第1章ー6
あの一件から、さらに二年の月日が流れていた。
あれから自分は、ほぼ毎日鍛錬を続けている。
魔法の訓練はもちろん、体力作りに筋力トレーニング、剣術、体術。昼間は父から戦いの技術を叩き込まれ、夜は母から読み書きや、この世界についての知識を教わる。
朝から晩まで、休む暇もない。
正直に言えば、最初の頃は何度も心が折れかけた。
前世では、こんなに必死になって何かを続けた経験なんてなかったのだ。疲れたら休む。面倒なら後回しにする。そんな生活を送っていた自分にとって、今の毎日はあまりにも過酷だった。
それでも、途中で投げ出すわけにはいかない。
両親が自分のためを思って教えてくれていることを、無下になんてできないからだ。
そして何より――強くなると決めたのは、ほかでもない自分自身なのだから。
覚悟なら、とっくにできている。
「……ふぅ……」
今日も、朝一番の魔力制御訓練が始まった。
課題は、【火球】を本来の四割程度の威力で放つこと。
言葉にすれば簡単そうだが、これがなかなか難しい。
以前の自分は、魔力をまともに制御できていなかった。全力で魔法を放てば、家どころか周囲まで巻き込んでしまいかねない。
実際、初めて魔法を使ったときには、とんでもない威力の火球を生み出してしまった。
後になって、あのとき父がなぜ詠唱を止めなかったのかと尋ねたのだが……その答えを聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
どうやら父は、自分が自分で魔法を制御できると信じていたらしい。
結果はご覧の有様だ。
家族を守るために強くなろうとしていたのに、下手をすれば自分の手で家族を殺しかけていた。
――笑えない冗談にも程がある。
だからこそ、今の訓練は欠かせない。
焦るな。力を込めすぎるな。
そよ風が吹くように、ゆっくりと魔力を細めていく。必要な分だけを取り出し、形を整え、炎へと変換する。
集中しろ。
魔力の流れを乱すな。
そして――。
「――【火球】!」
掌の先で、小さな炎が弾けた。
規模は小さい。だが、余計な魔力の暴走はない。
炎が消えるのを見届け、恐る恐る父の顔を窺う。
父は腕を組んだまま、自分の手元を鋭い眼差しで見つめていた。
沈黙。
……長い。
たった数秒のはずなのに、何時間にも感じられる。
やがて父は、ゆっくりと頷いた。
「……よし。合格だ。次は剣の稽古だな!」
「っ……! はい!」
ようやく息を吐く。
この訓練は、父から合格をもらえなければ何度でもやり直しだ。失敗すれば最初から。少しでも魔力の制御に乱れがあれば、容赦なくやり直しを命じられる。
おかげで、精神力ばかりが鍛えられている気がする。
いや、実際に鍛えられてはいるのだろうけど。
そして、次に待っているのは剣術の稽古だ。
「よーし! どんどん打ち込んでこい!」
父は木剣を構え、満面の笑みを浮かべた。
この稽古のルールは簡単。一時間以内に、木剣で父の身体に一度でも攻撃を当てられれば自分の勝ち。
そして勝者には、母お手製のパウンドケーキを独り占めできる権利が与えられる。
――なお、自分は一度も勝ったことがない。
「太刀筋が読みやすいぞ! 手数も少ない! 相手をよく見ろ、サダメ!」
「は、はい!」
「攻撃することばかり考えるな! 相手がどう動くか、次に何をするか、常に考えろ!」
「は、はい!!」
はいとは言ったものの、実践できるかどうかは別問題だ。
そもそも、こっちはまだ幼児。対する父は、元騎士団副団長である。
戦闘経験も身体能力も、何もかもが違いすぎる。
そんな相手に勝てるわけがないだろう。
……いや、だからこそ、どうにかして一発くらい当てたいのだが。
「はい、時間切れー! 今日も俺の勝ちだな!」
「ぐぬぬ……!」
父は勝ち誇ったように笑い、木剣を肩に担いだ。
……いい歳して、本当に恥ずかしくないのか、この人。
「さあ、約束どおり罰ゲームだ!」
「……はいはい」
自分は木剣を握り直し、黙々と素振りを始めた。
罰ゲームは素振り千回。
ただでさえ疲れているというのに、これがまた地味につらい。腕は重いし、握力も限界に近い。それでも、途中でやめるわけにはいかなかった。
「四百九十八……四百九十九……五百……!」
その隣では、父が優雅にパウンドケーキを頬張っている。
「あー、今日も母さんのケーキは美味しいなぁ!」
……絶対これ、ケーキを食べたいだけだろ。
「お父さん、もしかしてケーキを食べるためにわざと勝ってない?」
「おっ? 負け惜しみか? 欲しいなら俺に一本でも当ててみろよ!」
「くっ……!」
腹立つ。
いつか絶対に勝ってやる。
ケーキの恨みは恐ろしいということを、思い知らせてやるからな!
「二人ともー! 雨が降りそうだから、そろそろ切り上げてー!」
遠くから母の声が聞こえてきた。
顔を上げると、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。湿った風が頬を撫で、草木がかすかに揺れている。
そういえば、最近は天気がおかしい。
以前は、こんなに曇りや雨が続くことなどなかったはずなのに、ここしばらくは晴れ間を見ることさえ珍しくなっていた。
最初は、ただの天候不順だと思っていた。
季節の変わり目なのかもしれないし、自分が知らないだけで、この地域ではよくあることなのかもしれない。
だから、そのときは深く考えなかった。
この異変が、やがて自分たちの日常を大きく変えることになるとも知らずに。
そして翌日。
自分は再び、父との地獄の特訓に挑んでいた。
「よーし! 五秒数えたら始めるぞー!」
「い~ち、に~、さ~ん、し~い、ごっ!」
合図と同時に地面を蹴る。
脚に魔力を集中させ、身体能力を一気に引き上げる。
【脱兎跳躍】。
瞬間的な加速を生み出す、自分の得意技だ。
――だが、届かない。
「まだまだぁー!」
父は軽々と自分の突進をかわし、余裕たっぷりに笑っていた。
くそっ!
何度も仕掛ける。正面から、斜めから、時にはフェイントを交えて。
それでも、父はことごとく自分の動きを見切ってしまう。
「おーい、サダメ! このままだと、今日も俺の勝ちになっちゃうぞー?」
「うるさいっ!」
余裕の笑み。
煽るような声。
ああ、もう、本当に腹が立つ!
だが、ただ闇雲に突っ込んでも勝てないことくらい、さすがの自分にも分かっていた。
ならば、どうするか。
……そうだ。
正面から勝てないのなら、別の方法を使えばいい。
自分は一度、父から距離を取った。
そして、これまで以上に魔力を脚へと集中させる。
狙うのは、最高速度での突進。
「いくぞぉぉぉっ!」
地面を蹴り、一直線に駆け出す。
父が迎え撃つことなく、ひらりと横へ身をかわした。
「おっと!」
――今だ!
「ぶへっ!?」
盛大な音を立てて、自分は木に激突した。
視界がぐらりと揺れる。
い、痛ぇ……!
額を押さえながら顔を上げると、父が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。
「サダメ!? おい、大丈夫か!?」
よし。
かかった。
心配している父の表情を確認した瞬間、自分は痛みをこらえて勢いよく飛び出した。
「もらったぁぁぁっ!!」
不意打ち。
事故を装って油断を誘い、相手が助けに来たところを狙う。
名付けて、事故偽装罠!
我ながら、なかなかの作戦だ。
これなら、いくら父でも――。
「……あれ?」
目の前から、父の姿が消えた。
次の瞬間。
「ぶへぇっ!?」
自分は勢いそのままに地面へ突っ込み、顔面から着地した。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。
鼻の奥がつんとし、何か温かいものが垂れてくる。
……鼻血だ。
「はっはっは! 発想は良かったぞー、サダメ!」
見上げると、父が木の上から手を振っていた。
いつの間に移動したんだよ!?
というか、なんで木の上にいるんだ!?
「くそぉぉぉっ! やっぱり勝てないじゃないかぁぁぁっ!」
自分の叫びが、森の中に虚しく響き渡った。
その後、鼻血を出した自分を見た母が、父に向かって水桶を振り下ろした。
結果、父は頭から水をかぶって悶絶。
それを見た自分は、腹を抱えて笑い転げた。
――なお、騒ぎを起こした罰として、自分たち二人そろって草むしりを命じられた。
どうしてこうなった。
そんな騒がしい日々の中でも、父は時折、真剣な顔で自分に教えを説くことがあった。
「サダメ。相手を知ることは、最強の武器になる」
ある日の訓練の帰り道。
父は、いつになく静かな声でそう言った。
「相手の動きをよく見ろ。何を考え、何をしようとしているのか。行動を読み、思考を読み、その人物を理解するんだ」
「……相手を理解する、か」
「そうだ。力で勝てない相手でも、相手を知ることで勝機が生まれることがある。もちろん、知っただけで勝てるほど戦いは甘くない。だが、何も知らずに挑むよりは、ずっといい」
自分は、父の言葉を頭の中で繰り返した。
……確かに、そのとおりかもしれない。
自分は父のことを、よく知っているつもりだった。
優しくて、頼りになって、家族を大切にする人。
そして、息子をからかうのが大好きな、ちょっと困った父親。
けれど、戦いの場で見せる父の姿は、自分の知っている父とはまるで違う。
何を考えているのか。どう動くのか。どこに隙があるのか。
自分は、まだ何も分かっていなかったのだ。
「ところで、サダメ」
「ん?」
「お前は将来、何になりたいんだ?」
唐突な質問だった。
将来、なりたいもの。
前世では、そんなことを真剣に考えたこともなかった。毎日を何となく過ごし、何となく働き、気づけば二十七歳になっていた。
だが、今は違う。
強くなりたい。大切な人を守りたい。
そうした目標はある。
しかし、それを将来の夢と呼べるのかと言われると、少し違う気もした。
「うーん……。今のところ、特にないかな」
「そうか。なら、魔法学園に行くというのはどうだ?」
「魔法学園?」
「ソワレル魔法学園だ。俺もそこで学んだんだぞ」
ソワレル魔法学園。
この国で唯一の魔法学舎であり、優秀な魔法使いや騎士を数多く輩出してきた場所。
父がかつて学んでいた場所でもある。
その名前を聞いた途端、胸の奥が少しだけ熱くなった。
魔法学園。
前世では、想像すらしなかった場所だ。
魔法を学び、仲間と出会い、強くなる。
そんな未来を思い浮かべると、不思議と心が躍った。
「……うん。ちょっと、行ってみたいかも」
「はっはっは! そうかそうか! なら、今からしっかり鍛えておかないとな!」
「えっ、まだ厳しくなるの!?」
「当たり前だろう!」
……しまった。
余計なことを言ったかもしれない。
そんなやり取りを交わしながら、自分たちは家へと帰っていった。
帰り道、自分はふと思い出し、父の顔を見上げた。
「ねえ、お父さん。俺、魔法学園――」
そのときだった。
視界の端に、何かが映った。
灰色のローブ。
それをまとった人物が、父の背後に立っていた。
……いつから、そこに?
足音は聞こえなかった。
気配も感じなかった。
まるで、最初からそこに存在していたかのように。
いや、違う。
そんなはずはない。
さっきまで、そこには誰もいなかったはずだ。
なのに、今はいる。
灰色のローブをまとった人物が、音もなく、微動だにせず、こちらを見つめている。
まるでホラー映画のワンシーンだ。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
何だ、あれ。
誰だ、あいつ。
どうして、そんなところに――。
「お、おとう――」
声が震えた。
父に知らせようとした、その瞬間。
父がこちらの異変に気づいたのか、背後を振り返った。
そして。
「爆ぜる焔よ――」
父の口から、詠唱が紡がれた。
速い。
いつもの訓練で聞くものとは違う。
鋭く、迷いがなく、一瞬の隙すら感じさせない。
それは、元騎士団副団長として培ってきた戦士の本能が、危険を察知した証だった。
父の右手に、炎が宿る。
魔力が膨れ上がり、空気が震えた。
自分は、その光景を見つめていた。
父なら大丈夫だ。
父は強い。
どんな相手が現れたとしても、きっと――。
そう思った、次の瞬間。
父の右手が、宙を舞った。
「…………え?」
何が起きたのか、分からなかった。
ついさっきまで、そこにあったはずの父の腕。
炎をまとい、敵へと向かおうとしていた右手。
それが、身体から切り離され、赤い飛沫を散らしながら空中を舞っていた。
血が、舞う。
赤い雫が、地面に落ちる。
父の詠唱が途切れた。
音が消えた。
風の音も、木々のざわめきも、何も聞こえなくなった。
自分はただ、目の前の光景を見つめることしかできなかった。
――父さんの、右手が。
切り落とされた。
世界が、止まった。




