第2章ー16
「おい、ガキどもがいねぇぞ!?」
「クソガキども、どこへ行きやがった!」
建物の影に身を潜め、自分は魔物たちの声に耳を澄ませていた。
――やはり、気づかれたか。
自分たちが姿を消したことに気づいた魔物たちは、村のあちこちを探し回っている。
いつもなら、子供が何人いなくなろうと気にも留めない連中だ。それが今は、血眼になって自分たちを捜している。
……本当に、皆殺しにするつもりだったんだな。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
もし、あのまま何もせずにいたら。
もし、ミオが自分を信じてくれなかったら。
自分たちは今頃、あいつらの手によって――。
「……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない」
頭を振り、余計な考えを追い払う。
自分の役目は、魔物たちの注意を引きつけることだ。ミオたちが結界を解除し、ラエルたちが移動手段を確保するまで、できる限り時間を稼がなければならない。
「さて……どうやって引きつけるか」
建物の陰から周囲を窺いながら、頭を働かせる。
手っ取り早いのは、わざと姿を見せて魔物たちを引きつけ、そのまま逃げ回ることだろう。
だが、相手は三十体以上。
全員が一斉に追ってくるとは限らない。何体かが自分を追い、残りが村中に散ってしまえば、ミオたちが見つかる危険性が高まる。
かといって、こちらから一体ずつ誘い出して倒すのも難しい。相手の数が多すぎるうえ、自分には魔物との実戦経験がほとんどない。
……どうする。
考えれば考えるほど、選択肢が狭まっていく。
ふと、腰に差した業火剣へ視線を落とした。
魔物を気絶させ、動けなくする。
できるなら、それが一番いい。
だが、相手は自分たちを殺そうとしている魔物だ。手加減をしている余裕など、本当にあるのだろうか。
それに、相手を確実に無力化するには、どこまで攻撃すればいい?
そんなことを考えている間にも、状況は刻一刻と悪化していく。
「ガキを見つけたら、殺して構わん!」
「ッ!?」
魔物の一体が放った言葉に、思わず息を呑んだ。
その声を合図に、魔物たちが捜索のために散ろうとする。
まずい。
このままでは、ミオたちが見つかるのも時間の問題だ。
迷っている暇はない。
そう判断し、建物の陰から踏み出そうとした――その瞬間。
「……クッソ、めんどくせぇことになりやがった」
「ッ!?」
聞き覚えのある声が、すぐ近くから聞こえてきた。
反射的に身体を引き戻し、建物の壁に背中を押しつける。
そっと顔を覗かせると、そこには見覚えのある魔物の姿があった。
――自分を監禁していた、あの魔物だ。
心臓が嫌な音を立てる。
見られたか?
いや、まだ気づかれてはいない。
そう自分に言い聞かせるが、喉の奥がひどく乾いていた。
「……はあ、はあ……」
呼吸が乱れる。
落ち着け。大丈夫だ。まだ見つかっていない。
何度も頭の中で繰り返す。
それなのに、鼓動は一向に収まらない。
ドクン、ドクンと、胸の内側から叩かれているような感覚がする。
足音が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
距離は、もう十メートルもない。
――ここで見つかれば、全て終わる。
自分が捕まれば、ミオたちも危険にさらされる。
だから、ここで逃げるわけにはいかない。
それでも、身体は思うように動かなかった。
剣の柄を握る手に、じっとりと汗が滲む。
逃げるか。
それとも、先手を取るか。
迷いが頭の中を駆け巡る。
そして――足音が、すぐそこまで迫った。
もう、選んでいる時間はない。
――殺す。
その決意が固まった瞬間、自分は建物の陰から飛び出した。
視界に入った魔物の胸元へ狙いを定め、地面を蹴る。
業火剣を握る手に力を込め、一気に間合いを詰めた。
狙うのは心臓。
ここを貫けば、いくら魔物でもただでは済まないはずだ。
絶対に、仕留める。
そう考えながら、自分は剣を突き出した。
――その瞬間。
世界が、遅くなった。
「……え?」
何が起きたのか分からなかった。
目の前の魔物の動きが、まるで水の中にいるかのように鈍く見える。
自分の腕も、剣の切っ先も、地面を蹴った足も。
全てが、ひどくゆっくりと動いていた。
なのに、不思議なことに、思考だけは妙にはっきりしている。
――何だ、これ?
時間が遅くなった?
いや、違う。
そんなことを考えた刹那、世界が再び動き出した。
「ぐへっ!?」
気づけば、自分は魔物の身体を外れ、虚空を突いていた。
勢いを殺しきれず、足がもつれる。
そのまま地面に転がり、肘を強く打ちつけた。
「ぐっ……!」
鈍い痛みが走る。
指先が痺れ、握っていた業火剣が手から滑り落ちた。
――最悪だ。
何が起きたのか理解できない。
確かに狙った。確かに剣を突き出した。
それなのに、どうして当たらなかった?
「おい」
低く、腹の底に響く声がした。
身体が硬直する。
顔を上げることすらできない。
背筋を這い上がる悪寒が、全身を支配していた。
「どうやって抜け出したかは、どうでもいい」
ゆっくりと、足音が近づいてくる。
「今、何をしようとした?」
「……」
答えられない。
喉が張りついたようになり、声が出てこなかった。
「言わなくても分かる。俺を殺そうとしたんだろ?」
その通りだった。
自分は、こいつを殺そうとした。
皆を守るために。生きて村から脱出するために。
だから、迷いを振り切って剣を突き出したはずだった。
なのに――。
今なら、分かる。
どうして剣が当たらなかったのか。
あの瞬間、自分の身体は動いていた。
剣を握り、地面を蹴り、相手に向かって踏み込んだ。
それなのに、最後の一撃だけが届かなかった。
――恐怖だ。
頭では殺すと決めていた。
だが、心は違った。
目の前の相手を殺すことも、その相手に殺されることも、自分は本当の意味では理解していなかったのだ。
いざ命を奪おうとした瞬間、身体が無意識に拒絶した。
殺す覚悟など、できていなかった。
「人間のクソガキが……いい度胸じゃねぇか」
魔物が口元を歪める。
その表情を見ただけで、全身から血の気が引いていく。
思い上がっていた。
魔物は倒せる。
自分だって、父のように戦える。
そう信じていた。
だが、それはただの幻想だった。
自分はまだ、誰かを殺したことがない。
命を懸けた斬り合いを経験したこともない。
どれだけ身体を鍛えようと、どれだけ魔法を覚えようと、そんな経験の差が簡単に埋まるはずもなかった。
目の前にいるのは、自分よりもはるかに長く生き、数え切れないほどの命を奪ってきたであろう魔物なのだ。
「俺を殺そうとしたなら――」
魔物が一歩、こちらへ近づく。
その口元には、獲物を見つけた獣のような笑みが浮かんでいた。
「てめぇも、殺される覚悟はできてんだよなぁ?」
「……っ」
逃げなければ。
そう思っているのに、身体が動かない。
立ち上がることも、剣を拾うこともできない。
恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは、怒りに燃える魔物の顔だった。
鋭い牙。歪んだ口元。こちらを見下ろす、冷酷な眼差し。
その全てが、圧倒的な力の差を突きつけてくる。
――ああ。
ようやく理解した。
これは、自分が今まで相手にしてきたものとは違う。
魔法を覚えただけでは届かない。
強くなりたいと願っただけでも、乗り越えられない。
人間が抗うことなど許されないと、本能に刻み込まれるほどの恐怖。
自分は今、その現実を目の前に突きつけられていた。




