第1章ー8
「聖なる守護神よ。絶対の防御を誇る御身の防壁をもって、親愛なる者たちを守りたまえ――【絶防結界】!」
詠唱を終えた瞬間、俺を中心に半透明の魔力が広がり、周囲を覆う巨大な結界が形成された。
半径百メートル。
この規模の結界を維持するだけでも、相当な魔力を消費する。だが、出し惜しみをしている場合ではなかった。
守るべきものは、自分の命ではない。
サダメとステラ。そして、この村に暮らす人々だ。
俺が本気で戦えば、どれほどの被害が出るか分からない。敵の攻撃だけでなく、俺自身の魔法による二次被害も防がなければならない。
だからこそ、戦いが始まる前に結界を張った。
――もっとも、悠長に守りを固めている時間もないのだが。
迅速に目の前の敵を仕留め、他の場所へ援護に向かう。
それが、今の俺にできる最善の行動だった。
この村は、魔物が滅多に現れない平和な土地だ。村の周囲には護衛もいるが、その大半は安い報酬で雇われた、戦闘経験の浅い冒険者にすぎない。
普段なら、それでも十分だった。
だが、相手が魔王軍幹部ともなれば話は別だ。
まともに対処できる者など、そうそういるはずがない。
今頃、村のあちこちで何が起きているのか。想像するだけで、胸の奥から焦燥が込み上げてくる。
それでも、焦って判断を誤れば、守れるものまで失ってしまう。
まずは目の前の敵を倒す。
すべては、それからだ。
「『さて……準備はもうよろしいのですか?』」
エイシャが、まるで世間話でもするかのように尋ねてきた。
「……随分と悠長なことだな」
「『ええ。最初に仕掛けたのは私ですから。今度は、そちらからどうぞ』」
余裕たっぷりの態度。
こちらを脅威とすら見なしていないのか、それとも、何をしても無駄だと確信しているのか。
どちらにせよ、腹立たしいことに変わりはなかった。
まず倒すべき相手は、目の前にいるこの女。
魔王軍幹部【十死怪】の一人――エイシャ。
こいつが現れた瞬間、俺はその魔力をまったく感知できなかった。
それなのに今は、肌が粟立つほど禍々しく、強大な魔力を放っている。
どういうことだ?
魔力を隠す能力があるのか。それとも、何か別の仕組みが働いているのか。
疑問は尽きない。
だが、今は考えている場合ではなかった。
「なら、遠慮はしない」
「『全然構いませ――』」
言葉が終わるのを待つつもりはなかった。
俺はすでに踏み込んでいた。
左手に握った剣を振り抜く。狙うは首。
相手がどれほどの実力者であろうと、首を落とせば無事では済まないはずだ。
「くっ!?」
エイシャの身体がわずかに揺らぐ。
「『ふん』」
次の瞬間、剣が首を断ち切った。
――手応えは、ない。
斬り落とされた頭部が、紙片のように細かくほどけて宙を舞う。
そして、それらは吸い寄せられるように胴体へと戻り、何事もなかったかのように元の形を取り戻した。
「…………」
やはり、ただ斬るだけでは倒せないか。
先ほど、業火剣で上半身を切り裂いたときと同じだ。斬撃そのものは通っている。だが、傷を負わせたところで、すぐに再生されてしまう。
ならば、別の方法を試すしかない。
「なら――」
俺は剣を引き、即座に後方へ跳んだ。
【脱兎跳躍】。
脚に魔力を込め、一気に距離を取る。
「爆ぜる焔よ、火の球として凝縮し、眼前の標的に猛る一投を放て――【火球】!」
詠唱と同時に魔力を練り上げ、左手の剣先から炎の球を撃ち出す。
狙いはエイシャの胴体。
結界を維持しながらの戦闘である以上、無闇に距離を取るわけにはいかない。周囲への被害を抑えつつ、必要な威力を確保する。その兼ね合いを考えれば、今放てるのは詠唱による増幅を含めても、本来の全力には届かない一撃だった。
それでも、試す価値はある。
この結界の中から、奴を逃がすわけにはいかないのだから。
「『ふっ』」
エイシャが小さく笑った。
次の瞬間、火球がその身体を捉えた――ように見えた。
炎は確かに胴体へと直撃した。
だが、爆発は起こらない。
火球はエイシャの身体を貫通し、そのまま背後へと抜けていった。
「ッ!?」
火球が結界に衝突し、轟音とともに爆散する。
その一方で、エイシャの胴体には、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
――避けたんじゃない。
当たる直前に、身体そのものを変形させたのか。
「『残念。この程度の魔法なら、避けるまでもありませんね』」
エイシャが言い終える頃には、胴体の穴は跡形もなく塞がっていた。
傷を再生するだけではない。
攻撃が当たる瞬間に、肉体そのものを変形させ、受け流すこともできるらしい。
自在に身体を変形させる魔物なら、見たことがある。スライムのような軟体生物がその代表例だ。
だが、目の前の女はどう見ても人型であり、スライムの類には見えない。
そもそも、魔族がこれほど自在に肉体を変化させるなど、聞いたことがなかった。
……いや。
分からないことが多すぎる。
まず、どうやって村に侵入した?
あれほど強大な魔力を持つ存在が、俺の感知網をすり抜けた。しかも、エイシャ一人ではない。部下たちも村の各所へ入り込んでいる。
魔族は、一般的に人間よりも魔力量が多く、魔力の性質も異なる。
戦闘経験の浅い冒険者ならともかく、魔力の扱いに慣れた者が気づかないはずはない。
まして、俺が見逃すなど――。
「…………」
いや、実際に見逃したのだ。
その事実は変わらない。
俺は魔力感知を得意としている。周囲の状況にもよるが、条件が整えば半径一キロメートルほどまで探知できる。
騎士団に所属していた頃と比べれば、感覚に多少の衰えはある。それでも、実戦で使うには十分な精度を保っているはずだった。
現に、以前この村の近くに【赤火猪】の群れが現れた際も、俺はその接近をいち早く察知した。
冒険者たちと協力して討伐し、村人たちと一緒に猪鍋を囲んだのも、そう昔の話ではない。ちなみに、鍋に使った猪肉は普通に生息している野生の猪のものだ。
……今は、その思い出に浸っている場合ではないな。
思考を切り替える。
問題は、これほどの魔力を持つ敵が、なぜ俺の感知を逃れられたのかということだ。
魔力を隠す能力。
あるいは、俺の感知そのものを妨害する何か。
そして、先ほどの肉体変形と再生能力。
どちらもエイシャ固有の能力なのか。それとも、魔族としての性質なのか。
情報が足りない。
何もかもが不明なままでは、対策の立てようがなかった。
「『どうしました? もう打つ手は尽きましたか?』」
「くっ……!」
エイシャの挑発が耳に刺さる。
考えたところで、今すぐ答えが出るわけではない。
時間がないのだ。
サダメも、ステラも、村の人々も危険に晒されている。
ここで俺が立ち止まっていれば、その間にも誰かが命を落とすかもしれない。
ならば、やるべきことは一つ。
攻める。
攻撃を仕掛けながら、奴の能力と弱点を探る。
再生できるのなら、再生が追いつかないほどの攻撃を叩き込む。身体を変形させられるのなら、変形する暇を与えないほどの手数で攻める。
それでも駄目なら、別の手段を考える。
今は、目の前の敵を止めることだけに集中しろ。
俺は剣を握る左手に力を込めた。
刀身を包む炎が、勢いを増していく。
燃え盛る炎が、剣の輪郭を覆い隠す。
「……考えるのは、後だ」
俺は一歩、地面を踏みしめた。
「行くぞ!」
次の瞬間、炎をまとった剣を構え、エイシャへと斬りかかった。




