第10章ー73
「ふう……」
魔導結界の展開を完遂した瞬間、肺の奥に溜まっていた熱を吐き出すように、私は小さく息を零した。僅かな安堵。ほんの一瞬ではあるが、張り詰めていた緊張が緩む。
――よく、ここまで持ち込めたものだ。
相手はベルダンディー。真正面からぶつかれば、勝敗は容易に読めぬ怪物だ。一歩間違えれば詠唱の途中で潰されていた。実際、先ほどの一撃は紙一重だったのだ。あれが僅かでもズレていなければ、今こうして立っていることすら叶わなかっただろう。
「……これが、君の魔導結界、か」
視線を向ければ、血に染まりきった空間の中で、ベルダンディーは静かに周囲を見渡していた。その声音に恐怖や焦燥はない。むしろ、どこか感嘆にも似た響きが含まれている。
「いいね!」
次の瞬間、奴ははっきりとそう言い放った。
……やはりか。
「……随分と余裕そうだな」
思わず呆れが口をつく。この空間は、私の支配領域だ。血に満ちたこの結界内では、私は再生し、強化され、四方八方から攻撃を仕掛けることができる。対して奴は、常に侵食と圧迫を受け続ける側。
形勢は完全にこちらに傾いた――はずだ。
それにもかかわらず、目の前の男は微塵も揺らいでいない。
「はははっ! そんなもんじゃないさ。ただ純粋に嬉しいんだよ。君が、ここまでの領域に辿り着いていたことがね!」
無邪気に笑うその姿に、私は言葉を失う。やはりこいつは――
「……変わらぬな、貴様は」
呆れと、僅かな懐かしさが混じった声音だった。戦いの最中だというのに、不思議と口元が緩む。
敵であるはずの男に対して、安心感を覚えている自分がいる。狂っているのは奴だけではないのかもしれないな。だが、それでいい。この男は昔からそういう存在だった。
「んじゃあさ、敬意を表して――僕も奥の手、出しちゃおうかな?」
「……なに?」
その一言に、意識が一気に引き戻される。
奥の手、だと?
この状況下で、それを口にする余裕があるというのか。それとも――本当に、この結界を覆せるだけの何かを隠しているのか。
警戒が一気に跳ね上がる。
「我が血よ、外へ溢れよ。内に巡るだけでは足りぬ。骨を覆い、肉を裂き、我が身を“戦う器”へと書き換えよ――」
低く、淀みない詠唱が響く。先ほどの私と同じく、迷いのない言葉の連なり。その一音一音に、異様な圧が宿っていた。
「その一滴に力を宿し、その奔流に暴威を宿せ。――纏え。喰らえ。砕け。【血皇装】、起動!」
「ッ!?」
詠唱が完了すると同時に、ベルダンディーの肉体が赤黒く発光し始めた。
――血が、膨れ上がっている?
そう認識した次の瞬間、その血は肉体の表面へと溢れ出し、形を変え始める。液体であるはずのそれが、意思を持つかのように凝固し、組み上がっていく。
鎧だ。
赤黒い血が、まるで鍛え上げられた鋼のように、全身を覆う装甲へと変貌していく。その光景はあまりにも禍々しく、そして――美しいとすら思えた。
私は思わず息を呑む。
血骸再構とは異なる。あれが“再生”の術ならば、これは“武装”。己の血そのものを戦闘装備へと昇華させる異形の技。
「ふう……」
やがて変化が収まる。
そこに立っていたのは、もはや先ほどまでのベルダンディーではなかった。赤と黒の鎧を纏い、全身から圧倒的な威圧を放つ存在。
騎士のようでもあり、戦士のようでもあり――ただ純粋に、“最強”という概念を具現化したかのような姿。
結界の主であるはずの私ですら、一瞬、息を詰まらせるほどの存在感。
――なるほど。これが貴様の切り札か。
「それじゃあ、続きを始めよっか――ブラム」




