第1章ー5
――それから二年以上の月日が流れた。
ようやく自分は、人並みに言葉を話せるようになっていた。
初めてまともに喋ったとき、両親が心底驚いていたのを今でもよく覚えている。何しろ、自分が口にした最初の言葉は――。
「お父さん、お母さん」
……だったのだから。
いや、普通に考えれば、赤ん坊が初めて口にする言葉としては珍しくもないだろう。
だが、それまでほとんど喋ろうとしなかった子供が、いきなり流暢に話し始めたのだ。両親からすれば、驚くのも無理はなかった。
そして、今。
自分は庭の中央に立ち、目の前の光景をじっと見つめていた。
「よーし、よく見ておけよ、サダメ!」
「う、うん」
目の前で張り切っているのは、父のイノス。
自分は今日、父に魔法の特訓を申し込んでいた。
理由は二つある。
一つは、家族を大切にするため。
そしてもう一つは、自分自身の身を守るためだ。
前世では、何の抵抗もできないまま理不尽に命を奪われた。あんな最期を、もう二度と迎えたくはない。
それに、自分が強くなれば、いざというときに家族を守ることだってできるはずだ。
もちろん、三歳児の身体で何ができるのかという話ではある。
それでも、今から少しずつ努力しておくことに意味はあるだろう。
そして、魔法を教わる相手として、父以上の人物はいなかった。
何しろ、父は元騎士団副団長という実力者だ。長年にわたって戦場を経験してきたうえ、後進の指導にも慣れているはず。
師匠としては、これ以上ない適任者だった。
自分が特訓を申し出ると、父は二つ返事で引き受けてくれた。
……ただし、少しばかり嬉しそうにしすぎている気もする。
いや、気のせいではないな。
さっきから、やたらと格好をつけている。
まあ、教わる立場の自分が口を挟むことではない。ここは素直に教えてもらおう。
父は物置から、古びたトレーニング用のダミー人形を引っ張り出してきた。
どうやら、父が幼い頃から引退するまで使い続けていたものらしい。
表面には無数の傷跡が刻まれ、ところどころ黒ずんでいる。長い間、物置に放置されていたせいか、近づくとかすかにカビ臭さまで漂ってきた。
……これ、本当に使えるのか?
そんな疑問を抱いている間に、父は人形を庭の中央へ設置し、十分な距離を取った。
そして、ゆっくりと片手を前へ突き出す。
「爆ぜる焔よ、火の球として聚合し、眼前の標的に猛る一投を撃ちかけん」
詠唱が響いた瞬間、父の手のひらに炎が集まり始めた。
赤い光が揺らめき、空気が熱を帯びる。
やがて炎は一点へと収束し、野球ボールほどの大きさの球体へと姿を変えた。
鮮やかな紅蓮の火球。
その美しさに、思わず目を奪われる。
「【火球】!」
父が叫ぶと同時に、火球が放たれた。
炎は一直線に飛翔し、ダミー人形へと直撃する。
直後――。
ドォンッ!!
爆音とともに、激しい衝撃波が庭を駆け抜けた。
人形の周囲から煙が立ち上り、焦げた臭いが鼻をつく。
「……おぉ……」
思わず声が漏れた。
攻撃魔法を目の当たりにするのは、これが初めてだった。
知識として魔法の存在は知っていたし、父が火属性の魔法を得意としていることも聞いていた。
だが、実際に目の前で見せられると、想像していたものとはまるで違う。
あの美しい火球に、これほどの破壊力があるとは。
「どうだ? 格好いいだろ?」
振り返った父は、これでもかというほど得意げに笑っていた。
「う、うん……」
……うん。
魔法は格好いい。
父の実力も本物だ。
ただ、この調子さえなければ、もっと素直に尊敬できるのだが。
とはいえ、今の攻撃は圧倒的だった。
あの光景は、きっと生涯忘れないだろう。
「よし。それじゃあ、今の魔法について説明するぞ」
父は満足したのか、今度は真面目な表情に戻った。
「基本は、魔力を手のひらに集中させ、頭の中で形をイメージすることだ。その形に魔力を成形し、最後に押し出すように放つ。これが攻撃魔法の基本だな」
「なるほど……」
「もちろん、上位の魔法になれば話は別だ。もっと複雑な形を作ったり、特殊な効果を付与したりする必要がある。だが、基本的な考え方は同じだ」
なるほど。
魔力を感じ取り、自在に制御することさえできれば、理屈そのものはそれほど難しくないらしい。
もっとも、理屈を理解することと、実際に使えることは別問題なのだろうが。
「でも、詠唱って必要なの?」
ふと疑問に思い、尋ねてみた。
先ほどの父は、長々と呪文を唱えてから火球を放っていた。
魔法を使うために詠唱が必要なのだとすれば、戦闘中には少し不便ではないだろうか。
「詠唱か……」
父は少し考え込むと、答える代わりに再び手を前へ突き出した。
「【火球】!」
今度は詠唱がない。
にもかかわらず、父の手のひらには瞬く間に火球が生まれ、先ほどと同じように人形へ向かって飛んでいった。
再び爆音が響く。
……速い。
先ほどの詠唱ありの魔法と比べても、発動までの時間が圧倒的に短かった。
「見てのとおり、詠唱なしでも魔法は使える。実戦では、無詠唱を好んで使う者も多いな」
「じゃあ、詠唱する意味ってないんじゃ?」
「いや、ちゃんと意味はあるぞ」
父はニヤリと笑った。
……なんだ、その顔は。
また何か、こちらをからかうつもりではないだろうな。
「さっきの無詠唱の火球、威力はどれくらいだと思う?」
「……四割くらい?」
「残念。七割だ」
「えっ?」
「じゃあ、詠唱した方は?」
「……四割?」
「残念、二割でしたー!」
……腹が立つ。
どうして、この人はこういうときだけ妙に楽しそうなのだろうか。
というか、数字の出し方が絶妙に腹立たしい。
だが、説明の意味は理解できた。
「つまり、詠唱は魔法の威力や効果を底上げするためのものなんだ。無詠唱は発動が速い代わりに、魔力の制御が難しく、威力や効果も落ちやすい。初級魔法なら無詠唱でも十分だが、中級以上になると、その差が大きくなる」
「なるほど」
素早さを取るか、威力や安定性を取るか。
状況によって使い分ける必要があるというわけだ。
戦闘中、詠唱をする時間がない場面では無詠唱が役に立つ。反対に、強力な一撃を放ちたいときは、詠唱によって魔法を強化する。
思っていた以上に、奥が深い。
「それと、もう一つ見せておこう」
父はそう言うと、再び手のひらに魔力を集め始めた。
「業火の炎よ、鉄より硬き剣となり、我が許に顕現せよ――【業火剣】!」
詠唱とともに、炎が父の右手へと集まっていく。
やがて炎は細長く形を変え、一本の剣を作り上げた。
刃から柄に至るまで、全体が紅蓮の炎に包まれている。
「おお……!」
「詠唱を使って武器を作ると、形状や強度が安定しやすい。魔法を通しても壊れにくくなるんだ」
父は剣を軽く振り、その切っ先を地面へ向けた。
続いて、もう一度手のひらに魔力を集める。
「【業火剣】」
今度は詠唱なし。
見た目は、先ほどの剣とほとんど変わらない。
しかし、父がその剣を軽く振った瞬間――。
ふっと、炎の剣が霧のように散ってしまった。
「……あれ?」
「これが無詠唱の弱点だ。素早く発動できる反面、形状を維持するのが難しい。威力や効果も劣ることが多いんだ。中級以上の魔法を無詠唱で扱うのは、普通の人には難しいな」
「へぇ……」
同じ魔法でも、詠唱の有無によってこれほど差が出るのか。
ただ魔力を集めればいいというものではないらしい。
魔法を自在に扱うには、知識だけでなく、相応の技術と経験も必要になるのだろう。
父はその後、魔法を補助する魔道具についても説明してくれた。
魔道具とは、魔力を注ぎ込むことで、強力な魔法を使えるようにした道具のことらしい。
近年は技術が発展し、都心部では少しずつ普及し始めているという。
魔法を扱うための技術も、時代とともに進歩しているわけだ。
……便利な時代になりつつあるんだな。
もっとも、こんな辺境の村にまで普及するのは、まだまだ先の話だろう。
「さて。それじゃあ、そろそろサダメもやってみるか」
父がこちらを振り返った。
いよいよ、自分の番らしい。
ダミー人形の前に立ち、ゆっくりと息を吸う。
……緊張するな。
頭では理解できたつもりだが、実際に魔法を使うとなれば話は別だ。
何しろ、自分はまだ三歳児。
身体も小さければ、魔法の経験だってない。
それでも、やると決めたのだ。
「サダメ。まずは、詠唱ありで火球を撃ってみろ。焦らなくていい。俺の言うとおりにやってみなさい」
「うん!」
父の指導に従い、意識を自分の内側へと向ける。
身体の中にある、目には見えない力。
それを感じ取り、少しずつ手のひらへ集めていく。
じんわりと、熱が広がっていくような感覚があった。
「そうだ。そのまま、魔力を手のひらに集めるんだ」
父の声に従い、さらに集中する。
そして、教わったとおりに詠唱を始めた。
「爆ぜる焔よ――」
「爆ぜる焔よ」
父が続けて、言葉を促してくれる。
だが、魔力を炎へと変えたところで、うまく制御できなくなった。
集まりかけた炎が、球体になる直前で形を失う。
ぼんっ、と小さな音を立て、魔力が霧散した。
「……あれ?」
失敗だ。
思わず肩を落とす。
「大丈夫だ。最初からうまくできる方が珍しい。もう一度やってみよう」
父は励ましてくれたが、自分は思っていた以上に疲れていた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れ、身体が重い。
魔力を集めるだけでも、相当な集中力が必要らしい。
これが三歳児の限界なのか。
……いや、まだ一回失敗しただけだ。
ここで諦めるわけにはいかない。
自分が強くなりたいと思ったのは、格好いい魔法を使いたいからではない。
家族を守るためだ。
前世のように、何もできないまま終わる人生はもう嫌なのだ。
「……よし。今日はここまでにするか」
父は自分の様子を見て、訓練を切り上げようとした。
「待って…ください!」
思わず声が出た。
父が驚いた顔で振り返る。
「もう一回、やらせてください!」
まだ終わりたくない。
もっと魔法を知りたい。
もっと強くなりたい。
そして、いつか家族を守れるようになりたい。
自分の決意を感じ取ったのか、父は少しだけ迷ったあと、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。ただし、あと一回だけだぞ」
「はい!」
二度目の挑戦。
先ほどよりも慎重に、魔力の流れを意識する。
身体の内側から力を引き出し、手のひらへと集めていく。
今度は、うまくいきそうな気がした。
「爆ぜる焔よ――」
魔力が熱を帯び、炎へと変わる。
「火の球として聚合し――」
炎を球体へまとめようと、意識を集中させた。
――その瞬間。
炎が、急激に膨れ上がった。
「……え?」
手のひらの上で、火球がみるみるうちに巨大化していく。
野球ボールどころではない。
顔ほどの大きさを超え、さらに膨れ上がる。
あっという間に、三歳児である自分の身長すら超える巨大な火球が生まれていた。
……いやいやいや。
ちょっと待て。
こんなはずじゃなかっただろ!?
制御しようにも、炎は勢いを増すばかり。
熱気が肌を焼き、周囲の空気が揺らいでいる。
まずい。
このままでは――。
「サダメ! 形を維持しろ!」
父の怒鳴り声が飛んできた。
「そのまま上に向けろ! 詠唱を最後まで続けるんだ!」
言われるがまま、自分は震える腕を持ち上げた。
巨大な火球を抱え込むようにして、必死に空へと向ける。
この炎を、どうにかしなければ。
そうしなければ、庭どころか家まで巻き込んでしまう。
自分は残った力を振り絞り、最後の言葉を叫んだ。
「眼前の標的に猛る一投を撃ちかけん。【火球】!!」
次の瞬間――。
轟音が、世界を揺るがした。
巨大な紅蓮の火球が、空へ向かって一直線に飛び立つ。
その勢いは凄まじく、炎は天を貫くかのように上昇していった。
周囲を包み込む熱気。
遅れて押し寄せる衝撃波。
そして、空を染め上げるほどの紅い光。
火球は雲を突き抜け、空の彼方へと消えていった。
……。
……終わった、のか?
自分は呆然と空を見上げていた。
だが、安堵する間もなく、背後から何かが砕ける音が聞こえてきた。
振り返ると、家の窓ガラスが見事に割れていた。
……あ。
やってしまった。
しかも、腕や頬には火傷までできている。
どうやら、炎を制御しきれなかった際に負傷したらしい。
その後、母の治療魔法によって火傷はなんとか回復したものの、家の窓ガラスは当然ながら元には戻らなかった。
父は自分の前に膝をつき、深々と頭を下げた。
「……サダメ、すまなかった。俺の想定が甘かった」
「えっ?」
「お前の魔力は、俺が考えていた以上に強い。今のままでは、魔法を使うこと自体が危険だ」
父の表情は真剣だった。
先ほどまでの得意げな笑みは、もうどこにもない。
「これからは、魔法の威力を高める訓練よりも、魔力を正確に制御する訓練を中心にしよう。それでもいいか?」
自分は一瞬だけ考えた。
魔法をうまく使えなかったことは悔しい。
だが、自分の力が想像以上に強いのなら、まずはそれを扱えるようにならなければならない。
強くなることが目的なのではない。
自分の力で、大切なものを守れるようになることが目的なのだ。
「うん。頑張るよ!」
そう答えると、父はようやく表情を和らげた。
こうして自分は、魔法の基礎を学ぶと同時に、自分の魔力を制御するための修行を始めることになった。
……なお、割れた窓ガラスの修理については、母から父へ、かなり厳しいお叱りがあったらしい。
――勇者が死ぬまで、残り8900日




