第1章ー4
――この世界に転生してから、ちょうど一年。
相変わらず、まともに喋ることはできない。
それでも、そんな不自由な生活にもすっかり慣れてしまった自分がいる。
もともと口数が多い方ではなかったし、多少言葉が不自由になったところで、それほど困ることはないだろうと思っていた。
……いや、思い返してみると、結構あったな。
特に排泄まわりは本当に大変だ。
自分の意思で自由に動けないうえ、用を足したことすら自分ではどうにもできない。前世では当たり前にできていたことが、今では誰かの手を借りなければままならないのだから、なかなかに厄介である。
それでも、不思議なもので、人間というのは慣れる生き物らしい。
前世の自分も、幼い頃は同じように不自由さを感じていたのだろうか。
今となっては、そんなことすら思い出せない。
……まあ、今さら考えても仕方ないか。
それはさておき、今日は朝から家の中がやけに慌ただしかった。
父は家の中を行ったり来たりしながら、何やら一人でぶつぶつと呟いている。一方、母はいつもどおり料理をしているだけだ。
この様子を見る限り、騒がしさの原因はほぼ間違いなく父だろう。
もっとも、なぜ父があそこまで落ち着かないのか、自分にはおおよその見当がついていた。
部屋のあちこちに飾られた紙の輪飾り。
いつもより豪華な食事の準備。
さらには、必要以上に並べられた椅子とテーブル。
そして、今日という日付。
ここまで材料が揃っていれば、答えを出すのは簡単だ。
今日は――自分がこの世界に生まれてから、ちょうど一年目の日。
つまり、誕生日である。
数日前から両親は浮かれっぱなしで、親戚を招いて誕生日パーティーを開く計画を立てていた。
もちろん、自分には何もわかっていないと思っているのだろう。
まさか、主役本人がその計画を最初から最後まで聞いていたとは、夢にも思っていないはずだ。
……まあ、聞いていたところで、今の自分には「楽しみだ」と口にすることすらできないのだが。
「そろそろ皆、来る頃かしら?」
「ああ、もうこんな時間か。そろそろ到着してもおかしくないな」
昼時。
準備を終えた両親は、今か今かと客人の到着を待っていた。
父は何度も時計を確認し、母は料理の並びを整えながら玄関の方を気にしている。
……いや、我が父よ。さっきから落ち着きがなさすぎるだろ。
そんなことを考えていた、そのときだった。
コンコン。
玄関からノックの音が響いた。
「おお、来てやったぞ、イノス」
「父さん、母さん。わざわざありがとう」
父が玄関を開けると、そこには数人の客人が立っていた。
どうやら、最初の親戚が到着したらしい。
そのうちの一人が、母方の祖父と思われる男性だった。
祖父は両親の姿を見るなり、二人と親しげに抱擁を交わす。
……それにしても、若いな。
見た目だけなら父とそれほど年が変わらない。兄弟だと言われても、まったく違和感がないくらいだ。
他には、母方の祖母と伯母が二人。そして、父方の祖母と叔父。
合計六人の親戚が、自分の誕生日を祝うために集まってくれた。
親戚に誕生日を祝ってもらう。
……前世では、いつ以来だっただろうか。
決して、家族と仲が悪かったわけではない。
年に一度くらいは実家に顔を出していたし、母がスーパーに買い物に来れば、軽く世間話をすることもあった。
関係が悪かったわけではないのだ。
ただ、お互いの誕生日を祝うような習慣は、いつの間にかなくなっていた。
特別な用事でもなければ連絡を取ることもない。
疎遠というほどではないが、親密とも言いがたい。
学生の頃から、ずっとそんな距離感だった。
思春期のせいもあったのだろう。互いに踏み込もうとせず、かといって関係を断つわけでもない。結局、そんな曖昧な距離は、最後まで縮まることがなかった。
――もう少し、親孝行しておけばよかったな。
そんな思いが、胸の奥に静かに沈んでいく。
やがて、パーティーの準備が整った。
部屋のカーテンが閉められ、室内は薄暗くなる。
テーブルの上には、誕生日を祝うためのケーキ。
その中央には、一本のロウソクが立てられていた。
小さな炎が、ゆらゆらと揺れている。
その柔らかな明かりが、集まった家族一人ひとりの顔を照らしていた。
「ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー……」
皆が楽しそうに歌い始める。
「ハッピーバースデーディア、サダメ――」
……ああ。
こういうの、いいな。
目の前で笑い合う家族の姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ただ、自分の誕生日を祝ってもらっている。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
同時に、前世での後悔が、胸の奥からじわじわと湧き上がってきた。
独り暮らしを選び、恋人も作らず、家族とも深く向き合わずに過ごした七年間。
何か大きな目標があったわけでもない。
毎日を必死に生きていたわけでもない。
ただ、なんとなく生きて。
なんとなく時間を過ごして。
そして、なんの心の準備もできないまま、人生を終えた。
「ハッピーバースデー、トゥーユー!」
歌が終わる。
部屋いっぱいに、温かな拍手が響き渡った。
父と母が、自分の顔の近くまで身を寄せてくる。
……ああ、そうか。
一緒にロウソクを消してくれるんだな。
今の自分では、一本のロウソクの火を吹き消すことすら難しい。
だから、二人が手伝ってくれるのだろう。
「サダメ」
父と母が、そっと自分の耳元で名前を呼んだ。
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
……え?
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
父と母は顔を見合わせ、息を合わせるようにしてロウソクの火を吹き消した。
ふっと、炎が消える。
再び、大きな拍手が響いた。
……なのに。
どうしてだろう。
嬉しいはずなのに、胸の奥がひどく苦しくなった。
生まれてきてくれて、ありがとう。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
前世で、最後に家族と誕生日を祝ったのはいつだっただろう。
最後に家族全員で食卓を囲んだのは、いつだっただろう。
最後に、何の用事もなく家族と笑い合ったのは――。
……思い出せない。
いや、思い出せないのではない。
思い出そうとしても、すぐに浮かんでこないほど、昔のことになってしまっていたのだ。
もし、あのとき死ななければ。
あと何度、両親と笑い合えただろう。
あと何度、家族と食卓を囲めただろう。
あと何度、誕生日を迎えられただろう。
当たり前だと思っていた日々は、決して永遠に続くものではなかった。
それなのに自分は、その当たり前を大切にしようともしなかった。
「……あっ」
頬を、何かが伝った。
温かい。
自分でも気づかないうちに、涙が流れていた。
「ああああああ……!」
堪えようとしても、止まらない。
声を上げ、泣きじゃくる。
「おおお、急に暗くなったから泣いちゃったぞ」
「ご、ごめんな、サダメ。すぐ明るくするからな」
「まあまあ、普段あまり泣かない子なのにねえ」
周囲の大人たちが、慌てて自分をあやし始めた。
どうやら、急に部屋が暗くなったことが怖かったのだと思われたらしい。
……違う。
違うんだ。
これは、暗闇が怖いからじゃない。
ただの赤ん坊だから、泣いているわけでもない。
これは――後悔の涙だ。
お父さん。
お母さん。
前世で、親不孝なまま人生を終えてしまって、本当にごめんなさい。
もっと話をすればよかった。
もっと一緒に過ごせばよかった。
もっと、二人を大切にすればよかった。
今になって、そんなことを思っても遅いのだ。
どれだけ泣いたところで、過去は戻らない。
どれだけ後悔したところで、あの頃の自分に言葉を届けることはできない。
それでも。
それでも、泣かずにはいられなかった。
今、目の前にいる父と母は、自分が生まれてきたことを心から喜んでくれている。
何の見返りも求めず、ただ自分がここにいることを喜んでくれている。
ならば、今度こそ。
今度こそ、後悔したくない。
この世界で出会った家族を、もっと大切にしよう。
何気ない毎日を、当たり前だと思わないようにしよう。
いつか失ってから悔やむのではなく、一緒にいられる今を大切にしよう。
――今度は、家族をもっと大切にする。
声には出せない誓いを胸に、サダメは小さな拳をぎゅっと握りしめた。
その決意を知る者は、まだ誰もいない。
ただ、家族の温かな腕に抱かれながら、サダメはしばらく泣き続けていた。
――勇者が死ぬまで、残り9635日




