第2話 エリゼという女
俺は、リュシアに連れられ古書喫茶《灯屋》に到着した。
建物の外観は、どちらかといえば喫茶店の印象の方が強かった。
古びてはいるが、ちゃんと手入れは行き届いている。
木枠の窓には小さな明かりが灯り、入口の横には、見慣れない文字で店名らしきものが刻まれた看板が掛かっていた。
扉を開けると、鈴が小さく鳴った。
最初に感じたのは、古い紙の匂いだった。
そこに、磨かれた木と、淹れたての茶葉のような香りが混じった匂い。
店内はシックで、落ち着いた雰囲気に統一されていた。
壁一面に本棚が並び、天井近くまで背表紙がぎっしりと詰まっている。
テーブルも椅子も木製で、どれも新しくはないが、不思議とみすぼらしいとは感じない。
どちらかといえば、長い時間をかけてこの場所に馴染んだんだろうと感じられる家具たちだった。
少し落ち着く。
すこし奇妙な感覚だった。
つい先ほどまで、俺は知らない路地で目を覚まし、知らない街をリュシアに連れられて歩いてきた。
ここがどういうところなのかも、どうして俺がここにいるのかさえ、到底わかるわけもない。
それなのに、この店の空気は、妙に胸の奥を静かにしてくる。
「リュシア、帰ったのね。その人が?」
奥からひとりの女性が出てきた。
ワインレッドの髪に、長すぎないボブヘア。
年齢は俺より上だろうか?
落ち着いた物腰で、いかにも頭の切れそうな大人の女性だった。
「はい」
リュシアは短く答えると、俺を紹介するように一歩前へ促した。
「初めまして。高嶺 総一郎です。」
俺が名乗ると、女性は俺を上から下まで一通り見た。
値踏み、というほど露骨ではなかったが、ただの挨拶でもなかった。
どういう人間なのか。
危険はないのか。
そういうものを、静かに見透かされているように感じた。
「追い剥ぎに遭ったんだってね」
彼女は一言、俺に向けて言った。
事実確認も兼ねているのだろう。
ただ、それだけではない。少し俺という人間を探っているような気がした。
「はい、衣類以外のすべてを……服があるだけ温情のある追い剥ぎだったのかもしれませんね。はは」
最後には少し乾いた笑いが出た。
実際には俺は追い剥ぎにあったのかどうかすらわからない。
ただ、無一文でこの後、どうすればいいのかさえ何も分かっていない。
この世界のルールも、法律も、金の稼ぎ方すらわからない。
そもそも、帰り方も分からない。
そういう意味では、この場所は少しありがたかった。
古書喫茶。リュシアはここに来る前に、そう言っていた。
精霊がいるくらいだ。
これだけの古い本が集まっているのなら、似たような事例。童話でもいい。
もしかすると、世界を移動する魔法の記述が見つかるかもしれない。
「あまり、見ない服装だけどね。物珍しさで盗られていてもおかしくなかったわ」
エリゼは俺の服に視線を向けた。
いわれてみると少し、物珍しいかもしれない。
だが、俺からすればそこまで珍しい服でもない。
Tシャツにジーパン。単なる私服だ。
そんなに価値のあるものとは思えない。
「そうですかね? 案外みすぼらしいと思われたのかもしれませんね」
「えぇ、それと名前。非常に珍しいわ。聞いたことないもの、ファミリーネームもあるのね」
エリゼはやはりというべきか、俺に様々な質問を投げかけてくる。
「あぁ、高嶺。これがファミリーネームで合ってるのかな?家族や一族を表します。総一郎。これは名前。俺自身を表すって感じです」
俺は質問に答えると、エリゼは「ふぅん」と小さく頷いた。
そしてもう一度、足元から頭の先まで俺を見る。
「じゃあソウイチロウって呼べばいいのかしら?」
「はい。でもまぁ……。いえ、総一郎で大丈夫です」
「……? そう」
そこまで関係値のない人は苗字で呼び合うことが多い、と訂正しようかと思った。
けれど、彼女らはお互いに名前呼びしていた。
わざわざ訂正するのも妙な話か。
少しの沈黙が流れた。
エリゼは俺を見ている。
リュシアは、彼女の隣で黙っていた。
「あ、あの…」
沈黙に耐え兼ね、俺は自分から口を開いた。
「何かしら?」
「いえ、どういった本を置いているのかなぁと……」
情報が欲しかった。
この世界のこともそうだが、帰る方法も、今後の生活の事でもいい。
なんでもいいから手掛かりが欲しかった。
エリゼは近くの本棚に目を向けると、そこから1冊の本を取り出した。
「たとえば、こういう古い時代の本ね」
そう言って、俺に差し出してくる。
俺は差し出された本を受け取る。
表紙は厚く、手触りは少しざらついている。
古い本特有の傷みはあるが、不思議と脆さは感じなかった。
「私の魔法で、劣化はほとんどしないようになっているわ。持ち出されても一定時間経てば元の場所に戻るわ。」
「へ、へぇ…」
凄まじい魔法だなと思った。
そんなものがあるなら、図書館や資料館などから引っ張りだこなのでは?
いや、日本の基準で考える方が間違えているのかもしれない。
俺は手渡された本を受け取り、表紙に目を落とす。
――花の女神の軌跡
少しだけ中身に目を通す。
概ね、この女神が何をしたのかといったことが記述されているような内容だった。
「言語の精霊というのは凄いですね。見たことない文字だなと思ったのに意味が理解できた」
エリゼは一瞬、「この男は何を言っているのだろう」とでも言いたげな表情を見せた。
「そうね、この本はどうかしら」
彼女は別の本棚へ移動し、もう一冊の本を取り出した。
リュシアが、わずかに眉を動かす。
それが何を意味するのかは分からなかったが、さっきまでと空気が少し変わったことだけは分かった。
渡された本の表紙には、こう書かれていた。
――古代の祭祀詩集
中身を開く。
そこには、さまざまな祭祀についての記述が並んでいた。
祈祷そのものらしき文面が多い。
詩集という名の通り、韻を踏んでいるような箇所もある。
意味は分かる。
ただ少し読みにくい。
直訳されたような文を読んでいるような、読みづらさ。
もしくは、平仮名だけで構成された文面。
「なかなか、面白いですよ。昔の授業か何かで使っていた教科書なんかよりもはるかに。詩集というけど、別の文化圏から集めているのか、ちょっと意味が分かりにくいやつとかもありますけど」
俺がそう答えると、彼女は目を見開いた。
いや、彼女だけではない。
それまで静かに会話を聞いていたリュシアでさえ、驚いているのがわかる。
どうやら何かを踏んだらしい。
「あ、あれ、どうかしましたか? いや、別にそういう祈祷を否定したってわけじゃないんですよ?」
俺が弁明の言葉を言い始めたところで、エリゼが口を開いた。
「……どこを読んだの?」
「え?」
「今、あなたの言った祈祷の所よ。どこまでの意味が分かったの?」
エリゼの声は穏やかだった。
けれど、さっきよりも少し慎重になっている。
「どこまで、と言われると…全部ではないですけど。ちょっと翻訳がおかしいのか、そもそもの文面がそうなのかがわからないので……」
俺がそう答えると、エリゼは本のページを覗き込んだ。
「リュシア、読める?」
リュシアも、エリゼと同じように覗き込む。
「い、いえ…そういう授業を受けているわけでもないので…」
リュシアは少し恥ずかしそうに答えた。
「古代の祭祀詩を集めたものだから、章ごとに別の言葉が使われているわ。時代も地域も違う。何なら祈る相手さえ違う。こういうのにあまり興味のないリュシアが読めないのは仕方ないわ。1章読むだけでも、相当な勉強が必要だもの……」
「あの…つまり?」
俺はエリゼに質問する。
答えはある程度読めてはいたが……
「ソウイチロウ、あなたに最初に渡した本は、言語の精霊の守備範囲内よ。だから読めても不思議ではない。けれど、今の本は違うわ」
エリゼは静かに言った。
「この本に含まれている祭祀の言語の多くは、上位精霊や神に向けての祈りの言葉。つまり、言語の精霊の範囲外よ」
俺は、手の中の本を見下ろした。
さっきまでただの古い詩集と思っていたが、今は別の重みを感じた。
「ソウイチロウ、あなた、言語の精霊についてはどの程度知っているのかしら」
「えっと、ここに来る途中にリュシアに教えてもらった程度です」
「リュシア」
「はい。私が説明したのは一般的な範囲内です」
リュシアが小さく頷いて、エリゼに答える。
その声は控えめだったが、俺を庇うような響きがあった。
エリゼはしばらく沈黙した後、俺ににこりと笑った。
「ふふ。とんだ田舎から出てきたのかしら」
「あはは…面目ない」
「じゃあ、少しだけ説明するわね」
エリゼは俺の前の椅子を指した。
「立ったままでは落ち着かないでしょう?座りなさい」
「あ、はい」
促されるがままに、俺は椅子に座った。
木の椅子は堅かったが、そこまで嫌な座り心地ではない。
リュシアは奥へ行き、すぐに湯気の立つカップを持って戻ってきた。
「飲みますか?」
「あ、ありがとうございます」
俺の前に置かれたカップから、柔らかな香りが立ち上る。
エリゼの視線はまだ少し鋭かったが、その香りは穏やかだった。
どちらかというと、コーヒーのほうが好きだが…紅茶も好きだ。
「まず、言語の精霊についてだけど」
エリゼが静かに話し始める。
「この精霊の力によって、人々は言語による意思疎通が阻まれることはない。意思を込めて発せられた言葉は、相手に伝わる。文字も同様。一般的な文字なら、読もうとすれば意味を理解できるわ」
「なるほど……」
「でも、すべての言語に対応しているわけではないの」
エリゼは、俺が手にしている『古代の祭祀詩集』を指さした。
「だから、普通は読むことができないわ。」
「普通は読むことができない?」
「ええ、自力でその言葉を学ぶほかないわ」
彼女は俺のことを今一度じっくりと見つめる。
「もしくは、特別な魔力性質をもっているか。そのどちらかね」
少し話が読めてきた。
今読んだ本は、単なる古本として渡されたわけではない。
恐らく俺の言動から、読めるかどうかを試されたのだ。
「この本を俺が読んだ時点で、その言語を知っているか。その魔力性質ってやつを持っているか……ってことですよね」
「ええ、そういうことよ。しかも、その本はさっきも言ったけど、一つの言葉だけで作られたわけじゃない」
エリゼはそう言い、俺の手元にあった本を開き、何か所か指さす。
「あなたがさっき読んでいたこの辺りとか、専門家でさえ解読に時間が掛かったところよ。それもここや、ここも。少なくとも3つの言語に精通しているといえるわ。専門家レベルね。少なくとも私はあなたのような専門家を知らない」
「専門家……」
俺は思わず、間抜けな声を出してしまった。
専門家どころか、俺はこの世界の礼儀作法も、神の名前も、精霊の数も、なにもかも知らない。
「ここまで話しておいてなんだけど、私は、ここにある本をすべて読めるわけじゃないの。」
エリゼは本棚や店の奥などへ視線を移した。
「私はそういう解読に長けた魔力性質ではないわ。保存などがメインの性質ね」
彼女は再び俺に視線を戻す。
「けれど、あなたは読めた。それも、一つじゃないわ。複数のものをね。だから、あなたがその魔力性質を持っている可能性は非常に高いと私は判断したわ」
「魔力性質…」
リュシアは少しだけ俺の顔を見た。
何かを言いたげだったが、結局何も言わなかった。
エリゼが続ける。
「読めないままの本をいくつも抱えているの。よかったら、ここで解読を手伝ってみない? 店番くらいならリュシアの目もあるし、試用期間ってことでも」
あまりにも。とんとん拍子だった。
それでも、俺にとっては願ってもない提案だった。
この世界のことは分からない。
帰る方法もない。
生活基盤どころか無一文。
そんな状態で、働く場所が得られるかもしれない。
どれほど、ありがたいことか考えるまでもない。
「それは非常に助かります。ぜひ、お願いします」
俺は深々と頭を下げた。
カップの中の湯気がゆっくりと揺れた。
エリゼは別に俺を信用したというわけではないだろう。
実際、いきなり現れた身元も定かではない人間だ。
だが、少なくとも今の俺にとってここ以外に立っていられる場所はなかった。




