第3章ー1
ドレーカ村から辛うじて脱出を果たした自分たちは、北へ向かってひたすら魔道馬を走らせ続けていた。
夜明け前の空は鈍い鉛色に染まり、吹きつける風が冷たく頬を刺す。
背後を振り返っても、かつて暮らしていた村の方向に黒煙は見えない。
それでも、追手がいつ現れるか分からないという不安が、胸の奥に張りついたまま離れなかった。
逃げ切れたのか。
それとも、まだ追われているのか。
確かめる術はない。
馬の揺れに合わせて、ミオが小さく身体を揺らしている。
幼いながらも必死にしがみつき、自分の背中に顔を埋めて耐えている姿が健気だった。
……同時に、胸が痛む。
まだ幼い彼女に、こんな思いをさせてしまっている。
「ねぇ……これから、どうするの?」
不意に投げかけられた問い。
純粋で、疑いのない声だった。
「えっ? えーっと……」
答えようとして、言葉が詰まる。
正直なところ、自分自身もこの先のことなど、ほとんど考えていなかった。
村を脱出することで精一杯だったし、そもそもこの世界の地理すら曖昧だ。
隣村の位置でさえ、昔ちらりと見た地図の記憶が、うっすらと残っている程度。
今走っている道が本当に正しいのかどうかも、半信半疑だった。
そんな自分の沈黙を埋めるように、先頭で荷馬車を操っていたラエルが口を開いた。
「このまま進めば、千キロほど北にリーヴって村がある。とりあえず、そこへ行って助けを求めるのが現実的だろ」
「っ!?」
意外なほど即答だった。
思わず目を見開く自分をよそに、ラエルは淡々と手綱を操り続けている。
「道、知ってるのか?」
「ああ。村が襲われる前、何度か仕入れの手伝いで外に出てたからな。行商路は一通り頭に入ってる」
――そうだった。
ラエルは商人の息子だ。
村で手に入らない物資を他の集落から仕入れ、行き来していた存在だった。
この世界の土地勘を持つ人間が、こんな近くにいたとは。
今になって、それがどれほど心強いことなのかを実感する。
自分自身は、この世界についてまだ知らないことだらけだ。
地図を見たことはあっても、実際に道を歩いた経験はほとんどない。
そんな自分にとって、ラエルの知識はまさに頼みの綱だった。
「……助かる」
素直にそう告げると、ラエルは鼻で笑った。
「けどな。その前に休憩だ」
「えっ? このまま向かわないの?」
ミオが首を傾げる。
「馬鹿か。寝ずに食わずに、千キロも走れるわけねぇだろ」
「うっ……た、たしかに……」
正論だった。
逃亡の緊張で感覚が麻痺していたが、自分たちは村を出てから何も口にしていない。
水一滴、食料一欠片すら取っていない状態で、さらに長距離を移動するなど自殺行為だ。
人は三日食わなくても生きられる――そんな言葉を、前世で聞いた覚えがある。
だが、その三日間を馬の背で揺られながら、全力疾走し続けろと言われたら話は別だ。
身体より先に、精神が折れる。
まして、自分たちはまだ幼い。
疲労が蓄積すれば、まともに判断することすら難しくなるだろう。
「……そうだな」
自分は息を吐き、周囲を見渡した。
追手の気配はない。
魔物の唸り声も聞こえない。
今のところ、自分たちは逃げ切れているようだった。
だが、だからといって安心できるわけではない。
この先、どこで何が起こるか分からないのだから。
「魔物も追ってきてないみたいだし、どこかで休憩しよう。できれば、水と食料を確保できる場所がいい」
「なら、心当たりがある」
ラエルが即座に答えた。
「少し進んだ先に、行商の連中がよく使う休憩地点がある。小さな泉があって、周囲も開けてる。そこなら一息つけるはずだ」
「わかった。案内頼む」
「よし、付いてこい!」
ラエルは手綱を強く打ち、魔道馬をさらに走らせた。
頼もしい。
そう感じる一方で、どこか危うさも覚える。
村が襲われてから、自分たちは一年以上も外の世界から隔絶されていた。
ラエルが以前に通った道を覚えているとしても、今もそのまま通れるとは限らない。
道の状態が変わっている可能性もあるし、魔物が住み着いている可能性だってある。
それでも、今は彼の知識にすがるしかなかった。
自分はミオの手をそっと握り直す。
小さな手が、ぎゅっと握り返してきた。
「大丈夫だ。必ず生き延びる」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
ミオを安心させるため。
そして、何より自分自身が不安に呑まれないために。
自分たちは再び北へと走り続けた。
夜明け前の冷たい風を受けながら、まだ見ぬ目的地を目指して。




