。
「あと、今夜は酒も駄目。風呂も駄目。横になるときは、傷を下にしない。吐き気、目眩、息苦しさや変な眠気を感じたら、すぐに私かリュシアを呼びなさない」
「酒は元から飲む予定はありませんでしたが…わかりました」
エリゼに睨まれ、俺は目を逸らした。
「……今回は、大目に見るけど」
救急箱へ道具を戻しながら、エリゼが静かに口を開く。
「あまり無茶はしてほしくないわ。従業員に怪我されたら、店としても困るもの」
「すみません」
「店としても、よ」
念を押すように言ってから、エリゼは救急箱の蓋を閉じた。
それから、切り開かれた俺の服へ視線を落とす。
血と泥に汚れ、あちこちが裂けている。
「着替えは後で用意するわ。今はこれを掛けといて」
救急箱から、大きな布を取り出し、俺の肩へかけてくれる。
「ありがとうございます」
「お礼を言う前に、次からは怪我をしないで……いえ、変に首を突っ込まずに帰ってきなさい」
「わ、わかりました」
エリゼは小さくため息を吐くと、少し離れた場所にいる女性に目を向けた。
「こちらの方から、あなたが助けに入ったことも聞いたわ」
改めて俺を見る。
「一応確認しておくけど、さっきのあの拘束されてたものと何があったの?」
「何があったかと言われると……俺にも、うまく説明できません」
俺は先ほどの出来事をゆっくりと思い返した。
人間のようで、人間ではなかったこと。
人間よりもはるかに強靭な肉体をしていたこと。
湿っていたり、人間とは違うところも多々あったこと。
「人間ではなかったと思います」
「そう」
「少なくとも会話が成立するような相手ではありませんでした。こちらの言葉に反応はしていたみたいでしたが」
あの不快な声が耳の奥でよみがえる。
人間の声を無理やり切り貼りしたような音。
理解できるはずのないものを、言語の加護か何かで無理やり理解させられた感覚。
思い出しただけで、背中に冷たいものが走った。
「『見つけた』とか、『器』とか。そんな言葉を口にしていました」
「あなたに向かって?」
「わかりませんけど、その可能性もあるかと」
エリゼはすぐには答えなかった。
閉じた救急箱の留め金に触れた指先が、僅かに止まる。
「あとは、腕が折れているにも関わらず、痛がる気配もなくずっと襲ってきました」
「……そう」
普通なら、もっと詳しく尋ねられると思った。
どうやって、腕を折ったのかとか。
どうしてあなたの体中に多くの打撲があるのかとか。
だが、エリゼはそれ以上は深く追求はしなかった。
切り開かれた服と、俺の腕や背中に残った傷を一度見た痕、静かに視線を外す。
「あれからは、会話による確認は期待しない方がよさそうね」
「はい」
「それでも、警備隊にはあなたとこの方の証言が必要になるわ。応急処置も終わったし、詰所へ向かいましょう」
「わかりました」
「歩かせるとは言っていないわ」
「足は折れていませんよ?」
「はぁ、折れてないから歩いていい。とはならないでしょ。脇腹の傷がまた開いたら今の処置が全部無駄になるでしょ。店に戻ったら、脇腹の所は付け替えるから」
エリゼは立ち上がると、路地の外へ視線を向けた。
「警備隊に、移動用の車をお願いしてあるわ。それが来るまでは待ちます」
警備隊を連れてくるだけでなく、移動の手配もしていたのか。
やはり、準備が良い。
エリゼは普段と変わらない表情で救急箱を持ち上げた。
その横には、血で染まり、鋏で大きく切り取られた俺の服が置かれていた。




