第10章ー72
「ッ!? これは……」
私が印を結び、魔導結界の発動に入った瞬間、ベルダンディーの表情がはっきりと歪んだ。あの男が驚愕を隠しきれない様子を見せるなど、実に珍しい。
無理もない。この魔法は、奴に一度たりとも見せたことのない奥の手だ。幼き頃、常に先を行く奴の背中を追い、追い付くために積み重ねてきた鍛錬。その果てに辿り着いた、私だけの領域。共に戦う日々の中で使う機会など訪れなかったそれを、まさかこうして奴に向けて解き放つ日が来るとは――皮肉なものだ。あの頃の私が知れば、さぞ複雑な顔をしただろう。
「森羅万象を巡りし紅き理よ。生命の証、死の契り、幾千の鼓動を呑み込みし河よ――」
詠唱を紡ぐ。長い。あまりにも長い。だが、それこそがこの魔導結界の代償であり、本質でもある。発動に至るまで、私は完全に無防備となる。両手は印で塞がれ、他の魔法も使えない。戦場においては致命的な隙だ。
「ふっ……それが使えるとは驚いたよ。だが、完成させるほど甘くはない!」
やはり来るか。ベルダンディーは迷いなく踏み込み、一直線に私へと迫る。その判断力と速度は流石としか言いようがない。詠唱中の術者を潰す――戦いの基本を、あの男は決して外さない。
「我が印にて今一度、王座へ、還れ――!」
詠唱は終盤へ。だが同時に、奴の拳が眼前へと迫る。回避は間に合わない。そう判断した、その瞬間だった。
――ガクッ。
不意に、力の戻りきらぬ膝が崩れた。
だがそれが、結果的に命を繋ぐ。ベルダンディーの拳は、私の顔面を捉える寸前で軌道を外し、空を裂いた。紙一重。まさしく偶然がもたらした回避。
ならば、その偶然すら利用する。
崩れた体勢のまま、私は前へと踏み込み、頭突きを叩き込もうとした。狙いは単純。今の私の顔には、未だ癒えぬ傷がある。流れ続ける血。その血が奴の口腔、あるいは鼻腔に入り込めば――奴は確実に弱る。
だが、ベルダンディーもまた一流だ。私の意図を瞬時に見抜き、咄嗟に防御へと転じる。その反応速度、判断力……やはり侮れん。
「流転を拒み、循環を断ち、この地を“血の海”へと書き換えよ――」
しかし、その防御の一瞬で十分だった。私は僅かに距離を確保し、詠唱を完遂へと導く。
空気が変わる。世界の色が歪む。私の内に渦巻く血が、外界と共鳴し始める。
「《滅びの血河、開闢せよ》――!」
最後の一節を解き放った瞬間、勝利を確信した。
「【死血の決戦場】!!」
直後――私の背後の壁が脈打つように震え、そこから溢れ出したのは、鮮烈な“赤”。血だ。奔流となって溢れ出したそれは、瞬く間に空間を侵食し、床も壁も、そして空気すらも紅に染め上げていく。
ここはもはや現実の戦場ではない。血によって再構築された、私の領域。
逃げ場はない。抗う術も限られる。
「さあ、決着をつけようか、ベルダンディー」
この血の闘技場で、どちらが“上”かをな。




