第2章ーおまけ
これは、まだ自分が四歳だった頃の話だ。
「チヤドールさん、こんにちはー!」
「おや、イノスさん。いらっしゃい!」
父に手を引かれ、自分はチヤドール家が営む薬屋を訪れていた。
村で薬を扱っている店は、ここ一軒だけだ。病気になったり、怪我をしたりすれば、村人たちは皆ここを頼る。もちろん、自分たち家族も例外ではなかった。
「ええと……湿布と軟膏をお願いしたいんですが」
「ええっ!? またかい?!」
父が注文を口にした途端、チヤドールさんが思わず声を上げた。
無理もない。
ここ最近、湿布と軟膏の減り方が異常だったのだ。
その理由については、自分自身もよく理解している。
「一昨日渡したばかりじゃないかい。どうしてそんなに必要になるのか、不思議で仕方ないよ」
「いやあ……最近、サダメの修行を本格的に始めまして……」
「それでサダメ君の怪我が増えた、と?」
「……ま、まあ、そんなところです」
父の言葉が尻すぼみになり、店内に微妙な沈黙が流れた。
そりゃそうだ。
魔法の練習だけでなく、剣の稽古まで始めたのだから。
最初は素振りだけだったはずなのに、いつの間にか木剣を使った打ち込み稽古までやるようになっていた。
その結果――ほぼ毎日のように、身体のどこかを怪我して帰る羽目になっていたのである。
四歳児にしては、なかなか過酷な日々だ。
チヤドールさんは深くため息をついた。
「確か奥さん、治癒魔法が使えたよね?」
「はい。最初のうちは治してくれていたんですが、怪我の頻度が増えすぎて……『自分でなんとかしなさい』って怒られまして」
「でしょうね」
即答だった。
母の顔が脳裏に浮かぶ。
毎日のように血まみれで帰ってくる四歳児を、笑顔で迎えられる親なんてそうそういないだろう。
しかも、治癒魔法を使える母からすれば、治したそばから次の怪我をして帰ってくるのだから、たまったものではない。
「いいかい、イノスさん。子供の怪我を軽く見ちゃいけないよ。子供の頃についた傷が、一生残ることだってあるんだから。ましてサダメ君はまだ四歳だ。身体だって、これから成長していく途中なんだよ。もう少し加減を――」
始まった。
チヤドールさんの説教が。
父は肩をすくめ、完全に反論できないといった様子で立ち尽くしている。
その表情は、母に叱られている時の父とそっくりだった。
普段は頼もしい父も、こういう時ばかりは弱いらしい。
だが――
「……確かに、仰る通りです」
珍しく父が口を開いた。
「ですが、この子には並外れた魔法の才能があります」
その言葉に、チヤドールさんの表情がわずかに変わる。
「その才能を正しく扱うためには、精神力だけでなく、それを支える肉体も必要です。鍛えなければ、逆に危険なことになりかねません」
父の声は、先ほどまでの申し訳なさそうなものとは違っていた。
「魔法の力は、使い方を誤れば自分自身を傷つけることもあります。まして、この子はまだ幼い。身体が未熟なまま強大な魔力を扱えば、どんな事故が起きるか分かりません」
チヤドールさんは、黙って父の話に耳を傾けていた。
「あの時のように、魔法を暴発させてしまえば――人を傷つけることも、この子自身が命を落とすこともあり得る。だからこそ、今のうちから鍛えておかなければならないのです」
――あの時。
父の言葉を聞いた瞬間、自分の脳裏に一つの記憶が蘇った。
初めて火球を撃った日のこと。
魔法の制御を誤り、放たれた炎が暴走しかけた。
一歩間違えれば、村を焼き払っていたかもしれない。
自分の手が焦げただけで済んだのは、ただの幸運だった。
あの時のことを、父はずっと覚えていたのだ。
だからこそ、自分を厳しく鍛えていた。
ただ強くするためではない。
自分の力を制御できるようにするため。
そして――二度と、あんな事故を起こさせないために。
父の言葉を聞いて、自分はようやくその理由を理解した。
「……言いたいことは分かったよ」
チヤドールさんは諦めたように息を吐くと、薬棚へと向かった。
「湿布と軟膏、多めに渡しておこう。ただし――無理は程々にね」
「はい。ありがとうございます」
父は頭を下げた。
その背中から、親としての複雑な感情が伝わってくる。
息子を鍛えたい。
けれど、怪我をさせたくない。
その二つの気持ちの間で、父も悩んでいるのだろう。
それでも、こうして事情を理解してくれる人がいるのはありがたいことだった。
「おーい、ミオ! ちょっと来なさい!」
薬を受け取ったチヤドールさんが、店の奥へ向かって声を掛ける。
「はーい!」
しばらくして、奥から小さな女の子が顔を出した。
チヤドールさんの娘――ミオだ。
「お父さん、どうしたの? ……あっ、こんにちは!」
「こんにちは、ミオちゃん」
父は、先ほどまでとは打って変わって優しい笑顔を浮かべた。
自分は軽く頭を下げる。
「ミオ、ちょっとサダメ君の身体を診てあげなさい。怪我の状態と、傷跡が残っていないか確認するだけでいいから」
「えっ!? わ、私が?!」
突然の指名に、ミオの顔がみるみる赤くなっていく。
「今のうちに慣れておかないと。将来、薬師になるんだろ?」
「そ、それとこれとは別!! 心の準備ってものがあるでしょ!」
「身体を診るだけだろ? ほら、この前お父さんと練習した時みたいに――」
「だからそれとこれとは違うって!!」
――ドンッ!!
次の瞬間、風の塊がチヤドールさんの腹部に直撃した。
「ぐへっ!?」
身体が宙に浮き、そのまま勢いよく吹き飛ばされる。
「お、お父さん?!」
ミオが慌てて声を上げた。
……いや、今のは完全に自業自得だろ。
「……はは。ミオちゃん、容赦ないな」
父と自分は、思わず苦笑するしかなかった。
それにしても、凄まじい威力だ。
あの風魔法を自分がまともに受けたら、どうなることやら。
父ならまだしも、自分が同じことをされたら命に関わるかもしれない。
……うん。これは良い教訓になった。
女の子を怒らせるのは、ほどほどにしておこう。
そんな騒がしい一幕を経て、結局ミオに身体を診てもらうことになった。
傷跡が残っていないかを確認してもらい、父と共に薬屋を後にする。
帰り道、父はいつも通り自分の手を引いて歩いていた。
先ほどまでのやり取りが嘘のように、穏やかな時間が流れている。
あの頃は、毎日の修行が大変で、怪我をするたびに痛い思いをしていた。
それでも、父は自分を鍛え、母は自分を心配し、村の人たちはそんな自分たちを温かく見守ってくれていた。
そして、ミオともこうして顔を合わせる機会があった。
今思えば、何気ない日常の一幕に過ぎなかったのかもしれない。
けれど――
温かくて、少しだけ懐かしい。
そんな幼い日の記憶だった。




