第十五話 恐怖の沼地
三人は泥の中にゆっくりと沈み込み、恐怖でもがいていた。
足場が不安定な状態であり、足を抜こうとすればするほど下に沈んで行く。
「ああ、マルグリット。どうしよう……足が動かない!」
モニカは肩越しに振り返ろうとして助けを求めるが、少し身体を動かしただけでも沈むスピードが速くなっていた。
もう既にモニカの履いているニーハイブーツが隠れる程に埋まってしまった。
ブーツの履き口から流れ入る泥の感触に気持ち悪さを覚えてしまう。
モニカの後方数メートル先では、マルグリットとエルゼリアが横に並び、泥の中から足を引っこ抜こうと躍起になっていた。
「お嬢様! 今助けに行きます!」
「クッ……、あんたのとこのお嬢様はじっとしてられないね! 全く!」
二人はそれぞれ思っている事を口に出した後、両足を泥の中から引き上げる事に成功した。
エルゼリアは一旦斜面に登って何かロープになる物はないか探ろうとするが、マルグリットはそのまま匍匐前進でモニカの所に向かう。
だが、モニカの方はパニック状態でもがき、下半身は泥の中に埋まり、骨盤の位置まで沈んでしまった。
彼女の周辺は茶色く濁った泥沼に変わり、ブクブクと泡の破裂音が無造作に聞こえて来る。
マルグリットは自分の身体が沈まないよう地面に這いつくばる姿勢の状態でモニカに声を掛けた。
「お嬢様! 落ち着いて下さい! 今そっちに向かいますから──」
「いやああああああ! だ、誰か、誰か助けて……」
モニカは頭が真っ白の状態であり、侍女の声が聞こえなかった。
するとマルグリットは大声で彼女の名前を叫んだ。
「モニカ!!!!!!!!」
その声は腹の底、いや心の奥底から出た声であった。
モニカはエルゼリアの声に反応して振り返ると、泥水に濡れながら自分に手を差し伸べるマルグリットの姿がそこにあった。
マルグリットは微笑みながら言った。
「モニカ様、そのまま、ゆっくり、身体を後ろに反らす事が出来ますか?」
その言葉を聞き、モニカはゆっくりと上半身を後ろに反らし、仰向けの体勢を取った。
「そのままの状態で両手を後ろに伸ばして下さい。背伸びするかのようなイメージで」
言われた通りに両手を後ろに伸ばすと、マルグリットがモニカの両手を掴んだ。
マルグリットは腕の力でモニカを引き上げようとするが、モニカの下半身は泥に埋まっているため、中々引っ張り出す事が出来ない。
それどころかモニカの身体は、泥沼に引きずり込まれていく。
そんな時、後ろの方でエルゼリアの声がこだました。
「何とか持ち堪えて! 今、蔦をロープ代わりにするから!」
「エルゼリア! お願いします!」
ズブ、ズブブ……ズズズ……。
とうとうモニカの身体は胸の位置まで沈んでしまい、二人が固く繋いだ両手は一本、また一本と指が滑ってゆく。
マルグリットも何とか踏ん張りたいのだが、うつ伏せ状態のままであり、立ち上がると自分も沈んでしまうからである。
「マルグリット」唐突にモニカが声を掛けた。「マルグリット、手を離して……」
耳を疑うような言葉にマルグリットは少し荒い口調で言った。
「何馬鹿な事言ってるんですか! 今、エルゼリアが助けてくれます! それまで辛抱を──」
「もう駄目……。身動きが出来ない」
モニカはもう首元まで沈んでしまっていた。二人を繋ぐ両手は片一方離れてしまい、泥の波打ちがモニカの顔に掛かってしまった。
視界を奪われ、片方の手で泥を払おうとするが、肘辺りの方で何か硬い物と接触した。
モニカは大きい石に当たったのかもと思い、その硬い物に掴もうと手で探り始める。
そして、掴む事が出来た。
やった。一縷の望みが見えた。
だが、その望みは一瞬で絶望へと変わってしまった。
その石は異様に軽く、歪な形──空洞があり、カタカタと音を立てていた──であり、簡単に持ち上げる事が出来てしまった。
泥で視界が遮られて見えない中、石を持っている腕で顔を拭う。
瞼が開き、眼球が捉えた先は……、軽石では無く、人の頭蓋骨だった。
両目からは泥の涙を流し、口の部分には水草や小石が挟まっていて泣いているように見えた。
「いやああああああ!」
モニカは悲鳴を上げ、持っていた頭骸骨を落としてしまう。
彼女の悲鳴に呼応するかのように、泥の表面から次々と人間の頭蓋骨が浮かび上がって来た──おそらくエルゼリアが言っていた行方不明者達で、誰も助ける事が出来ずにそのまま沼に飲み込まれてしまったのだろう。
頭蓋骨の視線はモニカに向けられ、こっちへいらっしゃい、私達の仲間になりましょうと誘っているように見えた。
驚いた拍子に、二人を繋ぐ手は滑り落ちてモニカは一気に口元まで沈んでしまった。
「……うっ。……ゴホッ、か、ゲホッ」
「モニカお嬢様!」
「マルグリッド! これを使って!」
エルゼリアはそう言って、ロープと同じ位の太さがある長い蔦をマルグリットに向かって投げ飛ばした。
マルグリッドは急いで自分の腰に蔦を巻き付けて、モニカがいる泥沼に入る。
モニカは必死で抗おうとするが、きめ細かい土と汚い水がモニカの身体を圧迫し、声を上げる事が出来なかった。
解放されてしまった両手は上空へと突き上げ、何もない空気中を掴んでいるだけであり、指先がぴくぴくと痙攣を起こしていた。
(もう……、ダメ……)
モニカは目を瞑り自分の頭が泥の中へ沈んでいくのを感じていた──耳はこもり、冷たい泥が口の間、耳、鼻の穴に入り込んで来る。
息も出来ず、意識が徐々に遠のいて行く。
もう、ここまでなのか、と諦め掛けたその時、自分の身体が上がって行くのを感じた。
誰かが自分の両手を掴んで真上へと押し上げたのだろう。
彼女は目を開ける事が出来なかった──目を開けたら先程の骸骨が凝視しているかもしれない。
何者かの手がモニカにへばり付いている泥や水草を拭ってくれている。
そして、聞き慣れた声が小さくもモニカの耳に届く。
「モニカお嬢様! 大丈夫ですか、返事をして下さい!」
聞き慣れた声が届き、ゆっくりと目を開ける。
今度は骸骨ではなく、ちゃんと生きた人間……もとい、マルグリットの顔がハッキリと見えていた。
モニカは少し笑いかけたが、今の状況はやばいと感じ、震えた声で返答した。
「マルグリット? 何でここにいるの? あなたまで沈んでしまったら私達ここまでなのよ?」
「大丈夫です」
マルグリットはそう言ってモニカを抱き締め、耳元で囁いた。
「今、エルゼリアが命綱──木に垂れ下がっていた太い蔦──を持ってきてくれました。さあ、ここから出ましょう。……約束したじゃないですか、モニカ様の剣となり盾となりますと。ここであなたを見殺しにしたら、私は生きる意味を持たなくなってしまいます」
マルグリットはそう言うが、彼女自身も速いスピードで泥の中に沈んでいく。
二人の短い会話の中で目線は同じ高さになってしまった。
「お嬢様、ぐずぐずしてる場合ではありません。私から離れないで。後はエルゼリアが引っ張ってくれます。さあ、早く」
モニカは言われた通り、マルグリットの身体にしがみつく。
マルグリットは手を上げて合図をした後、腰に巻き付けた蔦のロープがピンと張り、二人を沼から引き上げようとしている。
みるみる内に二人の身体が現れてくるが、泥にまみれ酷い姿になっていた──モニカは頭からつま先まで泥に浸かってしまっため、泥人形と間違われてもおかしくない有様だった。
そして、二人はようやく底なし沼から脱出する事に成功した。
二人は這いつくばった状態で近くの斜面を登り、固い地面かどうか確かめた後、後ろに倒れ込んでしまった。体力を消耗してしまい、その場から動く事が出来ずにいた。
エルゼリアは蔦のロープを持ちながら二人の元へ駆けつける。
「二人共、大丈夫?」
エルゼリアの問いかけに二人は呼吸を荒くしながらも深く頷いた。
マルグリットは腰に巻き付けた蔦を取り外してエルゼリアに渡そうとする。
「ありがとうございます、エルゼリア。あなたに救われたのは今回で二度目ですね」
「全くだよ。本当に世話の焼けるお嬢様だね」
エルゼリアは呆れた表情でモニカを見下ろすが、当の本人は目を閉じて、何回も呼吸を繰り返しているだけで何も反応は返って来なかった。
エルゼリアはマルグリットから蔦を受け取り、近くの草むらへ投げ捨て、モニカが見つけたネモフィラの咲いてある場所まで歩いて行った。
その花をよく観察した後、エルゼリアはがっくりと肩を落としてしまい、踵を返して二人の所に戻って来て言った。
「あれはただの雑草。ネモフィラに似ているけど葉っぱの形状や花の大きさも全然違うわ。……残念だけど」
彼女は空を見上げる──昼一で出発したのに辺りは夕焼けに染まっていた。
本当はもう少し探索したいのだが、夜になるとモンスターが徘徊するため、引き返すしかなかった。
それに尚且つ、倒れている二人を見て、これでは先に進めない、と思ったからである。
エルゼリアは肩をすくめ、再度二人に声を掛けた。
「ほら、立てる? この森の夜の時間帯は危険だからひとまず退散しましょう」
エルゼリアの言葉に二人は上半身を起こして小さく頷いた。




