第1章ー7
「お父さん!?」
「ッッ……!!」
宙を舞っていた父の右手が、地面へと落ちた。
その光景を目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。
父は右腕の切断面を左手で押さえ、苦悶の表情を浮かべながら膝をつく。指の隙間から、赤い血が絶え間なく流れ落ちていた。
何が起こった?
どうして、父の腕が……?
理解できない。理解したくもない。
けれど、目の前で起きたことだけは、嫌というほど理解できた。
これは、まずい。
今までの人生で感じたことのない恐怖が、全身を駆け巡る。
逃げろと、本能が叫んでいた。
この場にいてはいけない。目の前にいる存在は、絶対にまともな相手ではない。
だが、足が動かなかった。
「『これは失礼。貴方が突然、攻撃態勢に入ったものですから……どうやら、無意識に防衛反応が働いてしまったようですね』」
父が片膝をつく中、灰色のローブをまとった人物が、何事もなかったかのように口を開いた。
声は女性のものだろうか。
澄んだ声ではある。だが、どこか機械音のような響きが混じっていた。人間の声に似ているのに、どこか決定的に違う。聞いているだけで、背筋がぞわりとする。
「『しかし、腕を切断されて悲鳴ひとつ上げないとは……少々驚きました。それとも、激痛で声も出ないのでしょうか?』」
「…………」
ローブの女は、愉快そうに父へ語りかけていた。
まるで、世間話でもしているかのような口調だった。
片腕を失った人間を前にして、どうしてそんな態度でいられるのか。
いや、そもそも――。
目の前の女は、本当に人間なのか?
自分ですら、恐怖で声が出ない。
身体は震え、頭の中はぐちゃぐちゃだ。何かを考えようとしても、まともに思考が働かない。
そんな状態なのだから、激痛に襲われている父が口を開けないのも当然だった。
「『おっと、失礼。まだ名乗っていませんでしたね』」
女は、わざとらしく思い出したように続けた。
「『私は魔王軍幹部――【十死怪】の一人、エイシャと申します。以後、お見知りおきを』」
そこで、わずかな間が空いた。
そして、彼女は淡々と付け加える。
「『もっとも……貴方と再び言葉を交わす機会は、もうないでしょうが』」
「…………」
父は何も答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
だが、そんなことなど意にも介さず、エイシャは自己紹介を終えた。
十死怪。
その言葉には、聞き覚えがあった。
確か、魔王軍に所属する強大な幹部たちのことだったはずだ。前世の記憶を持つ自分にとっても、この世界の脅威として何度か耳にした名前だった。
しかし、それよりも気になることがある。
今、この女は何と言った?
魔王軍幹部――?
まさか、そんな存在が、どうしてこんな村に……。
「……よ……」
不意に、父の口から声が漏れた。
「『ん? 何かおっしゃいましたか?』」
エイシャが首を傾げる。
父は左手で傷口を押さえたまま、荒い呼吸を繰り返していた。額には脂汗が浮かび、顔色も明らかに悪い。
それでも、父は顔を上げた。
「……鉄より硬き……剣となり、我が元に……顕現せよ!」
「ッ!?」
その瞬間、父の手元に炎が集束した。
「【業火剣】!!」
燃え盛る炎が剣の形を成し、エイシャへと襲いかかる。
右手を失い、激痛に襲われながらも、父は詠唱を最後まで成し遂げていたのだ。
悲鳴を上げることも、助けを求めることもなく。
ただ、敵を倒すために。
その一撃は、エイシャの反応をわずかに遅らせた。
業火の刃が、彼女の身体を横薙ぎに切り裂く。
「『ほう……』」
炎が爆ぜ、灰色のローブが大きく揺れた。
今度こそ、当たった。
そう思った。
だが――。
「『この状況で反撃とは……。なるほど、相当な手練れのようですね』」
「ッ!?」
エイシャの声が、炎の向こうから聞こえてきた。
平然とした声だった。
まるで、何事もなかったかのように。
やがて炎が晴れ、その姿が露わになる。
切り裂かれたはずの上半身は、紙切れをばらまいたかのように細かく散らばっていた。
それなのに。
散らばった身体の断片が、まるで時間を巻き戻すように集まり、繋がり、元の姿を形作っていく。
数秒後。
そこには、傷ひとつないエイシャが立っていた。
「…………は?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
何だ、今のは。
斬ったはずだ。
父の攻撃は、確かに当たった。
それなのに、どうして……?
「『ですが、残念ながら……まだ私に敵うほどの実力ではありませんね』」
エイシャは、淡々と言い放った。
「くっ……!」
父は悔しげに歯を食いしばる。
反論する余裕などないのだろう。傷口から流れる血は止まらず、立ち上がることさえ難しそうだった。
そして自分にも、理解できてしまった。
相手の格が違う。
父は強い。
少なくとも、自分が知る限り、これほど頼りになる人はいなかった。
そんな父が、片腕を失い、渾身の反撃を放っても、目の前の女には傷ひとつ残せない。
この事実が、何よりも恐ろしかった。
「あなた!?」
突然、背後から母の声が響いた。
「ッ!? ステラ!?」
「お母さん!」
外の異変に気づいたのだろう。母が慌てて駆け寄ってくる。
そして、片腕を失って膝をつく父の姿を目にした瞬間――母の表情が凍りついた。
言葉を失い、目を見開き、身体を強張らせる。
少し前の自分と、まったく同じ反応だった。
「……あなた……その腕……!」
母の声が震えている。
父は一瞬だけ母を見た。
そして、すぐに視線を戻す。
「サダメ」
「……え?」
「お母さんと一緒に、ここから逃げなさい」
「えっ……?」
逃げろ?
父さんは、どうするんだ?
まさか、自分が囮になって、自分たちを逃がすつもりなのか?
「『逃げても無駄ですよ』」
エイシャの声が、自分たちの思考を遮った。
「何……?」
父の表情が険しくなる。
「『貴方なら、もう既にお気づきのはずですが……』」
「……っ!? まさか……これは……!」
父の顔色が、さらに変わった。
「くっ……魔障結界か……!」
「『その通り』」
魔障結界?
何だ、それは。
聞いたことのない言葉に、自分は思わず父の背中を見つめた。
結界というからには、何かを閉じ込めるためのものなのだろうか。
それとも、外からの侵入を防ぐもの?
だが、父の反応を見る限り、そんな単純なものではなさそうだった。
「『魔障結界とは、特定の区域に大量の魔力を発生させる結界です。人間が一度に過剰な魔力を浴びれば、身体に異変をきたすことになる』」
エイシャは、まるで講義でもするかのように説明を始めた。
敵の口から語られる情報を、ただ聞くことしかできない。
それが、たまらなく悔しかった。
「『この結界は村の周囲を覆い、内部は通常の空気の十倍以上の魔力で満たされています。人間にとっては、極めて危険な環境でしょう。もっとも、魔族である私たちには何の問題もありませんが』」
「そ、そんな……!」
母が息を呑む。
自分も、ようやく事態の深刻さを理解し始めていた。
この村全体が、危険な魔力に満たされている。
つまり、外へ逃げようとしても、結界の中を進まなければならないということだ。
「け、けど……だったら、結界を壊せばいいじゃないか!」
震える声で、自分は叫んだ。
そうだ。
結界なら、壊せばいい。
魔法で破壊するなり、何か方法があるはずだ。
そうでなければ、逃げ道がない。
「サダメ……」
母が不安げに自分の名を呼んだ。
だが、エイシャは自分の言葉を聞いて、わずかに首を傾げた。
「『結界とは言っていますが、実態は半径一キロメートルに及ぶ魔力の霧です。村の内外へと広がっており、中心に近づくほど魔力濃度は高まります』」
「……っ」
「『人間がその霧を吸い込めば毒となり、過剰に取り込めば死に至る。仮に魔法で霧を払ったとしても、霧は自然に戻ってくる。呼吸をせず、一キロメートルもの距離を進み続けるなど……普通の人間には不可能でしょう?』」
「…………」
聞かなければよかった。
そんな説明、聞きたくなかった。
結界を壊せばいい。逃げればいい。そう考えていたわずかな希望が、あっさりと打ち砕かれてしまった。
霧は、もう村の中にまで流れ込んでいる。
逃げ道はない。
目の前には、父の攻撃すら通じない怪物がいる。
――どうすればいい?
自分に、何ができる?
「きゃあああああああっ!!」
そのとき、遠くから悲鳴が響いた。
「!?」
一人ではない。
別の方向からも、また別の悲鳴が上がる。
助けを求める声。何かが倒れる音。聞き慣れた村の風景が、少しずつ壊れていく。
「貴様……一体、何をした!?」
父の声が、怒りに震えた。
「『ああ、きっと部下たちが働いてくれているのでしょう』」
「部下……だと!?」
「『ええ。女子供は捕らえ、それ以外は殺すよう命じていますので』」
「なん……だと……!?」
父の背中から、今まで感じたことのない怒気が噴き上がった。
空気が張り詰める。
父の声に、怒りだけではない何かが混じっている。
それでも、自分の足は動かなかった。
家の外から聞こえる悲鳴が、耳にこびりついて離れない。
助けなければ。
誰かを助けなければいけない。
そう思うのに、身体が動かない。
父は片腕を失っている。
母も、目の前の敵に立ち向かえる状態ではない。
そして自分は、まだ幼い子供にすぎなかった。
目の前にいるのは、魔王軍幹部。
父の渾身の攻撃さえ通じなかった相手だ。
――自分に、一体何ができる?
「何が目的なんだ、お前たちは!?」
父が問い詰める。
エイシャは、少しだけ考えるような間を置いた。
「『目的ですか……。まずは拠点の拡大。それから、【人魔】の生成と育成。そして、もう一つ……』」
「なっ……人魔……!?」
父の声が鋭くなる。
人魔。
その言葉に、父がここまで強い反応を示す理由は分からなかった。
だが、ただ事ではない。
父の怒りが、さらに膨れ上がっていくのが分かった。
「……人魔の生成。それは……妻や村の女性たちを利用するという意味か?」
父の声は低かった。
怒りを押し殺している。
いや、押し殺さなければ、今にも爆発してしまいそうなのだ。
「『もちろん』」
エイシャは、何のためらいもなく答えた。
「…………そうか」
父は、それ以上何も言わなかった。
ほんの数秒。
しかし、その沈黙は、永遠にも感じられた。
張り詰めた空気が肌を刺す。
父の背中から伝わる怒りが、言葉にしなくても分かった。
やがて父は、ゆっくりと自分の方へ顔を向けた。
「……サダメ」
「……っ」
その声は、驚くほど優しかった。
さっきまで怒りに震えていた人とは思えないほど、穏やかな声だった。
「お母さんと一緒にいなさい」
「お父さん……?」
「何かあったら、お前がお母さんを守るんだ」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
どうして、そんなことを言うんだ。
どうして、そんなに優しい声を出すんだ。
まるで――。
まるで、もう二度と会えないかのように。
「……嫌だよ、お父さん」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
父は答えなかった。
ただ、自分を見つめていた。
その眼差しに、胸の奥が締めつけられる。
何かを言わなければ。
引き止めなければ。
そう思うのに、何を言えばいいのか分からなかった。
そして、父は再びエイシャへと向き直った。
片腕を失い、血を流し、立っていることさえ難しいはずなのに。
父は、決して視線を逸らさなかった。
「来い、怪物」
低く、静かな声だった。
「貴様は必ず――俺が殺してやる!」




