第11章ー95
『ッ!? よろしいのですか?』
「構わない」
私は即答した。
無線越しでも、ライラック先生が戸惑っているのが分かる。
当然だろう。
今の状況だけを見れば、観客を避難させるのが最も安全な判断だ。
魔導結界から漏れ出している異質な魔力は、決して無視できるものではない。
このまま影響を受ける人間が増えれば、何が起こるか分からない。
それでも、私は避難を止める。
なぜなら――。
「今、会場にいる全員を一斉に動かせば、必ず混乱が起こる」
『しかし、魔導結界の影響が……』
「分かっている。だからこそだよ」
私は観客席へ視線を向ける。
幸い、今のところ大きな混乱は起きていない。
突然現れた魔導結界に驚き、ざわめいてはいるものの、まだ多くの者は何が起きているのかを完全には理解していない。
それは、ある意味で救いだった。
状況を把握していないからこそ、恐怖が一気に広がっていない。
ならば――今は、その状態を維持するべきだ。
もしここで突然、「全員避難してください」などと命じればどうなる?
観客達は、自分達が知らないところで重大な危険が発生しているのだと悟る。
そして恐怖は、瞬く間に伝播する。
我先にと逃げようとする者が現れれば、それにつられて他の者も動き出す。
大勢が一斉に出入口へ殺到すれば、押し合いが起きる可能性もある。
そうなれば、魔導結界とは無関係の怪我人まで出かねない。
ましてや今は――。
「魔導結界の影響が出始めている」
もし避難の最中に誰かが体調を崩したら?
それを見た周囲の人間が、「結界のせいだ」と判断したら?
恐怖はさらに大きくなる。
誰かが叫び、誰かが走り出し、それを見た者がまた逃げ出す。
そうなれば、もはや避難誘導などという言葉では済まされない。
ただのパニックだ。
だから、私は今この場を動かさない。
……そして。
「それに、もう一つ理由がある」
『理由……ですか?』
「アラガ君だ」
私は試合場へ視線を戻した。
魔導結界の向こう側。
そこで戦い続けている少年へ。
アラガ君が人魔であることが判明した。
それだけでも、彼を見る周囲の目が変わる可能性は十分にある。
人魔。
人間とは異なる存在。
それだけで危険視する者が出てくる可能性は否定できない。
ましてや今、彼は人類には到達できなかった魔導結界まで発動させている。
もし、この結界の危険性を必要以上に喧伝する者が現れれば――。
「彼を危険な存在だと判断する者が出てくる」
『……』
「そして、騎士団への報告を求める者も出るだろう。最悪の場合……」
私は一度、言葉を切った。
「排除を要求する者まで出てくるかもしれない」
考えたくもない。
だが、十分にあり得る話だ。
人は、自分達の理解できないものを恐れる。
そして恐怖は、ときに憎悪へ変わる。
アラガ君が人魔である。
その事実だけで、彼を敵と見なす人間が現れないという保証はない。
ましてや、魔導結界という未知の力を大勢の前で見せてしまったのだ。
今の状況で避難を指示すれば、観客達の中にある恐怖を必要以上に煽ってしまう可能性がある。
それは――私にとって、決して望ましいことではない。
「……私は、彼を危険な存在として扱いたくはない」
小さく呟く。
たとえ彼が人魔だったとしても。
どれほど規格外の力を持っていたとしても。
アラガ君は、私達の学園に通う一人の生徒だ。
少なくとも私は、そう思っている。
人魔だから危険なのではない。
力を持っているから排除するのでもない。
彼が何者であるかではなく――。
彼自身が何をするのか。
私は、それを見て判断したい。
「……だからこそ、今は余計な騒ぎを起こしたくないんだ」
『理事長……』
「それに」
私は魔導結界へ視線を戻す。
あれほど濃密な魔力が渦巻いている以上、この先何が起こるか分からない。
もし戦闘の余波が結界の外へ及んだ場合、大勢の人間が一斉に移動している最中なら、被害を抑えるどころか、かえって拡大させる可能性がある。
ならば――。
「今は、まだ動かさない」
自分自身に言い聞かせるように、私は呟いた。
「観客には、できる限り冷静でいてもらう。その上で、本当に危険になった瞬間にこちらから誘導する」
『……承知しました』
「それと」
私は立ち上がる。
「念のため、私自身が結界を張りに行くよ。魔導結界から漏れ出している魔力が観客席へ及ばないよう、こちら側に防護結界を展開する」
『理事長自らですか?』
「この状況なら、それが一番確実だろう」
『……分かりました。こちらも警戒を続けます』
「ああ。頼んだよ」
『承知しました』
通信が切れる。
「……ふう」
私は小さく息を吐いた。
正しい判断なのか。
それは、まだ分からない。
避難させないということは、それだけ観客達を危険に晒す可能性を残すということでもある。
そして、アラガ君を守ろうとする判断が、結果的に誰かを傷つけることになれば――その責任を負うのは私だ。
それでも。
今は、これが最善だと信じるしかない。
「……アラガ君」
私は魔導結界の向こうへ目を向ける。
「君が何者であろうと、私は君を最初から敵だとは思っていないよ」
そして、もう一人。
魔導結界の中でアラガ君と対峙する少年にも、同じ言葉を向ける。
「サダメ君も……どうか無事でいてくれ」
二人とも、私にとっては大切な生徒だ。
どちらか一方だけを守ればいい話ではない。
だからこそ――。
私は、二人の戦いから目を離さなかった。
複雑な感情を胸の奥に抱えながら、それでも理事長として次に起こり得る事態への備えを始める。
この先、何が起こるのか。
そして私は、その時に正しい判断を下せるのか。
今はまだ、何も分からない。
ただ一つだけ確かなのは――。
「……どうか、これ以上は何も起きないでくれ」
祈るような言葉を残し、私はその場を後にし、リングの方へ向かって歩き出した。




